わたしは、今日一番の大きさで、目を丸くひらいた。
そこに書かれていたのは、テストの要点じゃなかった。
きれいにつづられた、文章。
便覧に書かれていたものよりも、もっとていねいな文字。
『宇宙をはしる』
いちばんはじめの行には、そんな言葉が書かれてあった。
…これ、もしかして、小説?
読書感想文用にしか本なんか読まないわたしは、慣れない文章のかたまりに、首をかたむける。
日記とはちがう。
日常とはまったくちがう世界の、話。ファンタジーって、いうんだろうか。こういうの。
活字は苦手なくせに、読みはじめたら、次々と目が文章を追っていた。
主人公は、男の子。
男の子は、とてもやさしくて、いつも笑顔。みんなから好かれていて、おだやかな日々を送っていた。
なのにある日、村人を助けるために、たおれた木の下敷きになり、自分の足を失ってしまう。
ベッドに寝たきりになってしまう男の子。
ところがある晩、眠ろうとする男の子のもとに、一頭の馬があらわれる。
馬の毛並みはつややかで、やさしい黄色のなかに、金色と銀色。星の色をした馬は、男の子につげる。
「わたしと一緒に、旅に出よう」
ページをめくる。
夢中で、読み進めた。
星の馬は、男の子をのせて、走り出す。
すごい勢いで雲をつきぬけ、かきわけ、地球を飛び立つ。
ふたりが走るのは、とてつもなく広い、宇宙。
ロッカーのまえに突っ立ったまま、わたしは、その話を読んでいた。
窓がしめきられた教室。
背中を、玉の汗がつたう。
何枚もページをめくって、あるページで、文章はとぎれた。
とてもていねいな字でつづられたその話は、完結していなかった。
とても中途半端なところで、尻切れトンボのまま、終わっていた。
『無限に広がる宇宙』
わたしは、すいこまれたようにずっと、その最後の文字を、見つめていた。
◇末広がりの、世界◆
(8)
ニンゲンは、自分のためにしか、泣けないって本当?
だれかがつらい思いをして、一緒に泣くのは、つらいのを自分に置き換えるから。
だれかが亡くなって、涙をながすのは、おいていかれた自分がかわいそうだから。自分が死ぬのが、こわくなるから。
そうだね。ひとは、自分のために、生きなきゃいけない。
ひとりぼっちはいやだから、手をのばす。自分のために、他人をもとめる。
それで、いいんじゃない。
手をのばして、つないで。
笑いあったとき、『だれかのため』は、生まれるから。
「どしたの、三橋」
月曜日。
塾の終わりに呼び出したのは、今度はわたしのほうだった。
花火の公園。
ブランコをゆらして待っていたわたしのところに、息を切らして、田岡がやってくる。
「・・・よお、田岡」
「よっ、三橋。てかおまえ、こわいぞ。外から見たら、一瞬オバケがいるのかと思った」
「失礼な」
「ははっ、だって三橋、今日白いから」
田岡が笑って、となりのブランコにすわる。
この前の夜とは、位置が逆だ。
オバケあつかいされた白いワンピースのすそを、パタパタとあおる。
なまぬるい風が、太ももにまとわりついた。
「・・・元気に、してた?」
「あー・・・うーん。三橋は?」
「ヒマすぎて死にそう」
「ははっ、たしかにヒマだよなぁ!あ、そうそう!ずっと聴いてた、夜のラジオ放送も、なくなっちまってさー」
田岡の明るい声。きゅっと、ブランコの鎖をにぎる。
「そう・・・なんだ」
なにげない会話をしながら、わたしは、心の準備をしていた。
すこし、緊張していた。
今日田岡を呼んだのは、伝えたいことがあったから。
鎖のさびた匂いと、花火の火薬の匂いが、同時に鼻に吸い込まれた気がした。
それは、あのときの花火の記憶がよみがえったのか、だれかがここで新しく花火をしたなごりなのか、わからないけれど。
砂の上に置いた、サブバックをみつめる。
