ちっぽけな世界の片隅で。



田岡が、息を吸った。

そして、とても大切そうに、息と一緒に、言葉をはいた。


「菜落だけ、笑わなかった。泣きそうな顔で、じっと、聞いてたんだ」



ああ、と思った。

・・・なんで、今になって、思い出すんだろう。


田岡の事故のことを聞いたのは、塾じゃない。その場に、いた。

わたしも、いたんだ。二組 の、教室。


二年生に上がった、四月の途中。

交通事故での入院後、田岡は普通に歩いて、学校に帰ってきた。


「自転車がさぁ、バキィッて、折りたたみになっちまったんだよ」


男子たちから声をかけられて、初めて田岡が言っていた言葉が、それだった。

自分のことじゃなくて、自転車のことだった。

通学用の自転車がバキィッて折れて、もう使い物にならないことを、ちょっと笑って話したあと。田岡は。


「野球もうできねぇわ」って、笑ったまんまの顔で、言った。




わたし、聞いていた。すこし離れたところから、なんとなく見ていた。

あのときの笑顔がひどく切ないものだったことに、今さら気づいた。


思い出した。今。

わたし、忘れていたのに。田岡が、部活をやめていたことですら忘れて、朝練に田岡のすがたをさがした。

きっと大事なことだったのに、わたしはなんとなく、聞き流していた。


弱いところを見せたくない。でも、見つけてほしい。

田岡の、笑顔にかくれた、声にならない叫び。


菜落ミノリは、それを見つけた。

見つけていた。気づいていたんだ。

そして、田岡は、菜落ミノリに、気持ちを抱いた。


わたしがずっとずっとあたためてきた謎は、とても、単純なキッカケが生んだもの。


単純だけれど、とても大切なものだった。






ブランコをこぐ。こぐ。こぐ。

座ったままいけるところまで、振り子となってこぐ。

靴を、思い切りとばしたい気分だった。

願かけ。わたしのことじゃない。田岡が、笑えるように。

とばした先にあるものが、表であってくれますようにと、切に願って。

でも、わたしたちはもう、簡単に靴をとばせない。

その先を、考えてしまうから。

遠くに飛ばしてしまったら、ケンケンで探さなきゃいけない。砂で、靴がよごれる。裏を向いていたら、気分が悪くなる。

そんなマイナスの予想を、いっぱい育てられる頭を、手に入れてしまっているから。


一通りブランコをこぎ終えて、ズリズリと足底で砂をすって、止めたあと。

じゃあ帰るか、と田岡が言った。そうだね、と答えた。

Tシャツが、べっとり汗で、はりついていた。

靴は結局、ふたりとも、とばさないままで。


「~夏休みに、なったらさぁ!!」


田岡が自転車にまたが ったとき、その背中に、声を投げかけていた。


「・・・一緒に、菜落さんの病院に、行く?」


一緒に、なんて。菜落ミノリの友達でもなんでもないくせに、そんな言葉が、とっさに出てきた。

田岡は、しばらくわたしをおどろき顔で見つめたあと、ゆっくりと、首をふった。


「・・・ありがとう、でも、ごめんな」



田岡を見つめる、ひとみがゆれる。

一瞬のためらいを見せたあと、田岡が口をひらいた。


「おれ、さ。うん・・・・・・こわいんだ」

「・・・こわい?」

「うん・・・その、事故に、合ってからさ。中身が、見えるっつか・・・想像、しちまうんだよ。自分の血と、肉と。今でも、皮膚の裏とおもてが入れ替わった夢、見るんだ。赤い筋肉がむき出しになった、自分を、」


な、グロいだろ。

言葉をつまらせたあと、ごまかすみたいに、田岡はそう言った。

そして、目を伏せて、続けた。


「・・・同じように事故にあった、菜落に会いにいくのが、こわい」


情けねーだろ、と、田岡は笑った。

笑わせてしまった自分を、責めたくなった。


だって、下で泣いているのを隠しきれていない、うすい膜みたいな、笑顔だったから。

















◇優性劣性の、世界◆






(7)


輪唱。きこえるのは、鳴き声じゃなく、羽音。

アブラゼミ。ミンミンゼミ。ニイニイゼミ。クマンゼミ。ツクツクボウシ。

セミの命は、たしか十日間だっただろうか。

とほうにくれるような長い時間を、土のなかですごして、やっと光を浴びる瞬間は、ほんとうに、わずかで。


かわいそう。

みんな、そう言う。十日しか、外で生きられないなんて、かわいそうだね。わたしたちは、しあわせだね。


ねえ、でも 、それは本当?

