夏が近づいてきて、日が暮れるのもだいぶ遅くなってきたというのに、学校を出る時にはもう暗くなっていた。


つまりは、今はだいぶ遅い時間なわけであって。


でもあたしは、美空と別れたあと、どうしても碧に話がしたくていつもの川まで走ってきた。


「碧!いないの?碧っ!」


川辺のほうは薄暗さが際立っていて降りるのが少し怖かったから、橋の上から名前を呼ぶ。


今日はここには来ないと決めていたけど、美空の話を聞いたらどうしても気になってしまった。


昨日、碧が言っていたことの意味は美空が言ってたことだったのか。
もしそうだったとして、どうして碧が、そのことを知っていたのか。


「みどっ……」


「何?」


……!!


突然、背後に気配を感じてあたしはバッと振振り返る。


そこには、さっきまで誰もいなかったはずなのに、目尻を下げて微笑んでいる碧の姿があった。


なんだか、最近それまで人の気配なんてなかったのに碧が突然現れる、ということが多くなったような気がする。気のせいかな……?


まあ、それはいいとして。


「碧!昨日言ってたこと!あれって!」


話がまとまらないうちに話し出してしまい、ついつい体ごと前のめりになってしまった。


「えーと、とりあえず落ち着いて」


少し困ったように笑いながら、碧が両手のひらをあたしのほうに向けて“待った”ポーズをする。


あたしはそれに習い、二三度大きく深呼吸をしてからもう一度切り出した。







「碧、昨日言ってたでしょ?あたしや美空がいじめられてる理由、考えたことあるかって」


「うん」


「あたし、自分がいじめられるのは美空を庇ったからっていうのはわかってたけど、あの大人しい美空が清水さんに目をつけられるようなことをしたなんて、碧に言われた時はどうしても思えなかったの」


碧がまた「うん」と優しく相づちを打つ。


「でも、碧が言ってたことがずっと引っかかってて。だから今日、美空に聞いたの。心当たりないかどうか」


それで、美空から聞いた清水さんとの中学の時の出来事を話した。


「たぶん、それがきっかけで清水さんは変わっちゃったんだと思うんだ」


「そっか、そうだったんだね」


“そうだったんだね”?


碧の返答に違和感を覚える。


「碧、そのこと知ってたわけじゃなかったの……?」


「ううん、知らなかったよ」


「ええっ!?」


意外な言葉に、思わず声を上げて驚いてしまった。


てっきり碧は知っていたのだと思っていた。
だから、“助けてあげる”なんて言ったのだと。


「じゃ、じゃあ!何で……知ってたから昨日……!」


「それは……なんとなく、かな」


にこっと、いつもより少し無邪気な笑顔を浮かべる碧。


でも、そんな理由で納得するわけない。


ずっと不思議な人だとは思っていたけど、碧は一体何者なんだ?







あたしは気になって、さらに問い詰めた。


「なんとなくってどういうこと?」


「そのままの意味だよ」


碧はさらに目を細めて、今までよりも一際優しい目であたしを見た。



「ずっと、蒼唯のことを見てきたから、その周りのことだって少しならわかる。それだけだよ」



あたしのことを……ずっと……?


