わたしが首をかしげると、卓巳は言いづらそうに言葉を探しながら話した。
「いや、こんなん言うたら嫌な思いさせるかもしれんけど。
ほら、俺も高校のときに水野と付き合ってたから」
彼の言わんとしていることが、わかった。
つまり――わたしのトラウマ。
卓巳はあれを心配してくれているんだ。
「うん……。不安はあるけど、彼とふたりで乗り越えようって決めたから」
「そうか」
――この先、瑠衣への愛が大きくなるにつれ、忌まわしい記憶がわたしを襲うようになるかもしれない。
だけど瑠衣は、言ってくれたんだ。
ふたりでなら乗り越えられるはずだって。
わたしもその言葉を信じてみたい。
いつかダメになる“かもしれない”というだけで、もう離れるのは嫌だから。
瑠衣にとって高校最後の夏休みが、アブラゼミの鳴き声と共にやってきた。
じりじりと音をたてそうなほど熱くなったコンクリートに、黒く焼け付いた建物の影。
泳げないわたしですら海に行きたいなんて思ってしまうほど、この年の夏は猛暑だった。
もちろん海に行く暇などなく、ほぼ毎日、予備校の夏期講習に追われていたけれど。
そんな中でも、時々は授業が終わってから瑠衣と待ち合わせして、わたしの部屋で短い時間を過ごした。
高校の制服を着ることがない日々は、わたしたちをほんの少し大胆にした。
8月に入ったある夜、わたしと瑠衣はいつかのライブハウスに出向いた。
「えーっと。受験勉強もせずにギターばっかり弾いてて、昨日、親父にゲンコツ食らわされました~」
ステージでマイクを持ってそう話すのは、栗島くんだ。
以前見た初ライブのときよりずっと堂々としていて、ギターをかまえる姿もさまになっている。
ライブハウスの中は、夏の暑さとは別物の熱に包まれていた。
人と人がぶつかって生まれる熱気。
人間の熱さだ。
前は苦手だと思ったのに、今日は不思議と嫌じゃなかった。
となりに瑠衣がいてくれたからかもしれない。
「んじゃ1曲目いきます」
ダダン! という軽快なドラムの音を合図に演奏が始まった。
思わず、口をぽかんを開けてしまった。
前に聴いたときとは比べ物にならないほど、上達していたから。
そりゃあ練習していればうまくはなるだろうけれど、予想をはるかに超えていた。
他を圧倒するほどの成長スピードは、若さの特権だろうか。
栗島くんの表情は真剣でありながら、楽しそうな余裕が垣間見えた。
それはきっと、自信の表れ。
隣を確認すると、瑠衣もわたしと同じように口を開けてステージに見入っていた。
「俺」
わたしにしか聞こえないような声で、瑠衣が言った。
「久しぶりに栗島の演奏みたけど、感動したかも」
瑠衣の声を、客の声援がかき消した。
そのあと他のバンドと合同の打ち上げに、わたしたちも参加させてもらった。
ベーシストの先輩が勤めているというバーを貸しきって、決して広くはない店内に30人くらいが集まっている。
栗島くんはわたしたちの姿を見つけると、立ち話する人の間を縫って、小走りで駆け寄ってきた。
「水野先生! 来てくれたんですか!?」
半年ぶりに見る、彼の笑顔。
変わっていなくてホッとした。
あの頃――栗島くんは、瑠衣とわたしの仲を心配してくれていたのに、わたしは黙っていなくなったんだ。
きっと、ガッカリさせてしまったと思う。
だけど今、こうして以前と変わらない態度で接してくれる栗島くん。
やっぱりいい子だなあ、とつくづく感じた。
「ライブ、すごいよかったよ。うまくなっててビックリした」
「ホンマですか? 嬉しいなあ」
栗島くんは見ているこっちが清々しくなるほど、喜びをあらわにする。
「俺も今日ばかりはお前を尊敬したぞ」
と瑠衣が言った。