だって、外で生きていくのは、とても、とてもむずかしいことだから。


十日だけ、と決められているから、セミたちは、思い切り鳴くことを惜しまない。

自分の気持ちをつつみかくさず押し出して、最悪の結果になったとしても、どうせ、十日で死ぬんだ。


死ぬ時期がわかっていないから。
生きる時間が長いから。

わたしたちはきっと、自分の気持ちを閉じこめる。

気持ちを殺して、必死につくる、生きやすい世界。









セミの声で、目をさました。


Tシャツと素肌が、汗のせいで、異様になじんでいる。

変な夢をみていた。ハッキリと覚えていないけれど、あたり一面、血のように赤い夢だった。

背中がつめたい。でも今、目にうつるのは、朝をむかえた自分の部屋。

なじみのある水色のコンポに、ホッと息をつく。


『夢、みるんだ。皮膚の裏と表が、入れ替わった自分を』


・・・昨晩、田岡から、あんな話を聞いたからだろうか。


家に帰ってからも、眠る前も、田岡のことばかり考えていた。何度も、何度も寝返りをうって。たくさん、たくさん考えて。


なにかしたい。

それは、自然にわき上がってきた思いだった。


泣きそうに笑う。情けないだろって笑う。

そんな田岡を思い出したら、はがゆさでいっぱいになって、しかたなかった。


田岡のために、わたしができることはなんだろう。

なにか、ないの。田岡のために。


田岡のため?…わたしのため?


ベッドから起き上がる。床に、ヒタリと、吸盤のように足の裏がくっついた。


そうかもしれない、と思った。

わたしは、わたしのために、ジュウエンムイチの行方を、見届けたいのかもしれない。

知りたかった。

だれかがだれかを好きになる、その結末を。



煮つまった部屋の空気が気持ち悪くて、ベッドから立ち上がると、窓をあける。

とたんに、セミの声が、何倍にも膨れ上がった。

耳にせまってくるセミの羽音は、「おはよう」と告げているというよりは、「起きろ!はたらけ!」って、怒鳴っているかんじに近い。


そうだな。ベッドに寝たきりじゃ、ダメだよな。


全開にした窓の前で、大きく伸びをする。

Tシャツと短パンのあいだから、顔を出したおなかを、ぬるい空気がなでた。


昨日塾に行き、田岡と話をしたことで、わたしのからだとこころは、現実にふれたんだと思う。

じっと横たわってばかりいるのは、いやだった。壁ばかり見ていても、なにも思い浮かばない。

ちゃんと活動しなければ。

そんな気持ちが、生まれていた。


空気の入れ替えと、気持ちの入れ替え。

背筋がすっかりのびたわたしは、お母さんが置いていった朝ご飯を食べたあと、めったにしない、部屋の掃除にとりかかることにした。



改めて見てみると、わたしの部屋には、女の子の要素がひとつもない。

整理整頓はされていないし、服は床にぬぎっぱなしのものが、数点。かわいいぬいぐるみもなければ、ピンクや赤の雑貨もない。


それに、散らかっているのは、床の上だけじゃなかった。

引き出しも、クローゼットのなかも、バーゲンセールの人混みのようにごった返している。


ここは、筆記用具系。ここは、アクセサリー系。

最初に部屋が与えられたときは、自分でそんなふうに分けていたはずなのに、今ではすべて、『なんでも詰め込みOKボックス』になってしまっていた。


とりあえず、全部ひっくり返して、仕分けすることからはじめてみる。

引き出しの中身をベッドにぶちまけるのは、思ったよりも気持ちよかった。


片づけって、いいかもしれない。

ごちゃごちゃしている自分の中身も、自分自身わかっていないことさえも、整理されていくみたいで。


でも、そんなすがすがしい思いを抱いたのは、最初だけ。

どうやら集中力は、片づけにおいても、勉強においても、一緒らしい。