わたしにイーッとバイキン星人みたいな顔を見せたあと、田岡は、教室を出て行った。
少し下げられて、腰に引っかかっているズボンの口のところで、学校指定のものとはちがうベルトが、光っていた。
その後ろ姿が完全に見えなくなっても、アキに話しかけられても、授業がはじまっても。
わたしはなんだか上の空で、心ここにあらずだった。
クリスマス、朝めざめて、枕元にプレゼントがなかったみ たいな。
あったとしても、ワクワクして開けたら、中身からっぽ、みたいな。そんな気持ちだった。
・・・ちがうのだろうか。
田岡は、『ジュウエンムイチ』じゃないのだろうか。
ジュウエンムイチなんてペンネーム、ほかに考えつくひとがいるのだろうか。でも。
よくよく考えてみれば、全国のひとが投稿するラジオ番組で、自分とおなじ塾に通っている男子の悩みが読まれ、それを偶然わたしが聞くなんてことのほうが、 ありえないことのような気がしてきた。
わたしの、くすぶった日常のなかに舞い込んだ、ビビット。
赤い、原色のポスターカラー。
上から水滴がポタポタと降ってきて、水彩画みたいに、あわくあわくにじんでしまう。
べつに、田岡は悪くない。
わかっているのに、イライラした。なぜか、くやしかった。
わたしは消しゴムを取り出すと、歴史の教科書にギュウギュウ押しつけて、手書きヒゲを消していった。
◇有体無体の、世界◆
(4)
ざぶん。
深い海に、もぐりたい。深くて、薄暗くて、ひんやりしたところ。
ラジオから流れる、低い声。
聞きたいのは、テレビのなかで弾ける、笑い声なんかじゃない。
高い声。ばかにする声。怒る声。死ねよ、の声。やっぱりぃ、の声。ねえ、好きなんでしょう?の声。
自由に泳ぎたいわたしを、網で捕まえようとする。
何層にも、何層にも、重なって。その網の目を必死にくぐりぬけて、網の目が重なるほど、小さくなればなるほど、困難で、でも。
脳みその網の目は、逆。大きいと、せっかく覚えた単語が、こぼれ落ちてしまう。
細かくあるべき網と、あらくあってほしい、網の目。
「テスト、返ってきた?」
夕飯どき。カレーから舞い上がる、ふかふかした湯気の向こうで、お母さんが聞いてきた。
舌にのったルーが、とたんに辛く、苦くなる。
まるいはずのスプーンは、わたしに向けられた刃先に早変わり 。痛い。舌がビリビリする。
せき込みながら、わたしは言った。
「そんなの、昨日の今日ですぐに返ってくるわけないでしょ!?」
「は?なに怒ってるのよ」
お母さんの顔が、不機嫌なものになる。
わたしの口もムッととがって、そのとんがりをこじ開けるように、カレーを流し込む。
それからは、無言。バクバクと、勢いよく食べた。
話しかけられないオーラを放つくらい、威厳をもって食べたつもりだったけれど、いかんせん、このカレーは甘口だ。威厳もなにもあったもんじゃない。
辛いのは、昔から好きじゃない。だから、我が家のカレーは、わたしに合わせて甘口。
そこに、あとのせでスパイスや醤油を足すと、大人たちのカレーになる。
いつまでも甘口、なんて子どもっぽいけれど、舌が受けつけないのだからしかたがない。
三橋家のカレーのもうひとつの特徴は、具が大きいってこと。
目の前には、存在主張しながら茶色いお湯につかっている、ジャガイモやニンジン。
一日以上煮込んでも、絶対に溶けてしまうことなんてないんだろう、と思う。
無理矢理つめこんだジャガイモも、ニンジンも、おなかの中で岩のようにすがたを変えて、ものすごく重いような気がした。
──テスト返ってきた?