「うわっ。瑠衣が俺のこと褒められるとか、ありえへん。
何かたくらんでるんちゃうやろな?」
「俺だって褒めるときは褒めるっちゅーねん」
結局、いつものようにじゃれ合いを始める彼ら。
その様子は数ヶ月前までの予備校の風景を、わたしに思い出させた。
だけどあの頃とは決定的に違うものがあった。
放っておけばいつまでも遊んでしまう彼らを、母親のようにまとめる役割を担っていた女の子。
……彼女の姿だけが、ここにはない。
「おー、栗島ぁ」
突然、男の人が声をかけてきた。
「あっ! ショータさん。お疲れ様です」
栗島くんはその人を見て、ぴしっと姿勢を正した。
ショータさんと呼ばれた男の人は、たぶんわたしと同い歳くらい。
服の上からもガッチリとした体格が見てとれる、少しいかつめの風貌。
「お前さあ、めっちゃ上達したな」
ショータさんはタバコに火をつけながら言った。
「初めて見たときは正直、こらアカンわ思ったけど。今日は良かった。
お前、努力したんやな」
「……」
栗島くんが何も反応しないので見てみると、彼は目にうっすら涙をうかべて、顔中から感動をあふれさせていた。
「ありがとうございますっ」
ショータさんが他の席に移動しても、栗島くんはいつまでも頭を下げていた。
「――俺な、あの人に憧れてバンド始めてん」
いまだ興奮のさめない表情で、胸のうちを語って聞かす栗島くん。
まわりの席では酔ったバンド仲間たちが騒いでいるけれど、そんな声もまったく耳に入らない様子だ。
「一年前に初めてショータさんのライブ見て、衝撃受けてさ。
俺、単純やからあの人みたいになりたくて、ギターを始めた」
彼は熱っぽい口調で語る。
憧れの存在を思い浮かべる瞳は、痛いくらいにまぶしい。
わたしと瑠衣は相づちを打ちながら聞いていた。
「まさかショータさんに褒めてもらえるとか思ってなかったから、嬉しかったなあ」
そこまで言うと、栗島くんはテーブルの上のグラスをぐっと握った。
「頑張ってよかった……」
誰かの背中を追いかけること。
気づけば全力で走っていること。
その尊さを、栗島くんはたぶん無意識に理解しているんだ。
帰ったらまた親父に怒られるなあ、と苦笑いするその顔は、今まで見たどの笑顔よりも輝いている。
帰り道、瑠衣はいつもより口数が少なかった。
何かを思いつめたような表情の彼に、わたしは瞳でたずねてみた。
「なんか……栗島、カッコよかったな」
瑠衣がぽつりとつぶやいた。
「俺、今まであんまり夢とか考えたことなかったから。
今日のあいつ見てると、いろいろ考えさせられた」
「瑠衣は、瑠衣のペースでいいんだよ?」
「うん、でも」
彼の足が止まる。
「情けないけど、俺は今までずっと、ぬくぬく守られて生きてきたんやと思う」
ああ、この子も変わろうとしているんだ、と感じた。
加速する成長のスピードに、わたしは少し怖くなる。
「俺、今まで自分で何か努力したこともなかったくせに、満たされてるんが当たり前やと思ってた。
だから親が離婚したときも取り乱すだけだったし」
「………」
「今度の受験、本気でがんばるよ」
つないだ手に力がこもった。
「親父の金で大学行くんはシャクやけどさ。
胸張って行けるように、精一杯がんばって勉強する」
「うん」
瑠衣は微笑んで、わたしに手のひらを差し出す。
どこからかノラ猫の鳴き声が聞こえる夜道を、同じ歩調でふたり歩いた。
たまたまそこに受験があった。
それだけの理由かもしれないけれど、瑠衣は次の日から努力の人になった。
夜中に眠れなくて月を眺めていたら、瑠衣から月の写メールが届いて驚かされたこともある。
同じ空を見ていたことは嬉しかったけど、そんな時間まで勉強している彼の体が心配だった。
