私と母はその後、慣れ親しんだ町へ戻りました。
食べていくことで精一杯の厳しい暮らしでしたが、灯火管制がなくなり夜は明るくなりました。
空襲に怯えることもなくなったのです。
月日が経ち、私は食品会社で事務の仕事を始めました。
お見合いで知り合った方と結婚して、五人の娘たちにも恵まれました。
夫は警察官で、無口な人でしたが優しい人でした。
娘たちも健やかに育ち、皆結婚して家を出ていきました。
振り返ってみると、私はとても幸せな人生だったと思います。
苦しかったことも、辛かったことも過ぎてしまえば、さらさらと鳴る砂のような思い出に変わっていました。
でもね、時々ふいに思うのです。
夫が先に旅立ち、もはや一人きりになった家の中で。
例えば、いつかの夕暮れのような朱色に染まった空を見上げていると。
例えば、頭の毛が薄くなるにつれ見えだした傷痕に触れていると。
例えば、たった一枚の、古い写真を眺めていると。
ずっと昔の記憶が、まるで昨日のことのように鮮明に甦ってくるのです。
そして、記憶の中には必ず幸生くんがいました。
幸生くんは、瞳を輝かせて笑っているのです。
すると、私の心も少女だったあの頃に戻っていくようでした。
きっと、幸生くんはどこかで見守ってくれている、
私はそう思っています。
毎年、夏になると、
私は遠い夏の日を思い出します。
私たちが懸命に生きた、生きようとした、あの日。
1945年、夏。
私たちは確かに生きていました――…。
【君が生まれた日】
夜空に花が咲く。
山から見る花火は見上げる必要なんてなくて、光の束が散っていく光景を、あたしは間近に感じた。
「“死ね”なんて簡単に言うな。
“死にたい”なんて簡単に言うなよ。」
そう言って、彼は悔しそうに泣いた。
泣きながら、怒っていた。
あたしも、泣いていた。
生きていることを、
初めて愛しいと思った。
「死ね」とか「死にたい」とか、あたしはいつも軽々しく口にしてた。
その言葉の重さも知らずに、まるで口癖みたいになってた。
怒られて当然だと思った。
ばあちゃんにも合わせる顔がない。
あたし、サイテーだ…。
「……ゴメン。」
ばあちゃんのことだって全然分かってなかった。
知ろうともしなかった。
戦争とか、あたしには関係ないって思ってた。
教科書に出てきても、ちゃんと聞いてたことなんかない。
どうでもいいって思ってた。
「…ゴメン…。」
今、当たり前にあるものは、当たり前だって思ってた。
感謝なんかしたことなかった。
「あたし…。」
「もういいよ。」
彼は涙を拭いながら笑う。
「分かったから、ちづの気持ちは。もう謝るな。」
それから照れくさそうに、
「泣くなんて男らしくねぇよなぁ。」
と、顔を背けてしまった。
「もう懲り懲りだ。あんなことを繰り返したら、人間は今度こそお仕舞いだ。」
彼が呟く。
あたしは食べる物に困ったことも、着る物に困ったこともない。
住む家に困ったことも、大好きな人が亡くなったこともない。
ただ、毎日退屈で、うまくいかないことばっかで、いつもイライラしてて……それだけ。
嫌がらせとか、人間関係とか…本当それだけだ。
家は貧乏だけどお父さんもお母さんもいて、
一人ぼっちだなんて思うけど本当はそうでもなくて。
あたしには、ばあちゃんもいた。
教室には悠がいて、ウザイと思うこともあるけど結局いつも味方でいてくれる。
あたしは、自分で勝手に遠ざけて見ないようにしてたんだ…。
その時、いくつもの花火が、
ドドンッ!ドドンッ!ドッ!ドッ!
と、連続して上がった。
「花火の音を聞くと空襲を思い出すよ。」
彼が言って、あたしはその横顔を見つめた。
すると、ふっとあたしに笑いかける。
「なんてな。」
「…笑えないよ。」
目を逸らすと、彼はとても本当とは思えないくらい穏やかな声で、「そうか」と言う。
「なぁ、ちづ。当たり前に明日があるなんて思うなよ。」
彼の言葉一つ一つに重みを感じる。
「死んだら天国に行けるとか、そんなこと本当は誰にも分からない。
きっと生きてりゃ良いことばかりじゃないんだろうけど、僕はそれでも生きたかった。
嫌なことも、悲しいことも受け入れて、生きていたかった。」
胸に突き刺さる彼の気持ち。
あたしの心が、痛い、痛いって叫んでた。
「僕は後悔だらけだ。でも後悔しても遅いことがある。
ちづにはそんな思い、してほしくない。
生きろよ、何があっても。」
あたしは黙って頷いた。
彼は、それを見て小さな笑みを零す。
彼の顔を花火が照らしていた。
「それに、ちづの命はちづだけのもんじゃない。」
「え?」
首を傾げるあたし、
彼は楽しそうに言った。
「生まれた日を覚えてるか?」
生まれた日…?
「ちづが生まれたのは、14年前の5月20日。
真夜中だった、生まれた頃にはもう外は明るくなってたな。
ずっとそわそわしてたちづのお父さんも、へとへとになってちづを産んだ恵も、ちづの顔を見た途端に泣いたんだよ。」
「え?」
「ちづが生まれてきてくれて本当に嬉しかったんだ。
あれは幸せな涙だった。ちづの産声にも負けないくらい二人とも泣いて喜んだんだ。
明子も駆けつけて大騒ぎだった。」
彼の話を聞きながら、あたしは目を閉じた。
瞼の裏に、お父さんとお母さんの顔が浮かんだ。
「“鶴のように長生きし、たくさん幸せがめぐりますように”、そう思いを込めて『千鶴』と、二人が決めたんだ。」
あぁ…また泣いてしまう。
もう、無理だった…。
「名前には生まれてきた命への願いがあると思う。
『千鶴』って名前には、きっとたくさんの愛が詰まってるんじゃないか?」