さっきの言葉を思い浮かべて、ため息。
どうだった?とか。きっと、似たようなこと、松尾先生にも言われるんだろうな。つぎの塾がゆううつになる。
一週間。長いテスト準備期間を経て、昨日、テストが終わった。
基礎や、定番問題なら余裕で解けるようにはしていたはずだったのに、出来はひどいものだった。
全体的に、今回のテストはハイレベルだった。
テスト前だけ詰め込んだ知識の付け焼き刃じゃ、とうていかなわない、難しさ。シャーペンの先は、動き出しては止まって。
辛い辛い。口やすめの水がなければ、解けないような問題ばかり。
先生たちの、作戦なんだと思う。
これからやってくる夏休みという長い期間をなまけさせないように、わざと難しい問題にしたんだ。
よく言えば愛のムチ。悪く言えば、性悪。
カレー皿のむこう。
テレビのなかでは、見たことあるようなオジサンオバサン、オバサンかオネエサンかわからない女の人が、おおげさな表情を作って、笑っている。
見たくもない番組を目にうつしながら、わたしはぼんやりと考える。
こうやって、テスト・テスト・勉強って追われて、追われるままに走っていたら、気がつくと大人になっているものなのだろうか。
たまに、ふと、こわくなる。
もし落ちこぼれて、走るコースからはじき出されてしまったら。そういう、こわさじゃなくて。
走って、走って、気がついたら食卓で、自分もいつの間にか、スパイスと醤油入りのカレーを食べているかもしれないっていうことに。
子ども扱いされるのは、しゃく。でも、なんのために、大人になるの?
年を重ねれば大人なの。大人になるために、将来のユメを決めるの。
わからない。
わたしが握るシャーペンは、いっこうに走り出さない。
茶色く汚れた、白いうつわ。
食 べ終わったソレをキッチンの水場に持って行き、置くときに、ゴチン!と荒々しい音をたててしまった。
洗いものをしている、お母さんの手が止まる。目が、わたしを見るのがわかる。
きまりが悪くなって、視線をそらしたまま、言った。
「…ゴチソウサマ」
お母さんの手は止まったまま。
水道の蛇口から、水はジャージャー流れっぱなしだ。
「ねえ、八子。さっきからなにか怒ってるの?」
「・・・怒ってないよ」
「怒ってるでしょう」
「怒ってないってば!!」
叫んで、二階の自分の部屋まで駆け上がる。
ベッドにダイブ 。バッシャーン!!なんて、小気味よい音はしない。ボヨン、ボヨン、と二回はずんだ。
自分の部屋に、引きこもることにする。簡易な、籠城。
このままお母さんと話していたら、また期末テストの結果話にまで、たどり着いてしまうだろうから。
返ってこなくても、散々なのはわかっている。だから、もう、聞かないで。言わないで。わたしが、駄目だったから。
コースからはじき出されてしまったほうが、いっそのこと楽かもしれない、なんて。
白いマットの海の上、そんな思いがプカプカと浮かぶ。
はじき出されて、うつ伏せになって、そのまま干からびてしまえばいい。お日様になら、負けたっていい。
ベッドのマットレスに、顔の左半分をうずめながら、右半分で息をする。
二分の一になったはずなのに、いつもの二倍くらい息が荒かったから、本当に怒っているみたいだと思った。
このままズブズブ、マットレスに沈んでいったら、いずれは息が止まるのだろうか。苦しいかな。それとも、気持ちいいのかな。
気持ちいいと、いいな。
ねえ、お兄サン。
子ども扱いされないで、ずっと子どもでいるためには、どうすればいいですか?
時間を待って、ステレオの電源を入れる。ラジオを聞く。
今晩のリクエスト曲は、とても静かな曲だった。
オープニングより、エンディングのほうが合っているんじゃないかと思うけれど、でも、明るい気分じゃないからちょうどいい。
目を閉じて、ふと、頭をよぎるもの。
もしかして田岡も、今、ラジオを聞いているのかな。
少しだけ、腹だたしい気持ちが生まれる。
全部、ジュウエンムイチのせいだ。
テスト勉強にちっとも集中できなかったのも、問題が全然解けなかったのも。
ジュウエンムイチは、だれが好きなのか。
そもそもジュウエンムイチは、田岡なのか。
いっこうにハッキリした答えが出ないから、学校でも塾でも、モヤモヤソワソワして、勉強だけに打ち込めなかった。