あの夏を生きた君へ






「絶対に行く。必ず行く。」


「でも…。」


「宝物を開ける約束だってある。」



いつもの、眩しいくらいの笑顔で幸生くんは言いました。


「僕は約束を破ったりしない。必ず行くから。」





繋いだ手を放し、「大丈夫」とでも言うように幸生くんは笑いました。





「先に行ってて、必ず行くから。」、
私に出来たのは祈るような気持ちでその言葉を信じることくらいです。










炎の町に消えていく幸生くんの背中を、私は見つめていました。



















火の雨が降り、家屋は次々と燃えて崩れていきます。

B29のエンジン音も未だ聞こえていました。





川には既にたくさんの人がいます。


助かる、そう思った私の期待は、でも一瞬で消えていきました。


人の流れに押されて膝から下が川に浸かってしまった時です。

私は言葉を失いました。



川の水が熱いのです。



辺りを見ると、流れてくる浮遊物が燃えていました。

その中には、人の姿もあります。





川は、燃える町を映して赤く染まっていました。


それでも、熱さと喉の渇きに耐えかねた人たちが川へ飛び込んでいくのです。



まるで血の川、地獄でした。






私は必死の思いで川から這い上がろうとしました。



生きたい、生きたい…生きたい!



息が荒く、涙が零れてきます。

嗚咽を漏らしながら、地面に爪を立てました。










生きたい!


















どのくらい時間が経ったことでしょう。


気づけば空襲も終わり、火も消えていました。

夜が明け、日が昇ろうとしています。




力尽きて座り込んでいた私は、のろのろと立ち上がりました。





辺り一面、茶色の世界。


何もありません。



焼け野原になってしまった町は遠くまで見渡すことができました。



たった一夜にして、何もかもを焼き尽くした炎。


町であった場所に足を踏み入れると、焼け跡はまだ熱いのです。


私の瞳から、また涙が零れました。




戦争の意味も、苦しさや辛さも、よく分かっていなかった私。

食べる物がなくても、
着る物がなくても、
毎晩の空襲も、
兄の出征も、
お国のためなら仕方がないとどこかで思っていた私。


バカでした。


本当に本当にバカでした。











だらしなく涙を流しながら、私は焼け跡の中に立ち尽くしていました。








頭からの出血はいつの間にか止まり、私の手には自分の血で赤く染まった幸生くんの防空頭巾があります。



それをぎゅっと抱きしめて、私は泣き続けました。





















「明子!」


「お母さん!」


避難所で再会できた母に、私は駆け寄りました。

母は涙を流しながら「良かった、良かった」と何度も言います。



ここへ辿り着くまでに、私は残酷な光景をたくさん見ました。


黒焦げになって重なり合った死体の山。


手足がバラバラになった死体は道の真ん中にありました。


防空壕にみっしりと詰まった死体を前にして、大声で泣いている人も見ました。
黒焦げの死体、ピンク色の死体。
おそらく蒸し焼きになってしまったのだと思います。




惨い、そんな言葉では片付けられないほど酷い光景。

私は自分が助かったことが不思議でした。




「お母さん、幸生くんは?小夜子ちゃんは?」


「…分からないの。」


そんな…。


お母さんの話によると、幸生くんのお母さんは無事だったそうですが、幸生くんと小夜子ちゃんは行方不明のままでした。


「幸生くんのお母さん、幸生くんたちを探しに行ってるの。」



私は、最後に見た幸生くんの姿を思い出していました。
炎の町に消えていく後ろ姿を。




幸生くんは、「必ず行くから」と言いました。

約束をしました。


幸生くんは、嘘をついたりしません。




「お母さん、私も探す。」













それから、私たちは幸生くんと小夜子ちゃんを探し続けました。




更に、私と母は家があった場所にも足を運びました。



でも、家はありませんでした。



私たち家族の家は、父が残してくれた薬局ごと跡形もなく焼けていたのです。


お隣の幸生くんの家も、ありませんでした。






焦げ臭い匂いが残る焼け跡の中に、溶けたガラスが転がっています。





私は泣きました。


母も泣きました。




心も、身体も、疲れ切ってしまいました。
















幸生くんと小夜子ちゃんは見つからないままでしたが、死体の回収をしている様子をよく目にするようになりました。

回収しているのは兵隊のようです。


死体をトラックの荷台に積み上げていくのを、私は見つめていました。




もしも幸生くんがいたら…。

小夜子ちゃんがいたら…。



そこまで考えて、私は自分が恐ろしくなりました。



幸生くんも、小夜子ちゃんも、もしかしたらどこかで生きているかもしれないのに何を考えているのか。





私は幸生くんの言葉を信じています。


でも、日が経つにつれて不安はどんどん大きくなっていきました。

私の心は揺れていました。


不安に押し潰されてしまいそうだったのです。














もう見つからないかもしれない、という諦めさえ感じ始めた頃のことです。


その日も死体の片付けをしているトラックを見つけて、私と私の母、幸生くんのお母さんはじっと見つめていました。




すると、突然幸生くんのお母さんが、

「あ…。」

と、呟きます。


幸生くんのお母さんは、目を見開いて微動だにしません。


私は視線の先を目で追いました。





トラックの荷台に、こちらに顔を向けている死体があります。

肌は焼け爛れて茶色くなり、腕はだらりと垂れ下がっています。



始めは分かりませんでした。



でも、目を凝らしてよく見てみると、それが幸生くんだと分かります。






私は呆然としていました。


何も考えられない。
何も言葉が見つかりません。




「幸生ーーッ!!!」


横で幸生くんのお母さんが叫びました。
私は、その声をとても遠くに感じます。










幸生くんのお母さんは、トラックまで駆け寄りました。


「幸生…幸生…。」

まるでうわごとのように繰り返しながら、幸生くんの顔や肩や腕に触れていきます。


そして、小刻みに震える身体で、縋りつくように幸生くんに覆いかぶさりました。




「何で…こんなことに…。」


私の母は涙を流しながら言いました。




私はふらふらとした足取りで、幸生くんのもとへ歩いていきました。


服は焼け、焦げ臭いだけではない酷い匂いがしています。




そっと、指先に触れてみました。



何の…何の温度もありません。



幸生くんは、もう空っぽなんだと思いました。


まるで眠っているかのように、穏やかな顔をした幸生くん。

あの綺麗な瞳に出会えることは、もう二度とないのです。



そして、私の頬を涙が伝っていきました。