「だって、あんなふうに聞いてくるなんて、最悪でしょ」


昨日のことを思い出してむすっとしながら言うと、碧がなだめるように頭を撫でてくる。
その感触に一瞬ドキッとした。


「あたしの気も知らないでさ……」


口を尖らせつぶやいたあたしに、碧は予想もしていなかった一言を返してきた。



「わかるわけないよ。だって、先生は蒼唯じゃないんだから」



「えっ……」


わかるわけないって……。



「デリケートな問題なのにっていう蒼唯の言葉もわかるけど、先生は蒼唯本人じゃないから、どれだけ蒼唯がつらかったかなんてわからないよ。わかるわけがない。考えることは出来るかもしれないけど、100%蒼唯の気持ちを知るなんてこと出来ないよ」


「碧……」


「だから、あえて蒼唯に聞いたんじゃないのかな。蒼唯にとってつらい質問だったとしても、蒼唯の気持ちを少しでもわかってあげるために」


そうか……それであんな……。
澤田先生が、碧の言った通りなことを思っていたのかはわからないけど、そうだったとしたらあたしが怒るのは筋違いかもしれない。先生は、あたしのつらさをわかろうと、歩み寄ろうとしてくれていたのかもしれないんだから。







碧に言われるまで気づかなかった。
自分がつらい状況にいると、どうしても自分中心で物事を捉えてしまう。
先生は、平気であんなことが言える無神経な人なんだと思い込んでしまっていた。


そうだよね、先生とあたしは、まったくの他人。
言わずとして、お互いの気持ちを100%わかりあうことなんてまず出来ない。考えようとすることはできても、理解するのは難しいんだ。


「ごめんなさい、碧。あたし、嫌なふうにしか先生のこと見ようとしていなかった……」


素直に反省すると、「俺に謝らなくていいよ」と、碧が目を細めて笑った。


「次会った時、今度はちょっとだけでも蒼唯の正直な気持ちを伝えてあげればいいんじゃないかな」


「次……か。また来てくれるかな……」


澤田先生に失礼な態度をとってしまったから、もう見放されてしまったかもしれない。また来るとは言っていたけど、どうなんだろうか。
あたしだったら、あんなふうに拒否反応を示されたら例え自分の教え子でも会いたくないと思ってしまう。