塾用のカバンじゃない。決心をして、学校のサブバックを持ってきた。
なにから話そう。
田岡に、どうやって伝えよう。
「夏休み、もうすぐだな」
だまっているわたしに、田岡が言った。
鼻の奥のこげた匂いが、よりいっそう強くなる。
「そうだね」
「まあ、夏休み入ったら、毎日顔合わせることになるな。塾の夏期講習、午前中ずっとあるだろ」
「うん」
「ヒマが減るから、いいんだけどな」
靴の先で、田岡が土の上に、円をえがく。
ちょっといびつな円をかいて、そのなかにまた、いくつか丸をかいて。テレビで見たことのある、キャラクターができあがる。
だまって、見ていた。
田岡が、できたばかりの顔に、線を引く。そして、その中身を、残すところなく塗りつぶしていく。
もうすぐで、白丸が黒丸になる。
全部塗り終えてしまう前に、言おう。
わたしは、大きく息をすった。
「・・・田岡、あの」
たくさんためてから、やっと吐きだした言葉は、思ったより、わたしの心をゆさぶった。
「うん?」
「あの・・・うまく言えないかもしれないけど、聞いてくれる?」
思っているだけなら平気なのに、言葉にして出すと、気持ちがこみあげて、泣いてしまいそうになる。
だめだ。ふるえるな。
足下の、しおれたサブバック。ニハシノコが、心配そうに、わたしを見つめている。
言うって、決めたんだ。これは、ただのわたしの自己満足かもしれないけれど。
「・・・わたし、も」
「え?」
「わたしも・・・その、田岡が聴いてたっていうラジオ、聴いてたの。中一のころから、ずっと」
田岡の顔を、見ることができない。
視界にうつる、田岡の足が、動きを止めている。
「そしたら、ある晩ね。お悩みコーナーのところで、一枚のハガキが読まれたのね。ジュ・・・ジュウエンムイチ、って、ペンネームだった。そのときわたし、すごくおどろいたんだ」
言葉が、のどにつまる。
がんばれ。がんばれ。ニハシノコが、わたしをはげましている。
「田岡の、サブバックの名前だって、思ったの。そんな名前、考えつく人ほかにいないって、そう思った。だから、だから、わたし・・・知ってた。田岡に聞くまえから、田岡に好きな子がいること。田岡が・・・菜落さんを好きなんじゃないかってこと」
足下には、白いところをのこしたままの、円のなかみ。
顔を上げる。目があった。
田岡は、あっけにとられたような顔をしていた。
でも、だんだん、なにかがつながったような顔に、変わっていって。
「・・・・・・そっか」
田岡は、ちいさな声で、つぶやいた。
「・・・すごいな。すごい偶然っつか、よく気づいたな、それ」
「・・・・・・うん」
「・・・そっか。そうだったんだ」
田岡は、そっか、と繰り返して言った。
息をはく。わたしは取っ手を引き寄せて、サブバックを、ひざの上にのせる。
そして、中から、一冊のノートを取り出した。
「田岡に、読んでほしいものがあるの」
それは、菜落ミノリのロッカーから持ってきた、大学ノートだった。
差し出すけれど、ぼんやりした顔のまま、田岡はなかなか受け取ろうとしない。
田岡の手を引き、ノートを持たせる。
「読んで」
強引にそう言うと、田岡はゆっくりと、ページをめくりはじめた。
不思議そうな顔が、だんだん真剣になっていく。
わたしは、息をころして、その様子を見つめていた。
とても、長い時間に感じた。
電灯はあるけれど、光はとぼしいから、ちゃんとみえるだろうか、そんなことを心配して。ページをめくる、田岡の指を追った。
文章が書いてある、最後のページまで行き、田岡の手が止まる。
「これ・・・なに?三橋が、書いたの?」
ノートを閉じて、田岡がわたしを見た。
「すごいな――」
「ちがうの」
言葉をさえぎって、首をふる。
「それ、菜落さんが、書いたものなの」