「明子。」
「何?」
「…疎開するかもしれない。」
私は、驚いて声も出せません。
ただ、色鮮やかなおはじきを、ぎゅっと手の中で握りしめていました。
「母さんの実家なんだ。準備も出来ているから早く来いって。」
「…うん。」
「母さんはまた体調が良くないし、小夜子はまだ小さい…だから。」
「…そう。」
夏の爽やかな風が吹き渡っていました。
葉が騒めいて、草も流れるように揺れています。
私は、何も言えません。
俯いて黙り込む私の頭に、幸生くんの手が触れました。
そして、兄の手よりも少し小さな手は不器用に私の頭を撫でました。
「…二度と会えないわけじゃない。」
「本当?」
私が尋ねると、幸生くんは少し考えてから言いました。
「宝物を埋めよう!」
「え?」
「いつか、また会えた時に二人で開けるんだ。
僕の宝物と、明子の宝物を入れて、見つからないように隠しておくんだよ。」
「でも…どこに埋めるの?」
幸生くんは、「そうだな…」と呟いてから、再び考えているようでした。
その時、急にブワッと激しい風が吹いて、私は堪らず目を閉じました。
風の中で、私は幸生くんの声を聞きました。
先程のように、幸生くんの手が私の頭に触れた時です。
ゴォという風の音に紛れて、幸生くんは言いました。
「――――…。」
私が顔を上げると、得意気に笑います。
風はいつの間にか止んでいました。
「誰にも見つからないだろ?」
「…うん!」
翌日。
幸生くんと私は宝物を埋めました。
お互いに何を埋めたのかは知りません。
開ける時のお楽しみです。
「また会えるよね?」
「あぁ。」
「約束よ。」
「あぁ。でも明子はのろまだからな、心配だ。」
「のろまって言わないで!」
お喋りをしながら、
笑いながら、
宝物を埋めました。
本当はとても寂しかったけど、笑いました。
幸生くんも笑顔です。
二人とも、不思議と浮かれていました。
「また会えるよね?」
「しつこいなぁ。」
「だって!」
夕暮れの帰り道でも、私が同じことばかり言うので幸生くんは苦笑します。
でも、それからとても小さな声で、
「…僕は必ず戻ってくるよ。」
と、言いました。
けれど、あまりに小さい声だったので、私は聞き逃してしまったのです。
「何て言ったの?」
すると、幸生くんは顔を真っ赤にして、ずんずんと一人で歩いていってしまいます。
「幸生くん!どうしたの?」
「何でもねぇ!」
私は訳も分からず、朱色に染まる幸生くんの背中を追いかけていました。
明日、幸生くんたち家族はこの町を出ていきます。
今夜は、この町で過ごす最後の夜でした。
私は、布団の中で目を閉じていました。
いつか、また会えた時。
口には出来ないけれど、いつか戦争が終わったら。
二人で宝物を探すのです。
それを想像すると、今から楽しみです。
そして、その頃にはきっと、私の心にある温かい気持ちの正体も分かることでしょう。
幸生くんを見ていると楽しいのに苦しくて、嬉しいのに切なくなる、
この不思議な気持ちの正体を知りたかったのです。
私は、約束の日を夢見ていました。
でも、二人が交わした約束は、
果たされることのない約束だったのです。
私と幸生くんの、
本当の別れは、
突然やってきました。
それは、午前二時を過ぎた頃だったでしょうか。
今夜も空襲警報が鳴りました。
私はその怪音で目を覚ますと、ぼんやりとした頭に慌てて防空頭巾(※中に綿を詰めて作った布製の頭巾)を被ります。
「明子!いつもと違うの!急いで!」
血相を変えた母に急かされながら、二人で家を飛び出しました。
外に出て私の目に映ったのは、真っ赤な炎の海でした。
逃げ惑う人々、黒煙が上がり、空にはB29(※重爆撃機、大量の爆弾を搭載して長距離を飛べた)の群れが飛んでいます。
ついに、この町にも…焼夷弾(※小型爆弾、高熱で燃焼し広い範囲を焼いて破壊する)が落とされたのです。
手の平に嫌な汗をかいている私の手を、母がぎゅっと握ります。
私たちは防空壕まで必死の思いで走りました。
私は、悪い夢を見ているような気分でした。
現実でなく、これが本当に夢だったならどんなに良かったことか。
真夜中だというのに、空も、地上も、不気味なほど赤いのです。
『死』の恐怖、それをひしひしと感じました。
防空壕に辿り着くと、中にはすでに近所の人たちや幸生くんたち家族の顔がありました。
「明子!」
「幸生くん!」
私と幸生くんは、
まだ眠いのか、しきりに目を擦る小夜子ちゃんを真ん中にして肩を寄せ合いました。
蒸し風呂状態の防空壕の中に、縮こまって座ります。
こんな時にお兄ちゃんがいてくれたら、どれほど心強いことでしょう。
外では凄まじい叫び声と爆撃音が続いています。
本当に…本当に日本は勝てるのでしょうか。
「勝った、勝った!」と言うけれど、本当に大丈夫なのでしょうか。
食べる物も着る物もなく、皆大変な思いをしています。
空襲だって、ほとんど毎晩なのです。
そんなことを考えていた時でした。
幸生くんが不意に呟いたのです。
「生きよう、何があっても。」
その言葉は、本当に心強く私の胸に響きました。
たとえ焼夷弾の炎に町が焼き尽くされようとも、私たちは生きているのです。
食べる物がなくても、着る物がなくても、生きているだけで充分でした。
「ぎゃあぁぁーー!!!」
外から聞こえるこの世のものとは思えない叫び声。
そのすぐ後、近くで大きな爆撃音が鳴り響きました。
地面が揺れ、壕の中でも悲鳴が上がります。
「防空壕も危険だ!蒸し焼きになるぞ!!」
男の人の大きな声が外から聞こえました。
周囲の人たちが戸惑っている中、誰よりも早く幸生くんが立ち上がります。
「行こう!」
でも、一体どこへ行けばいいのでしょう。
そんな疑問が浮かんでも考えている余裕なんてありません。
幸生くんは、幸生くんのお母さんと小夜子ちゃん、
私は私の母と手を繋いで外へ飛び出しました。
壕の中の人たちは、「ここにいなさい」、「危ないよ」と口々に言います。
何が正しいのか、どれが正解なのか、分からないまま防空壕を出て、私は自分の目を疑いました。
右を見ても、左を見ても、赤い世界。
ぼたん雪くらいの火の粉が降っています。
何もかも、全てが燃えていました。
猛火から逃げようとする人々で溢れた町、それでも火は激しい勢いで迫ってきます。
私は母と手を繋ぎ、先を行く幸生くんたちの背中を追いかけました。
強烈な熱さ、地面からの熱気も凄まじく息をするのもやっとです。
次第に遠くなっていく幸生くんの後ろ姿、
人でごった返し、誰もが無我夢中で、私は幸生くんの背中を見失ってしまいそうです。
その時でした。
ギューー!!!
異様な音がして、空から何かが降ってきたのです。
「あっ」と思った時には、もうどうすることも出来ませんでした。
私の身体は飛び上がり、その瞬間母の手を放してしまいました。
前にいた人は即死、首から血を噴き出して倒れていくのを投げ出されながら見ました。
そして、私の頭にチカッと痛みが走りました。