七月に入り、北の都には気持ちのいい夏空が広がっている。
授業が終わった大吉は、意気揚々と繁華街の通りを歩いていた。
履いているのは下駄ではなく新品の黒い革靴で、斜めがけしているズック鞄も買い直したばかりの真新しいものだ。
それらを手に入れることができたのは、先日、六月分の給料が左門から支払われたためである。
その額は十五円。
日雇い人夫が得られるのは、高くても一日に一円五十銭程度であろうか。
未成年男子や女性なら、せいぜいその半分だ。
休日は開店から閉店まで働いているが、平日は学校から帰った後の二、三時間程度なので、そう考えると浪漫亭の給料は他よりかなり高いと言えよう。
親には家賃無料で従業員宿舎に住まわせてもらっていると手紙で報告してある。
そのせいで仕送り額を減らされてしまったけれど、給料をもらっていることまでは教えていない。
仕送りに自分の稼ぎを加えたら、革靴と学生鞄、火事で失った私物を買い直してもまだ懐に余裕があった。
それを貯金しようなどという考えは大吉にはなく、目指すのはカフェーである。
(財布の中に五円を入れてきた。これだけあれば、看板女給を指名できるぞ。卒業前に大人の世界に足を踏み入れることができるんだ。どうだい、僕は大した男じゃないか!)
今日は水曜日で浪漫亭の定休日だ。
まだ午後五時と夕暮れ前だが、銀座通りに面する店々は、電飾で飾った派手な看板を掲げて、早くも夜の雰囲気を(かも)している。
この通り沿いにカフェーは五軒あって、大吉は迷うことなく“麗人館(れいじんかん)”と書かれた店の前で足を止めた。
そこは二階建て鉄筋コンクリートの洋館で、五軒のうち最も格式高いカフェーである。
ここに“牡丹(ぼたん)”という名の二十二歳の看板女給がいて、大吉が今、一番夢中になっている女性であった。
道端で待ち伏せて声をかけ、直接売ってもらった彼女のブロマイドは三枚ある。
それを眺めてにやつくだけの夜はもう終わりで、金のある今日こそは店内で、牡丹に接客してもらえると意気込んでいた。
ところが、両開きの重厚なドアを開け、一歩入った途端に、黒服を着た中年の支配人に追い返されてしまう。