ばあちゃんの家は、団地からそう遠くはない。
家々が密集するように立ち並ぶ下町にあって、細い道が複雑に入り組んだ一角にある。
年季が入った木造の平屋で、あたしのお母さんはそこで生まれ育った。
あたしが生まれてすぐにじいちゃんは死んだから、それ以来ばあちゃんはずっと一人暮らし。
一人で住むには、デカすぎる家かもしれない。
そういえば、ばあちゃんに会うのは久しぶりだ。
親が共働きだから、昔は毎日のようにばあちゃんの所で夕飯を食べて、ばあちゃんと一緒に眠っていた。
でも、中学生になると、あたしも色々忙しくて毎日が大変で、一人でカップラーメンを啜るような夕飯にも慣れてしまった。
外から眺めるばあちゃんの家は、そのせいかなんだか懐かしい気がした。
【裏切り者】
玄関の引き戸を開けると、ばあちゃんの家の匂いがした。
「ばあちゃーん。」
サンダルを脱いで上がっていく。
ボーン、ボーンと鳴る壁に掛かった振り子時計が丁度3時を知らせていた。
「ばあちゃん?」
台所、居間と見ていくが、ばあちゃんの姿はない。
その時、涼しげな風鈴の音が聞こえた。
あたしは、その音に誘われるようにして、長く真っすぐな廊下を歩いた。
半開きになっている襖を見つけて覗いてみると、チリンチリンという風鈴の音と共に、ふわりと心地良い風を感じた。
その部屋は六畳の和室が三つ、襖で仕切れるようになって横に繋がった広い部屋だ。
かつては、じいちゃんとばあちゃん、あたしのお母さんを含めた五人姉妹の七人家族が布団を敷いて寝ていたのだろう。
キョロキョロと見渡していると、縁側にばあちゃんが座っていた。
開け放った窓から風が吹き込み、風鈴が鳴る。
ばあちゃんは背筋をピンと伸ばして座り、煙草を吸っていた。
座る時、ばあちゃんは昔から姿勢が良い。
「ばあちゃん。」
声をかけると、ばあちゃんはゆっくりと振り返った。
「あら、ちづ。」
真っ白な髪が風に揺れて、細い目を更に細めて笑った。
「お母さんから、からあげだって。」
「あらあら恵から?悪いねぇ。」
マイペースなばあちゃんは独特のゆったりとした調子で言った。
あたしは、ばあちゃんの隣に腰を下ろす。
縁側から見えるのは、小さな庭。
右側には、ばあちゃんが作っている家庭菜園があって、左側には赤やピンク、白い花が咲き誇る。
花のどれかは酔ってしまいそうになるほどの強い匂いを放っていて、二匹の蜂が周囲をぐるぐると飛んでいた。
「また少し背が伸びたかい?」
「うーん、分かんない。」
そう答えると、
「ちづは健やかだねぇ。」
と、言って笑うばあちゃん。
ふふふっと可愛らしく笑う。
「健やかだねぇ」というのは、ばあちゃんの口癖だ。
でも、あたしは「健やかだねぇ」の意味が、いまいちよく分からないのだった。
「今日、夕飯食べてくよ。」
「はぁい。」
ばあちゃんは間延びした返事をしながら、しわしわの手で煙草を吸った。
もう80だというのにヘビースモーカーなばあちゃんを、あたしは気に入っている。
「そうだ、スイカでも切ってこようね。」
そう言って、ばあちゃんは銀色の灰皿の中で煙草を消して、立ち上がった。
腰が曲がっているせいか背が小さいばあちゃんだけど、歩く時はしゃかしゃかと歩く。
ばあちゃんは、ゆったりおっとりしてるのに意外とすばしこいのだ。
お母さんが変なことを言ってたから実は少し心配したけど、元気そうだったからホッとした。
切ってきてくれたスイカはよく冷えていて甘かった。
暑くて喉がカラカラだったから、あたしはスイカの美味しさに妙に感激してしまった。
ばあちゃんは、そんなあたしを見て嬉しそうに笑う。
あたしがよく食べて、よく眠って、よく遊ぶと、
ばあちゃんは嬉しいらしい。
ふわっと、また風が吹いて、ばあちゃんの真っ白な髪が流される。
量の少ない前髪が風で踊ると、ばあちゃんの広い額が露になった。
すると、肌の色より薄くなって浮かび上がっている傷痕が丸見えになる。
もう、いつのことだかも覚えてないけど何気なく聞いたら、ばあちゃんはそっと傷痕に触れながら、
「若い時の傷さ」と言って遠い目をしていた。
“若い時”とやらを思い出していたのかもしれない。
日が暮れて、ばあちゃんは台所で夕飯の準備をしていた。
包丁で何かを切る音とか、コトコトと何かを煮込んでいる音がする。
そのうち、食欲を誘う良い匂いもしてきた。
あたしが思わず「お腹すいたぁ」と呟くと、ばあちゃんの「ふふふっ」という笑い声が返ってきた。
ばあちゃんが作る料理は決して手が込んでいるわけじゃないと思う。
でも、シンプルなばあちゃんの料理があたしは大好きだ。
テーブル、というよりはちゃぶ台、を囲んで二人で夕飯を食べる。
近所の精肉店で売っている好物のからあげを、ばあちゃんはゆっくり、ゆっくりと口に運んでいた。
あたしは久しぶりに、ばあちゃんが作っただし巻き卵とポテトサラダを食べた。
この2品はあたしにとって、ばあちゃんの料理の中でも1位と2位を争うエースなのだ。
「いいねぇ。たくさんあるから、たくさん食べなぁ。」
パクパクと頬張るあたしを見つめるばあちゃんの眼差しがあまりにも優しくて、急に照れ臭くなる。
そういえば、最近、ご飯を美味しいと思いながら食べてなかったかも…。
ばあちゃんの料理があたしに馴染むのは、あたしがばあちゃんの料理で育ってきたからだ。
小さい頃から親は共働きで、あたしはばあちゃんに育てられたようなものだと思っている。
親はウザくて煩くて文句も言いたくなるけど、ばあちゃんに言われると途端に素直をなってしまう。
あたしは、昔からばあちゃんっ子だった。
手を繋いで駄菓子屋に行ったり、怖い夢を見たら一緒に眠ってくれたり。
そうだ、
あたしが十円玉を飲み込んじゃった時も、もう真冬の夜だったのに背中におぶって病院まで走ってくれたっけ。
なぜだろう。
ばあちゃんとの思い出が、いくつもいくつも脳裏に浮かんでは消えていった。
久しぶりにばあちゃんの料理を食べているから懐かしくなったのかな。
「…ばあちゃん、あたし学校行ってないの。行きたくないの。」
ポツリと呟く。
ばあちゃんに、聞いてほしいと思った。
ばあちゃんになら、話せると思った。
あたしは、これまでのことを話した。
愛美とは、小学校で出会った。
もうずっと親友で、
それは中学生になっても変わらないと信じてた。
実際、1年の時は別のクラスだったけど、あたしたちはいつも一緒だった。