「芳乃、さん…。」
それが合図だったかのように、ハッとした。
自分の行動が信じられず、急激に恥ずかしくなった。
「何でも、ないっ。」
逃げ出そうとした私の腕を、佐倉くんはがっちりと掴む。
掴まれた場所が熱くて、私は眩暈を感じた。
強引に引っ張られて、再び佐倉くんと向き直る。
目が合うと、どうしようもなくなって逸らした。
顔に熱が集まりだして、息苦しくて。
切羽詰まったような、
焦りにも似た心細さ。
「芳乃さん…。」
零すように、
まるでそれが特別な何かであるかのように私の名前を呼んだ。
掴まれた場所に、
声に、息遣いや匂いに、
私の神経の全てが集中する。
「わ、たし…。」
「芳乃さん…。
俺、いまキスしたいって思ってる。
…嫌なら拒んで。今なら逃がしてあげる。」
見上げれば、佐倉くんの熱っぽい視線とぶつかった。
…逃げられるわけがない。
もう、指先の一つだって動かせやしなかった。
佐倉くんに腕を引かれた私は、
佐倉くんの瞳に吸い込まれていくようだった。
唇に柔らかいものが当たり、それが佐倉くんの唇なんだと理解して、それでもやっぱり身動き一つできなかった。
カチャリ、と眼鏡がぶつかる。
目を閉じることも忘れていたキスは、
いつかのようなものではなく、触れるだけの優しいキスだった。
唇が離れても、
佐倉くんは至近距離で囁いた。
「俺は、貴女が好きです。」
そうして、佐倉くんは私の頭に手を回し、抱くように自分の胸に押しつけた。
私は、全ての機能が停止してしまったみたいにぼうっとして、
ただ、佐倉くんの心臓の音を聞いていた。
どくん、どくん、どくんと。
私の後頭部――髪に感じる骨張った手の温もり。
「…もう逃がす気ねぇから。」
この地球上に、
私を好きになってくれる人はいた。
どっかのネジが取れてしまったらしい私は、
やっぱりどっかで、呆然とそんな事を思っていた。
平日の昼下がり。
休日だった私のもとに、スーパーマーケットからの買い物帰りだという若菜が訪ねてきた。
息子くんである絢斗は幼稚園、娘ちゃんである瑠花はスヤスヤと夢の中。
若菜はシュークリームのお土産を買ってきてくれた。
私は熱い紅茶を淹れて、
皮がパリパリのシュークリームを食べながら二人で韓流ドラマを見た。
運命的に出会った男女が何度も擦れ違い、困難を乗り越えて結ばれるという感動必須の純愛作品で、若菜もハマっているらしい。
「あぁぁぁ!もうっ!また出てきたよ!!この女!!」
若菜は憎々しそうに言う。
この女というのは、ドラマの中で主人公の恋敵役で登場している人物のことで、いつも良いところで邪魔をする存在だ。
若菜はすっかりドラマの世界に入り込んでいるらしく、まるで現実で起こった出来事のように文句を言っている。
「本当に、やんなっちゃう。この女のおかげで全然進展しないんだから!芳乃もそう思わない?」
「んー。」
「…………。」
ぼんやりとしている私の様子を見て、若菜は大袈裟に溜め息を吐き出した。
「無断欠勤の子は無事出勤してきたんでしょ?」
「ん。」
気まずそうにしながらも、マリちゃんは『みかづき屋』に戻ってきた。
今までと変わらず、笑顔を振りまいて仕事をしている。
「年下の新人クンにも、ちゃんと返事したんでしょ?」
「…………。」
「…まさか、何の返事もしてないの?」
私が黙って頷くと、若菜は目を見開いて、
「呆れたっ!」
と、呟く。
心の底から呆れたらしい表情で。
無断欠勤をしたマリちゃんの家に行き、
佐倉くんに告白された、あの日。
私はぐでんぐでんに酔っ払って若菜に電話をかけていた。
だから、若菜は知っているのだ。
マリちゃんの事も。
……佐倉くんの事も。
「いいじゃないの。悪い子じゃないんでしょ?付き合ってみたら?」
「バカ言わないでよ。相手は6つも年下で…。」
私の言葉を遮って、若菜は言った。
「6つも年下だから何なのよ?別に犯罪ってわけじゃないし、ただの職場恋愛じゃない。」
……確かに、そうだけど。
いつまでも煮え切らない私の態度に、若菜はまたしても溜め息を吐き出す。
「まったく。高校生の恋愛相談じゃないんだから、しっかりしてよ。
大事なのはアンタ自身の気持ちでしょ!どういう返事だとしても、ちゃんとしてあげなきゃ新人クンが可哀相じゃない。」
的確な若菜の言葉に、
私は何も言えなかった。
その通りだ。
若菜が言っていることは正しい。
あの日は、とにかく告白されたってことに浮かれて身も心もフワフワとしていた。
それが次第に落ちついてくると、今度は怖くなった。
どうしていいか分からなくて、不安で、不安で。
私は、きっとたぶん、
佐倉くんに惹かれているけれど、認めることが怖かった。
恋愛なんてしたことがないから、一歩踏み出す勇気がない。
恋愛って…恋愛って何!?
私はどうしたらいいの!?
自分の手には負えそうもなくて、あれから佐倉くんのことも変に意識してしまって…。
でも、それでも、頭の中は佐倉くんで埋め尽くされていたりする。
横顔や声。
息遣いだったり、匂いだったり、
心臓の、どくん、どくんという音。
一瞬一瞬が切り取られたみたいに、私は覚えてる。
「恋愛にも教科書があったらいいのに…。」
学校で使った授業の教科書みたいに。
仕事のマニュアルみたいに。
そうしたら、悩んだり、迷ったりしないんだろう。
「教科書なんかあったら、つまんないでしょーがっ。」
若菜のツッコミが飛んで、私はやっぱり何も言えなかった。
* * *――…
「じゃあ休憩行ってきまーす。」
『みかづき屋』ハピーズ飯崎店。
昼休憩で店を出た私を呼び止めたのは、彼だった。
「芳乃さぁん!」
その瞬間、心臓が飛び上がった。
「俺もこの時間休憩なんで、一緒に飯食いましょっ。」
爽やかに笑う佐倉くんは人懐こく言った。
私はドキドキしっぱなしで、それを顔を出さないようにするだけで精一杯。
若菜じゃないけど、自分でも「高校生かよっ!」とツッコミたくなる。
……佐倉くんは、私のことが好きだという。
じゃあ、私は?
“惹かれている”と、ちゃんと“好き”は、同じ意味なのか?
三階のフードコートで、
私と佐倉くんは同じテーブルを囲んだ。
私は最近ハマっているスンドゥブチゲという韓国料理のランチメニューを、佐倉くんはラーメンを、それぞれに注文した。
「それ、辛そうですね。」
佐倉くんはスンドゥブチゲの真っ赤なスープを興味深そうに見つめる。
「…そうでもないよ。」
そう答えると、佐倉くんは小さな笑みを零した。
その笑顔に胸を締めつけられて、私は目を逸らす。
フードコート内は、平日でもたくさんの人で賑わっていて活気があった。
騒めきの中で、私たちはぽつりぽつりと会話をした。
様々な音の中でも、佐倉くんの声を聞き取ろうとして神経を集中させる。
何一つ逃すまいとして。
そんな自分が、
一体何をしたいのか、何なのか、やっぱりハッキリと見えない。
一番大切な答えは、ボヤけたまま。
……なんて、本当は分かってるんだ。