「おい、相島!! 明日香を見なかったか!?」



誰もいなくなった教室で、窓の外を見ていた私に、そう声をかけたのは伊勢高広。


クラスの中でも乱暴者の部類に入っている……はずだったけど、なんだか最近は少し丸くなったように感じる。


それでも、私が苦手なタイプの人には変わりなかった。


急に声をかけられて、ビクッと身体が反応したのは、そのせいだと思う。


「明日香って誰? 私の知ってる人?」


「あー、くそっ! きいても分かるわけねぇよな」


私の言葉に、頭をかきながら、そう言って教室を飛び出した。


まったく、いきなり教室に入って来たと思ったら、すぐに出て行って。


騒がしいのは嫌いだ。


人と仲良くするのもあまり好きじゃない。


どうせ人は私の事なんて、そこら辺にある石ころと同じと思っているんだろうから。


こうして、ひとりでボーッと空を眺めている方が、誰かと一緒にいるより楽しい。


でも……いつ以来だろう?


誰かが私に声をかけるなんて。


少しうれしかったけれど、私を頼っていたわけじゃないから、どうでも良い事なんだけど。


そんな事考えていると……。


「相島ぁ! 言うの忘れてたぜ! もしも、『赤い人』を見たら、校門を出るまで絶対に振り返るんじゃねぇぞ!」


また伊勢が戻ってきた。


やっと静かになったと思ったのに、どうしてひとりにしてくれないんだろう?


伊勢が言う「赤い人」って、あの怪談話の「赤い人」?


そんなのいるわけないじゃん。


今までずっと、こうして放課後に残っているけど、一度も見た事なんてないのに。


「伊勢君は、そんな噂話を信じてるの? 私は大丈夫だから、早くその明日香って人を探して来なよ」


「お、おぅ。そうか……だったら良いけどよ」


そう言い、再び駆け出した伊勢。


騒がしくて忙しい奴。
「赤い人」を見た者は、決して振り返ってはならない……か。


あれ? もしかして、今、私は心配されたのかな?


そうだとしたら、私なんかを気にかけるなんて変なやつ。


クラスメイトからは無視されていて、誰も私の心配なんてしないのに。


「『赤い人』かぁ……放課後にひとりでいると現れるんだよね」


携帯電話を開いて時間を確認すると、もう17時を回っていた。


家に帰ってもお父さんは「勉強しろ」の一点張り、お母さんは、妹を可愛がっていて私には無関心。


学校にもうしばらくいたかったけど……赤く染まった空を見つめて、私は席を立った。


伊勢の口から「赤い人」なんて言葉が出てくるなんて、思いもよらなかった。


怪談話は嫌いじゃない。


むしろ、テレビの特番でホラー特集なんかがあると、録画までするほど好きだ。


だけど「赤い人」なんて、誰かが面白半分で広めた噂だと思う。


大方、先生達が、用事もないのにいつまでも残るなって意味を込めて作った怪談じゃないの?


そんな事を考えながら教室を出て、階段の方に向かって歩いていた時、私の目にそれは映った。








生産棟の一番奥の廊下……そこを横切る大柄な生徒。







あれは、伊勢?


まだ「明日香」って人を探してるんだ。


誰だか分からないけど、あそこまで必死に探してもらえる「明日香」って人は幸せだな。


きっと私なんて……いなくなっても誰も探してくれないと思うから。
フウッとため息を吐き、階段に視線を移そうとした時だった。











「えっ?」









視界の端に映った妙な人影。


伊勢が駆け抜けて行った生産棟の一番奥の廊下に……高校には似つかわしくない、小学生くらいの少女がこちらに向かって歩いて来ていたのだ。


なんで、こんな所に小学生がいるの?


それに、なんだか様子がおかしい。


薄暗い廊下の奥から、窓がある明るい場所まで歩を進めた少女を見て……私の心臓が、ドクンと音を立てたのが分かった。






頭の上から足の先まで真っ赤に染まったその姿は……もしかして、「赤い人」?






見ただけでそうだと分かる、異様な雰囲気。


まるで、その少女から、私を引き寄せようとする手が迫って来ているような不気味なものを感じる。


ど、どうしよう!


噂話じゃなかったの!?
それとも、誰かのイタズラ?


いや、イタズラだとしたら、誰もいないかもしれない廊下で、あんな女の子を歩かせるはずがない。


今まで見た事なんてなかったのに、なんで伊勢が「赤い人」の話をした日に現れるの!?