かと言って、先生に会いに行くためにだけに学校に行くなんてことはもちろんできない。


でも碧は、自信満々に、それでいてのんびりとした口調で答えた。



「大丈夫だよ」







その声に顔を上げると、碧はあたしを見てもう一度「大丈夫」と言ってくれた。



「蒼唯、君はひとりじゃないから」



そう言ってあたしの頭を撫でる碧。


温かい言葉に、優しいてのひら。
それらが心地よくて、“ひとりじゃないんだ”と素直に思えた。



「ありがとう、碧」



学校では誰も助けてくれる人なんていなくて、あたしは孤独な人間なんだと思ってた。


でも、今隣には碧がいる。


少し不思議なところがあるけど、あったかくて、優しい碧が、あたしの冷えた心に寄り添ってくれている。


これのどこがひとりぼっちだと言うのだろうか。


「碧に出会えてよかった……」


我ながら恥ずかしいぐらいにクサイ台詞だなと思うけど、自然とこぼれた言葉だった。


いじめられていなかったらこの川に来ることなんてなくて、碧に出会うこともなかったんだ。


そう考えると、いじめられてよかったのかな、なんて変なことを思ってしまうぐらい、碧と出会えたことが嬉しかった。


「俺も……。蒼唯と出会わせてくれた神様に心から感謝してます」


青空に向かって微笑みながら、碧がつぶやいたのが聞こえた。







学校に行かなくなって2週間。


いつもの川に来ては碧と一日中おしゃべりするという変わらない毎日を過ごしている。


今日はいつもより早く起きて、あたしはキッチンであるものを作っていた。


「そう、それでね、そこにブロッコリーを入れて彩りを良くして……」


隣にいるお母さんからアドバイスを受けながら、言われたとおり小さな丸いハンバーグの横にブロッコリーを入れる。


「あたし、あんまり野菜好きじゃないから入れたくないんだけどなぁ」


「何言ってんの。蒼唯が食べるんじゃないんでしょ?」


お母さんが呆れたように言う。
あたしは「えへ、そうでした」とおどけてみせて、最後に中のおかずが潰れないように丁寧に蓋をかぶせた。


「完成ー!蒼唯の特製手作りお弁当!」


そう、作っていたのはお弁当。
もちろん、碧にあげるためのもの。


実は、碧に助けてもらったお礼がしたいとずっと思っていて一番渡しやすいお菓子にしようかと考えていた。
でも甘い物が苦手だったりしたら困るし、もう少し手が込んだものがいいかなと結局手作りのお弁当を渡すことに。


本当は自分の分のお弁当も作って一緒に食べるつもりだったんだけど、碧の分を作るのに必死すぎて忘れていた。今から作るには、時間も気力もないからさすがに無理。
まあ、でも碧に食べてもらえればそれで充分だ。







「それにしても、一体誰に渡すのかしらねぇ。お母さんに教えなさいよ〜」


お弁当箱をバッグに詰めていると、お母さんがニヤニヤしながらあたしの肘をつついてきた。


「な、内緒!」


照れ臭いから適当にあしらったけど、お母さんは「もしかして彼氏〜!?」となおも食い下がる。面倒くさい。


「最近よく出かけるのって、彼氏とデートだったからなの?」


「彼氏じゃないって!命の恩人なの!」


はぐらかしたようだけど、間違ってはいない。
でもお母さんは納得がいかないのか、「ふーん?」と少し疑うような目をする。


ていうか、仮に彼氏だったとして、毎日のようにデートなんてする余裕があったら学校に行くっつーの!


