あの夏を生きた君へ







本当に数秒、あたしたちは無言で見つめ合った。




そんな異常な状況に気づいて、先に目を逸らしたのはあたしの方だった。



すると、彼は初めて声を発した。

「ちづ」、と。



何で…名前知ってんの?



驚いて、再び彼の目を見た。


「…何…?誰?」







彼は、そのキラキラとした瞳をばあちゃんに向けると小さな笑みを落とした。



「明子とした約束を果たしにきた。」





言ってることの意味が分からない。


全然分からない。






でも、彼の視線の先にいるあたしのばあちゃんの名前は“手嶋明子”だ。


彼は一体――…?
























【不思議な少年】


















雷は遠ざかっている気がしたが、豪雨はいつまで経っても変わらなかった。



雨音に耳を傾けながら、あたしはずっと彼の靴を見ていた。

ボロボロの靴は元の色が何色だったのかも分からないほど変色して赤茶けていた。


彼は、行儀良く足を揃えて座っている。




廊下に置かれた黒い長椅子に腰を下ろして、あたしはふっと気が抜けたような溜め息を吐いた。




病院の暗さには多少慣れたけど、少し離れた所にある自動販売機の明かりにはやっぱり救われる。


だから、あたしは自分が蛾になったような気がした。
団地の踊り場の裸電球に群がる蛾の一匹に。











あたしと彼の間に会話はなく、だからといって不思議と気まずいとは思わなかった。



聞きたいことはたくさんあったけど、ハッキリ言うと面倒くさい。

頭の中はグチャグチャに散らかっていて何から聞けばいいのか分からないし、最終的にはいつものように“どうでもいい”という答えに辿り着いてしまう。




ただ、あたしは彼が言った「約束」について考えている。


「明子とした約束を果たしにきた」と、彼は言った。



可笑しなことを言うもんだと思う。

明子だなんて…多分ばあちゃんのことなんだろうけどメチャクチャだ。

タチの悪いイタズラか、からかってんのか…。



どちらにしても雨が止んだら帰ろう。




その時、突然彼が口を開いた。


「寒くないか?」


「え?」



ハッキリとした声だったのに、聞こえていたのに、あたしは思わず聞き返してしまう。
だって、あんまり突然だったから。





「寒くないか?」


「あ、うん、大丈夫。」


そう答えると、彼は安心したように笑った。










「一人か?」


「は?」


「一人で来たのか?」


「…うん。」


……何なの?

怪訝な表情をしているあたしに、彼は「そうか」と呟いた。


それから、天井を見上げて、まるで独り言みたいに言った。



「こんな時間に…恵が心配するだろう。」





彼の口から出た“恵”という名前が、あたしの心臓を凍りつかせた。


あたしのお母さんの名前は、“桐谷 恵”だ。



マジで訳が分からない。




あたしのことを“ちづ”と言った。

ばあちゃんを“明子”って呼んで、お母さんを“恵”…。


コイツ…本当に何なの?誰なの?




面倒くさいって片付けていいことじゃないと思った。


ぜったい普通じゃない。

だって、コイツがあたしを知ってたとしても、あたしはコイツを知らないのだ。








「…ねぇ、何で?何で、あたしのこと知ってるの?」

恐る恐る尋ねると、彼は困ったような顔をした。




「それは…ずっと見てたから。」


「…は?え?」


「ちづが知らないのは当然だ。
でも、僕はずっと見てた。
ちづが生まれた日のことも、よく覚えてる。恵が生まれた日のことも。」



……この人、頭可笑しいの?つーか、マジでヤバい奴?


もう何を言っていいか分からなくて困惑しているあたしに、真面目な顔をして彼は言う。


「それにしても驚いたな。」


「…え?」


「ちづに僕の姿が見えるとは。驚いた。」


それから嬉しそうに笑った。

「夢みたいだ。」





あぁ、もう無理だ。

そう思った。


あたしは何一つついていけないし、だんだんとこんな変な奴と話してることがバカらしくなってきた。


だって、ぜったい頭可笑しいじゃん、この人。




溜め息を落として、あたしは目を閉じた。

腕を組んで俯く。
雨、早く止んでくれないかな。




「…あまり恵に心配かけるな?」


彼の声はちゃんと耳に届いていたけど、あたしはもう無視した。













気づくと、窓から陽の光が差し込んでいる。


いつの間に寝てしまったんだろう。
雨は上がっていた。


病院の椅子の上で眠っていたせいか、身体が痛かった。

腕を伸ばしながら、あたしは思う。



あれは夢だったのか?

目覚めると、彼の姿は消えていたからだ。




もしかしたら、と思ってばあちゃんの病室の扉を開けてみたけど、やっぱり彼はいなかった。

ただ、眠ったままのばあちゃんがいるだけ。


「…やっぱり夢か。」



それにしても、いやに鮮明な、はっきりとした夢だったような気がする。

「…変な夢。」




ぼそっと独り言を呟いた直後、あたしはハッとした。




残っていたからだ。

あの、物が燃えたあとのような、鼻をつく焦げ臭い匂いが。


……全部、夢じゃなかった。
確かに、彼はここにいたんだ。




それは、何だか不思議な気分だった。

現実だと思うと余計に。

夢ならまだ理解できるのに現実だったなんて。






だとしたら、彼は結局何だったんだろう。


あたしはすっかり途方に暮れる。




いくつもの疑問とモヤモヤした気持ちを抱えたまま、病院を後にした。














空は昨夜の雨が嘘だったみたいに晴れ渡っていた。





家に帰るとお父さんは仕事に行ったあとだったけど、お母さんにキツく叱られた。


「煩いなぁ」とか「ウザイ」とか、いつものように言い返してたちまちケンカになる。


ガミガミガミガミガミガミしつこいくらいに怒るお母さん。

「心配してたのよ!」、「どこに行ってたの!?」、「傘もささないで風邪ひくでしょ!」。


もう、うんざりした。
いい加減にしてくれって感じ。



面倒になって自分の部屋へ行こうとしたら、お母さんが呼び止めた。


「ちづ!今日、ばあちゃんの家に行くからついてきて。」


「無理。」


「どーせ暇なんでしょ!」

お母さんは怒っている口調のまま言い放つ。










「空気入れ換えたり、掃除したりするの手伝いな。分かった?」


「勝手にやれば?」


「アンタ、暇でしょ!お母さん、夕方からまたパートなの!時間ないんだから!」


あたしは舌打ちをする。
わざと聞こえるように。

マジで早く大人になって、こんな家出たい。


「あー!生まれてこなきゃ良かった!本当ヤダ!」


「はい、はい。忙しいんだから動く、動く。」


お母さんはサラリと受け流す。


そういう感じが余計にムカつく。




頭にカァッと血が上って、あたしは壁を思い切り蹴った。

派手な音が響き、後ろからお母さんの溜め息が聞こえた。