スカウトされて上京したのが、十五歳。
華やかな芸能界を夢見ていたけれど、
待っていたのは上手く行かない現実と途方もない孤独。
スーパーのチラシ、ドラマのエキストラ、またスーパーのチラシ。
この七年間で一番大きな仕事と言えば、
二時間サスペンスドラマの、始まって僅か五分で殺される名も無き女子高生。
つまり死体役。
挫折は何度となく、訪れた。
けれど、大きな事を言って実家を飛び出した手前、今さら実家にも帰れない。
その日食べるものにも困って、バイト先のコンビニで廃棄になった弁当をこっそり持ち帰る日々。
だから十八の時なんて、
とっくに諦めていた。
私の肩書きはモデルだったけど、成功したモデルではない。
そして、これから先も成功する可能性が無に等しいことを、とっくに知っていた。
そんな私とは対照的に、
遊は成功者だった。
「それで?」
「何が?」
大学から程近いカフェは、私と久美の気に入りの場所だった。
ここのベーグルサンドは美味しい。
「HARRY WINSTONの婚約指輪とプロポーズについて。」
「うん。ねぇ、やっぱりテラスより中の方が良かったんじゃない?日焼けヤバい。」
「聞いてる?」
「聞いてる。」
痛々しい程に降り注ぐ太陽が憎い。
ここまで暑いと溶けてしまうんじゃないか、と思うくらい。
「何?迷ってるの?」
「…別に。」
「悪くないと思うけどな。
経済的に安定した人気美容師、誠実、真面目、何より顔がいい。」
数を数えるように、久美は一つずつ挙げていった。
「まっ、私はさすがに十六も年が離れてるのは論外だけど。」
「私、まだ学生だし。」
「……何?結婚って、そんな急なの?」
「…今年中にはって。年明けから、また忙しくなるみたい。」
「はぁ〜、カリスマは大変ねぇ。」
久美の柑橘系の香水と、照りつく太陽の匂いが混ざり合う。
私は重い瞼を閉じた。
ベーグルサンドは、まだ半分も残っている。
食欲がないのは、
きっと暑さのせいだ。
「……久美さん。」
「はい?」
「…結婚線の見方が分かりません。」
「……迷ってるのね。」
「…………。」
「それとも、もうマリッジブルーですか?」
黙り込む私に、久美は溜め息を吐いた。
「もっと幸せオーラ出してくれなくちゃ。私は羨ましいけど?
こっちは就活で、もう死にたくなるわ。」
上手く行かない人生が転がっている。
私も時々死にたくなるんだ、
そう思うけれど勿論口にはしない。
安曇 遊は、遠い存在だった。
若くして成功した美容師は、あの頃すでに何店舗も自分のヘアサロンを持っていた。
甘いマスクに柔らかい物腰、優しさが滲む笑顔。
王子様という言葉がぴったりと当てはまる大人の男は、どこを取っても完璧だった。
美しい人気のモデル達を相手に仕事をする彼、
一部の華やかな世界。
同じ場所にいても、成功しなかったモデルの私は蚊帳の外。
でも、そんな事は疾うに慣れっこになっていたから、微塵の羨望も持ってはいなかった。
最初に声をかけてきたのは、遊のほうだ。
「炭酸好き?」
遊は困ったように笑った。
その手には炭酸の缶ジュース。
「間違えて押しちゃってさ。俺、甘いのダメなんだ。」
「……炭酸嫌い。」
「…そっか。」
遊は、やっぱり困ったように笑った。
そんな些細な事がきっかけで、付き合って四年。
同棲三年。
私たちは十六歳も年齢が離れていたけれど、問題ではなかった。
遊の話は楽しいし、いつも優しいし、何も問題はなかった。
まるで嘘みたいに、上手く行っていた。
幸せに埋もれてしまいそうになる程だ。
遊は真っすぐに誠実に私を愛してくれた。
私もまた遊を愛した。
この唇も、この身体も、私は遊に捧げたのだ。
それは、完璧な恋だった。
「ただいま」と遊が言って、
私は「おかえり」と言う。
パサパサの卵のオムライスも、
「美味いよ」と言ってくれる。
一雫、一雫、と落ちる幸せ、
完璧すぎる恋だった。
そんな事、分かっている。
分かっているのだ。
視界の片隅で揺れる、遊の前髪。
焦りにも似た遊の呼吸、体温。
遊は切なそうな表情で私を見下ろす。
それは、憂いを帯びていて美しいと思った。
私の身体は、酷く遊に馴染んでいる。
今夜も熱帯夜。
汗ばんだ肌が触れ合う。
遊の身体も、酷く私に馴染んでいる。
唇を塞がれると、涙が滑り落ちた。
何の不安も不満もない。
私は確かに幸福だ。
重い瞼を開けると、
隣にはいつも通り遊が眠っている。
美しい男は寝顔まで美しい。
甦る残像、 ここが現実だと言い聞かせる。
遊がそこにいても、一人で先に目覚めてしまう朝は苦手だった。
どうしていいか、分からなくなる。
私は、再び瞼を閉じた。
もう少し眠りたい、もう少しだけ。
でも、そんなのは、ただの言い訳なんだ。
あの夢の続きを、
もう一度見たいと願っていた。
しかし、私は知っている。
夢の続きは、もう見れない。