もしもあれが、本当に「赤い人」だとすると……私は振り返らずに校門を出なければならない。


少女は、こっちに向かって歩いて来てはいるけれど、私に襲いかかって来るような様子はない。


慌てて階段を駆け下り、踊り場に着いた時だった。
「あー、相島、相島美雪。まだ残ってたのか。ちょうど良かった、少し手伝ってほしい事があるんだが」


背後からかけられた声に、私は踊り場で立ち止まった。


この声は、担任の南田先生?


よりにもよって、振り返ってはならない時に声をかけられるなんて。


どうするべきか……私は悩んだ。


「手伝うって……な、何をですか?」


背中を向けたままで話すのは失礼かなと思いながらも、振り向けない状態に置かれている私にとっては、これが精一杯。


「赤い人」なんて、誰かが作った噂話。


そう思っていたけど、実際に「赤い人」を見てしまったから。


「いやなに、たいした事じゃないんだが。大職員室に来てくれないか?」


階段を下りて来て、ポンッと私の肩に手を置く南田先生。


でも……何かがおかしい。


先生の口ぐせは「17時までが勤務時間」で、それ以降は授業で分からなかった所を聞きに行っても教えてくれない。


それなのに、生徒に何かを手伝わせようとするなんて。


「せ、先生、ごめんなさい。私はもう帰ります」


そう言い、肩に置かれた南田先生の手に触れた時……私は気付いてしまった。





私より……手が小さい?





南田先生は男の先生で、少し太っていて大柄な体型なのに、こんなに小さいはずがない。


振り返って、そこに誰がいるのかを確認したい。


でも……振り返ってはいけないような気がする。




「やめて!」





肩に置かれた手を払い、逃げるように踊り場から一階へと走った時、それは私の視界に入った。


私がいた場所より二段上にある、赤い脚と赤いぬいぐるみが。


これは、絶対に南田先生じゃない!


声は確かに南田先生だったのに、姿はまるで違った。


「何よ……今の!」


校門から出るまで振り返っちゃいけない?


振り返らせようとしてるじゃない!!


一階に着き、生徒玄関に向かった私は、さっきの少女が追いかけてくるんじゃないかと不安になりながらも、下足箱の前まで来る事ができた。


あれが噂話だと思っていた「赤い人」?


でも、本当に見たなんて話、聞いた事がないのに。


伊勢は、この事が分かっていて私にあんな事を言ったの?


だとしたら、伊勢は「赤い人」を知っているのかな。


まさか、伊勢が「赤い人」を操ってるって事は……さすがにそれは考えすぎだろうな。


急いで靴を履き替えて、生徒玄関のドアから外に出ようとした時だった。









キィィィィ……。







開いていた生徒玄関のドアが音を立てて、私の目の前で閉じられたのだ。


「う、嘘……ど、どうして!」



何が何だか、訳が分からずに、ドアに駆け寄った私はさらに絶望を味わう事になる。


ドアが……開かない。


一ヶ所だけじゃない。隣のドアも、その隣も、私を外に出すまいという意思が働いているかのように次々と閉じて行く。


「赤い人」を見た者は、校門を出るまで決して振り返ってはならない。


簡単な条件のはずなのに、こんなに難しいの?


どうしようもない現実に落胆している、私の背中に、何者かの視線が突き刺さるのを感じた。







誰かが……私を見ている。





もしかして、「赤い人」が追いかけて来たの?


でも、噂だと、振り返らなければ大丈夫なはず。


胸が……苦しい。


怪談が好きだったのは、私にそんな事が降りかからなかったからで、まさか自分の身にこんな事が起こるなんて。


背中に感じる恐怖が、心臓をつかんでいるような苦しみを私に与える。







シャッ。





シャッ。






視線の主が、私に近付いて来る足音が聞こえる。


「だ、誰か! ここを開けてよ!! 助けて!」


振り返る事ができない恐怖と、背後に迫る足音に、私はドアを叩いた。


ガラスが割れるかもしれないけど、そんな事を言っている場合じゃない。


そんな必死の訴えもむなしく、目の前のドアは軽く前後に揺れるだけ。


このままじゃ……私は殺されるかもしれない!


ドアの取っ手を持ち、力いっぱい押そうとした時。







うつむいた私は、ドアの取っ手をつかむ白い手が、私の背後から脇の下を通って伸びている事に気付いたのだ。







背筋に走る悪寒に震えて、もう叫ぶ事もできない。