【無理しない程度に頑張ってね。おやすみなさい】
返信をする必要がないように、わざと“おやすみ”を付け加えたメールを送る。
大人になっていく彼への、わたしからのエール。
前を向いて努力する彼がまぶしくて、
そんな姿をすぐそばに見られることが、嬉しかった。
……だけど、わたしはまだ言い出せずにいた。
打ち上げの店で、瑠衣が席を外したとき、栗島くんとひそかに交わした会話のことを。
――「先生、あいつとうまくいったんですね」
あの日、お手洗いに行く瑠衣の背中を見ながら、栗島くんはわたしに耳打ちした。
「うん、おかげさまで」
「よかった。半年前に先生が消えたときは、あいつすげえ落ち込んでたから。
うまくいってくれて俺も嬉しいです」
親友ならではの言葉だった。
そして栗島くんは、もうひとりの親友のことも口にした。
「涼子の気持ちは、瑠衣も気づいたと思います」
「え?」
急に言われたので思考がストップしてしまった。
混乱するわたしに、栗島くんは簡潔に、けれど現実をしっかりと伝えてくれた。
「先生の悪口を流してたの、涼子やったんです。瑠衣の耳にもそれが入って、あいつら気まずくなってもーて。
それ以来、涼子もなんか人が変わったってゆうか、あんまりいい噂聞かんようになったし」
こないだも大学生風の男と飲んで酔いつぶれていたらしい、
と栗島くんはクラスメイトから聞いた話を教えてくれた。
わたしだって、涼子ちゃんの存在を忘れていたわけじゃない。
だけど瑠衣の口からは何も聞かされなかったから……。
彼らが子供の頃から保ってきた、幼なじみという図式は、わたしが加わったことであっけなく壊れてしまったんだ。
瑠衣の心情を思うと、胸が苦しくなった。
「あ、でも先生は気にせんといてくださいね。あいつらだって、ガキの頃からの付き合いなんやし、いつまでも避けたままってことはないやろうし」
「うん……」
だったらいいけど、とつぶやきながら、
わたしは心の中で別の感情が生まれていくのを自覚する。
――こんど瑠衣と涼子ちゃんが向き合ったときは、幼なじみの関係ではいられないだろう。
そんなの、絶対に嫌だった。
願わくば彼女の気持ちが冷めるまで、気まずいままでいてほしい。
瑠衣の幸せを望む一方でこんなことを考えてしまうわたしは、やっぱり最低な人間なのかな。
『んー。最低ってわけではないけど』
数日後、電話で卓巳に相談すると、返ってきた答えはこうだった。
『あんまり褒められた感情じゃないわな』
「……だよね」
わたしだって、自分のエゴが嫌になる。
涼子ちゃんのことを恋敵みたいに思いたくないのに。
そもそも瑠衣と涼子ちゃんはずっと親友で、ふたりの仲が気まずくなった原因はわたしだ。
だからふたりには仲直りしてほしいのに、その光景を想像すると、情けないほど怖くなった。
――『片瀬くんには、絶対もっといい子がいるから』
半年前に自分が言った言葉が、心に重くのしかかる。
あのとき瑠衣は、わたしの言葉を否定してくれたけれど。
いつか彼だって、そうだよなって気づくときが来そうで怖いんだ。
瑠衣は、毎日をすごい成長のスピードの中で生きている。
明日の彼はもうわたしなんか見ていないかもしれない。
1年後の彼は、別の女の子を想っているかもしれない。
子供時代のトラウマに囚われて過去を生きているようなわたしは、置いていかれるかもしれない。
『でもそれって、おかしくないか?』
卓巳が言った。
『ふたりで乗り越えるって誓ったんやろ?
でも結局、問題はお前自身にあるっていうか』
的を射た言葉に、わたしは思わず黙ってしまった。
『お前はトラウマのせいで、自分が“普通じゃない”って思ってるんやろ?