顔が熱くなり、心臓が大きく波打つ。


すごく嬉しい言葉だ。
でも、それよりも疑問に思うことの方が多い。


「ずっとってどういう意味?だって碧は、この川を渡った先の隣町に住んでる人なんでしょ?ついこの前に初めて会ったばかりで……」


立て続けに質問をするあたしが必死すぎておかしかったのか、碧はクスクスと笑う。


「この間も言ったでしょ。俺と蒼唯は前に会ったことがあるって」


「それは……」


確かにそう言われたけど、あたしには碧と以前にも会って話した記憶がないから、いまいちピンとこない。


碧はくせ毛をふわりと揺らしてあたしに向き直ると、



「大丈夫。もうすぐで全部わかるから」



意味深な言葉だけを残して、それからは何を聞いても答えてはくれなかった。







あれから、一週間が経った。


テスト返却のあとからも、清水さんからはちょこちょこと絡まれることはあったものの、今までみたいな嫌がらせを受けることはなかった。


嵐の前の静けさ、みたいな。
毎日のように嫌がらせを受けていたせいで、それがなくなった今、そんな恐ろしさを感じる。


いじめられないなら、それに越したことはないのに、おかしな話だ。


だからあたしは、美空がひとりにならないように、休み時間中はなるべく行動を共にしていた。


そんな、ある日のこと。



「あなた達、いつからなの?」



放課後、あたしと美空は、担任の澤田先生に呼び出された。


「何がですか?」


「いつから、いじめられるようになってたの?」


あたしが聞き返すと、先生は真剣な顔でもう一度言った。


「えーっと……」


その質問に、あたしと美空はお互いの顔を見合わせる。


美空はやっぱり自分のせいだという負い目があるのか、言いにくそうに苦笑している。
だから代わりに、あたしが答えた。


「あたしは入学して少しした頃からで、美空はそれよりも前からです」


「そうなの……」


澤田先生がため息をついた。







「川原さんが学校に来なくなったのも、それが原因だったのね……」


あたしは、黙って首を縦に振った。


まだ先生になって若い先生。
自分が受け持っているクラスでいじめが起きているとわかって、きっとショックを受けているんだろう。


だからあたしは、結局ずっと、不登校になった理由を先生に言えないでいた。


「でも、あたしなんかよりも、美空のほうがずっとつらかったと思う」


「そんなっ!私はもう慣れちゃってるっていうか……」


あたしが言うと、隣の美空が慌てて両手と首を横に振る。


そんなあたし達のやりとりを見て、澤田先生はすごく悲しそうに眉を下げて頭を抱えた。


「ごめんなさいね……。あなたたちがずっとつらい思いをしてたのに、全然気づいてあげられなくて……」


涙目になる先生。



「教師失格だわ……」



先生……。


碧のあの言葉が、頭の中によみがえる。


“蒼唯、君はひとりじゃないから”