「じゃあ、いってきます!」


心の中でズバッとツッコミを入れたあと、あたしはこれ以上お母さんから追求されないように、さっさと家を出ていつもの川へ向かった。


碧、喜んでくれるかな。
全部食べてくれるといいんだけど……。


勝手に、いつもの碧の優しい笑顔を想像してみる。


自分で想像しておいてなんだけど、その笑顔があまりにもふわふわで気の抜けた表情だったものだから、思わずひとりで笑ってしまった。








いつものように川へ向かうと、先にいた碧が土手で寝転んでいて。


お昼ご飯にしては少し早い時間だったけど、早く碧の反応が見たくて、会うなりすぐにお弁当を渡してしまった。


「蒼唯?これ……?」


「きょ、今日のお昼ご飯!碧の分の。作ってみたからよかったら食べて」


いきなりのことにびっくりしたのか碧は目をぱちくりさせながらお弁当箱を開ける。


お世辞でも綺麗なお弁当と言える出来ではないけど、ありがとうの気持ちはいっぱい込めたつもり。


「助けてもらったのと、いつもお世話になってるお礼です!」


今までの碧を見てきて、優しい彼ならきっと食べてくれるだろうとあたしは勝手に思っていた。


でも……。



「……ごめん、蒼唯。ほんとにごめんね」



絞り出されたような声で謝られたあと、差し出したお弁当は碧本人の手によって突き返されてしまった。


「え……」


何で、と訴えるように碧を見ると、碧は申し訳なさそうに苦笑してもう一度「ごめん」と謝ってきた。


「俺、ここのとこあんまりお腹すいてなくて食べれないんだ。だから気持ちだけ受け取っておくよ」


確かに、気持ちはいっぱいこもってるから、食べなくても充分伝わるはず。


だから、それでも別にいいんだけど……。


今日早起きして碧の喜ぶ顔を想像しながら、自分なりに一生懸命作ったんだけどなぁ。







「わかった。お腹すいてないなら仕方ないよね」


精一杯笑い返して、あたしはお弁当を再び自分のバッグに戻す。


「本当にありがとう、蒼唯。すごく嬉しいよ。
でも、それは蒼唯が自分で食べて。どうせ、俺の分しか考えてなくて、自分の分作ってないんでしょ?」


バッグのチャックを閉めようとした手がとまった。


「そ、そんなへましないし……」


思わず俯く。


耳まで真っ赤になっているところを見られたくなくて。


「嘘でしょ?もう、あおちゃんはおっちょこちょいなんだから」


くそう、何でわかっちゃうんだよ。
恥ずかしいじゃんか。



あたしは自分のことなんて忘れるほど、たぶん碧のことしか見えてないんだ。



「……今度また作るから、そん時は食べてよね」


私の言葉を聞いて、碧は一瞬切なそうに目を伏せたあと、すぐにいつもの笑顔を戻って頷いた。



「うん……ありがとう、蒼唯」



でも、次もきっと食べてはくれないと直感でそう思った。なんとなく。


出会いが突然だったりしたのもあって、碧はどこか浮世離れしているようなふうに見えてしまうことが多々ある。


きっと、あたしの手料理が食べられないことも何か理由があるような気がした。







「そういえば、あれから先生は来てるの?」


「ああ、うん。ほぼ毎日来てるよ。ちょっとしつこいぐらい」


澤田先生は、正直ただの甘ちゃんな頼りない人だと思ってたけど、意外にも熱意溢れる人だったらしい。
毎日のようにあたしの家に足を運んできている。


とりあえず今のところは、あの日みたいに何で不登校になったのか突っ込んでくることはない。代わりに、何故かあたしの今日一日の出来事を聞いてきて、それに対して「楽しそうだね」とか「先生は今日ね」とかいろいろ反応を示してくる。


まあ一言で言えば、わざわざ人の家に雑談をしに来ているというわけだ。


「澤田先生、やっぱり生徒の面倒見よかったんだね」


「……どうだかねぇ」


ごろんと寝転び、青い空を眺めながらぼんやりとつぶやくと、碧があたしの視界に半ば無理やり入り込むように顔を覗き込んできた。


「ダメだよ、蒼唯。そんなこと言っちゃ」


「なっ!ちょっ……近いっ」


碧の前髪があたしの顔にかかるぐらいの至近距離にびっくりして、あたしは思わず碧の額をぺしっとはたいてしまった。


顔は真っ赤になり、心臓もドキドキと音をたてて落ち着かないというのに、そんなあたしをよそに碧は説教を始める。







「蒼唯。澤田先生は、蒼唯の為に忙しい中家まで来て、蒼唯の抱えた傷を少しでも理解しようと頑張っているんだと思うよ。だから、その先生の行為を素直に受け止めなきゃ」


碧は起き上がり、人差し指を立てて次々と小言をぶつけてくる。


「あー、わかったって」


あたしはそんな碧に目もくれず、寝転んだまま赤い顔を見られないようにそっぽを向いた。


「……あたしは、学校では独りぼっちだと思ってたんだけどなぁ」


「自分が気付かないだけで、意外と身近に自分の味方になってくれる人がいるものだよ」


碧がふふっと笑う。


そして、あたしの頭をそっと撫でて、憂いを帯びたような少し低いトーンで言った。


「だから、蒼唯が助けた美空ちゃんも、唯一自分に味方をしてくれるはずだった蒼唯を裏切っちゃったんだから、可哀想な子だよね」


碧の言葉に、あたしは思わず眉間にしわを寄せる。


美空とのこと、忘れようにも忘れられないぐらい、あたしの中では嫌な思い出として強く残っている。


「美空の話はいいよ。思い出したくない」


「美空ちゃんは、蒼唯に助けてもらってもまだ、心までは救われていなかったのかもしれないね」


「碧」


美空の話はやめて、と訴えるように思いきり睨むと、碧は苦笑して「そうだね、ごめん」と言ってそれきり美空の話題は出てこなくなった。