それで相手のことまで疑心暗鬼になるのは、おかしいで』
本当にその通りだと思った。
わたしは自分で背負わなきゃいけない部分まで、瑠衣に頼っていたんだ。
彼がわたしの過去を受け入れて、支えてくれようとしているのをいいことに。
『あ……。なんか俺、水野の気持ちとかわからんくせに偉そうでごめんな』
しゅんとした声であやまる卓巳は、わたしの気持ちはわからないかもしれないけれど、わかろうとしてくれている。
7年前、わたしを献身的に守り、そしてわたしに裏切られた人。
言葉の重みが、そのまま心に響いてくる。
「ううん。ありがとう」
卓巳と電話を切ってから、わたしはずっと考えた。
どうすればいい?
かつての卓巳と同じような想いを、瑠衣にさせないためには。
過去にも未来にも縛られず、彼を愛するためには。
もやもやとした気持ちで予備校の廊下を歩いていると、瑠衣の姿を見つけた。
自習室で机に向かう真剣そのものの横顔。
声をかけようとして、やめた。
瑠衣をわたしの松葉杖にしてはいけないんだ。
支えてもらうということは、その場所から動けなくなるということ。
手を離す瞬間の恐怖に、きっと耐えられなくなってしまう。
わたしは、わたしの足で。
歩き出すために、どうすればいい?
「わたし、決めたよ」
その言葉をやっと言えたのは、2ヶ月後だった。
突然真剣な顔をして言い出したわたしに、瑠衣は首をかしげた。
「決めたって何が?」
問いには答えずに携帯を取り出し、電話帳を開く。
そして、隣で不思議そうに見守ってくれる瑠衣の手を握り締め、発信ボタンを押した。
『――もしもし』
「あ、お母さん? 葵やけど」
電話をかけた相手が母親だとわかると、瑠衣はますます困惑した表情でわたしを見た。
『葵が電話してくるとかめずらしいやないの。どうしたん』
「うん……あのね」
深く深く息を吐いて、そして吸う。
「最近、叔父さんと連絡とってる?」
「えっ」
思わず隣で声を出してしまった瑠衣は、あわてて口元を手でおさえた。
張りつめた表情をする彼に、「大丈夫だよ」と瞳で伝えて、わたしはお母さんとの電話を続けた。
『いきなりどうしたん?』
「いや、ほら。お正月に帰ったときも、叔父さんたち忙しくて来てなかったし」
『それが……最近はほとんど連絡とってないんよ。
経営してる工場が危ないらしくて、それどころじゃないみたい』
お母さんの声がヒソヒソと小さくなった。
きっとそばにお父さんがいて、話しづらいんだろう。
「そっか、わかった」
『何かあったん?』
「ううん。久しぶりに叔父さんに会いに行こうかと思っただけ。
今は大変そうやから、落ち着いてからにするよ」
そう言ってわたしは話を終わらせた。
電話を切って隣を見ると、疑問たっぷりの瑠衣の顔があった。
「葵……」
「わたしもね、前に進みたいねん」
彼をまっすぐに見上げて言った。
「何もしないまま過去に怯えるのは、もう嫌なの」
「でも叔父さんに会うんは危険やろ。またトラウマが――」
「よみがえると思うよ」
瑠衣は言葉をのんだ。
「きっと苦しいし、会ったからって解決するとは、わたしだって思ってへんよ。
でも何もしないまま過ごしていたら、今までと同じことになってしまうから……」
ぎゅっとまぶたを閉じて、わたしは言った。
「いつか、瑠衣に抱いてもらえなくなるから」
「……」
こんなことを言うわたしを、瑠衣はどう思うかな。
先のことを予測して不安になるなんて馬鹿げてる、そう思ってあきれたかもしれない。
だけどこのままじゃ、いつか必ず“その日”がやって来るんだよ……。
心が近づけば、体が離れる。
瑠衣とは、そんな終わり方をしたくない。
「心配しなくていいからね」
いかにも心配そうな瑠衣に、先回りして言った。
「瑠衣が頑張ってるように、わたしも頑張りたいねん」
だけど、声が震えていた。