あたしが学校に行ってなかった間、毎日あたしの家まで来てくれた澤田先生。


あたし達生徒のことを、先生はここまで真剣に考えてくれていたんだ。


「先生、顔上げてよ」


あたしが明るい声で言うと、先生はゆっくりと顔を上げ、丸い目を向けてきた。







あたしは、そんな先生に、碧さながらの笑顔を浮かべて、碧さながらの穏やかな口調で言った。



「先生。あたしは、先生が毎日家まで来てくれてたおかげで、もう一度学校に行こうって思えるようになったんですよ」



もちろん美空のおかげでもあるけど、と付け加えて隣の美空に視線を移す。美空は、少し照れくさそうに笑った。


それを見てから、もう一度先生に視線を戻す。


きっと、碧ならこう言うんだろうな。
あたしも……同じ気持ちだよ、先生。



「だからね先生。先生は、教師失格なんかじゃないよ。生徒思いなすごく素敵な先生だよ」



始めは確かに、先生に対して嫌な印象しか持っていなかった。


でもね、自分の事だけじゃなく、周りにも目が向けられるようになったら、先生の一生懸命なところに気づけたんだ。


「川原さん……!」


「私もそう思ってます。だから、教師失格なんて悲しいこと言わないでください」


美空も、あたしと同じように笑顔でそう言うと、先生は顔を歪ませて顔を両手で覆う。


「やめてよ二人共〜!先生泣いちゃうじゃない〜!」


というか、すでに泣いてしまっている先生。


くしゃくしゃな顔は、いつもの綺麗な姿とは違ってブサイクだった。


「先生、いつでもあなたたちの力になるから、何かあったら言ってね。できる限りのことはするから、ね」


鼻をティッシュでかみながら何度も念を押す先生に、あたしと美空は「ありがと、先生」と返した。


……涙と鼻水でぐちゃぐちゃな先生は、素敵な教師の姿をしていた。








その翌日。
英語の授業中に事件は起きた。


「それじゃあ、今日は英単語の小テストをやります」


澤田先生の言葉に、クラスの皆がざわめきだす。


「えー!いきなりー!?」


「何の勉強もしてないですよー」


「大丈夫。ちゃんと勉強する時間を取りますから!成績にはいるから、皆真面目にやってね」


不満を言う生徒たちに、澤田先生は鼓舞するように両手をパンと叩いてそう言った。


――ピーンポーンパーンポーン。


〈澤田先生、澤田先生。お電話が入っております。至急職員室まで……〉


するとその直後、校舎内に放送が入り、澤田先生は職員室へと向かうように呼ばれた。


「じゃあ、先生が戻ってくるまでテスト勉強しててください。戻ってきたらすぐやるからね」


そう残すと、先生は教室を出て行った。


しばらくして、騒がしくなる教室。
友達同士で一緒に勉強を始める人や、黙々とテスト勉強を始める人。成績なんてどうでもいいのか、居眠りしている人もいる。


あたしも、とりあえず勉強しようと教科書を開く。


どっちかっていうとあたしは文系なんだけど、英語だけはあんまり得意じゃないんだよね……。


美空に教えてもらおうと思ったけど、美空はすでに自分で勉強を始めていたので、邪魔になるかと思い、あたしも自分1人で頑張ることにした。







しばらくは騒がしかったクラスメイトたちも、成績に入るとわかっているからか、真面目にテスト勉強をし始めた。


静かな教室に、シャープペンシルを走らせる音だけが響く。


えーと、テスト範囲の単語はこれだから……とりあえず3回ずつぐらい意味と一緒にノートに書いたら覚えられるよね。


黙々と単語を書き続ける途中で、シャープペンシルの芯がポキッと折れてしまった。


すると、それと同時にこの静寂を破った生徒が、1人。


「ねーねー、須藤さん?」


……!!


清水さんの声だった。


呼ばれた美空が、びくりと肩を跳ね上がらせて、清水さんのほうに顔を向ける。


「ななな、なに……?」


恐る恐る返事をすると、清水さんは意外な言葉を口にした。


「この単語の意味がわからないんだけど、教えてもらえる?辞書、今日忘れちゃって」


ニコニコしながら、自分の席まで来るように美空に手招きする清水さん。


ただ、普通にわからないところを頭のいい子に聞いているっていうだけの場面。どこの学校でもよくあるだろう1コマ。


でも、あたしの心臓はうるさかった。


今までしばらく何もしてこなかったいじめの首謀者が、その対象である美空に助けを求めるなんて、何か企んでいるに違いない。


でも……本当にわからないところを聞いているだけという可能性も否定できないのも事実。


美空もそう思ったのか、ビクビクしながらも清水さんのもとまで答えを教えてあげに行った。







「これで、答えがこうです……」


「あ、そっか!ありがとう、美空ちゃん!」


わざとらしい名前呼びが癇に障る。


あたしは、美空が清水さんのところまで行って教えているところをずっと見てたけど、特に変わった様子はなかった。


気になったのは、美空の席のあたりを取り巻きたちが何回か通り過ぎたことくらいで、それ以外は何もない。


美空は、心配そうなあたしの視線に気づき、口パクで“大丈夫だったよ”と伝えてくれた。


それにホッと安堵の息をつくと、教室のドアがガラリと開き、澤田先生が戻ってきた。


「皆おまたせ!さあ、テストやるわよ!」


バサバサと、各自が教科書をしまう音が聞こえる。


あたしも教科書やらノートやらを片付け、シャープペンシルと消しゴムだけを机の上に置いた。


配られたテスト問題は、思っていたよりも少し難しいもので、あたしは頭を抱えながらもなんとか問題を解いた。


「はい、終了。じゃあ、問題用紙を列の一番後ろの人が集めてきてー」


先生の言葉に習い、後ろの席の人が、順番に問題用紙を集めていく。


「難しかったねー」とか「全然できなかったー」とか、再びざわつき始めるクラスメイトたち。


そんな中、美空の席の方から一際大きな声が上がった。