「……あるかもしれませんねぇ。」
ふっと、梨子は微笑む。
「だって、朔ちゃんは私の事を何も知らないでしょう?」
「……当たり前だろ。俺たちは出会ってから、まだ…。」
梨子は、俺の言葉を遮った。
「でも、私は知っているとしたら?」
「え?」
「私が、ずっと前から朔ちゃんを知っているとしたら?」
梨子は微笑む。
けれど、その眼差しには強いものがあった。
言葉を失う俺に、梨子は目を細めて笑った。
「なぁんてね。」
果たして悲しみだったのか、それとももっと別の感情だったのか…。
とにかく、俺は拳を握り締めた。
“本当”が見えないんだよ。
梨子が見えない。
様々な顔をした梨子が、俺の頭に浮かんでは消えていく。
梨子の言葉や表情、そこから何も読み取れないんだ。
結局、俺は、はぐらかされただけなんだろうか。
歯痒くて、身勝手な苛立ちさえ覚えていた。
「…梨子。」
……正直、口にしたくはなかった。
梨子の口から、言ってほしかった。
「……誰を殺すつもりなんだ?」
梨子の瞳が、見開かれた。
「昨日、聞いちまったんだよ。……梨子、本当の事を言ってほしい。
俺は、確かに梨子の事を何も知らねぇけど……知らねぇから、知りてぇんだよ。」
梨子は俯いてしまった。
ただ、波の音だけが響く。
どれだけの沈黙が、俺たちの間に流れていたのか分からない。
口を開いたのは、梨子だった。
「……今さら、知る必要なんてないでしょう?」
「えっ?」
梨子は一瞬の間の後、寂しそうに微笑んで言った。
「朔ちゃん。
あたしは、ずっとあなたを見ていたの。」
「高校を卒業してから1年間は引きこもり。
やっと部屋から出て、色々なアルバイトをしたけど、どれも続かない。
パチンコにハマってからは借金が増える一方で、さぁ大変。
この頃、半年付き合ったOLの彼女にも見捨てられる。
人生どうでもよくなってきて、ホストになってみたけどうまくいかない。
それで、コンビニ強盗。」
梨子は、ちらりと俺を見て、それからまた言葉を続ける。
「これだけ聞くと、どうしようもない人間みたいだけど、とても優しい人で。
不器用で要領が悪くて、考え方が極端で変なところで生真面目。
……それが、藤嶋 朔。」
「………どういう事なんだ?な、んで……。」
梨子は微笑む。
「言ったでしょう?
あたしは、ずっとあなたを見ていたの。」
寂しそうに、何かを諦めたみたいに微笑する梨子。
「好きよ、朔ちゃん。」
波の音が、永遠のように二人を包む。
梨子の悲しげな瞳に囚われて、俺は身動きすら出来なかった。
(俺の仮説は、もしかしたら正しいのかもしれない。
だとしたら、奥田梨子と水沢詩織は……。)
まだ薄暗い空、
俺は眠っていた。
そして、何気なく目を覚ます。
ふと、隣を見つめると、梨子は布団から出て俺に背を向けている。
目を擦りながら、俺も起き上がる。
電気もつけずに、一体何を……。
もう一度、梨子に視線をやって、俺は目を見開いた。
梨子が手にしていたもの、それは、あの赤いノート。
見つめていたのは、梨子と水沢が写った写真だった。
……枕の下に入れていたのに、いつの間に…。
背筋をすぅーっと、冷たい空気がなぞる。
梨子は、こちらに顔を向けずに呟いた。
「朔ちゃん、散歩に行かない?」
「え…?」
「夜明けの海を、散歩しようよ。」
梨子は微笑む。
「寒くないか?」
「大丈夫。」
規則的な波の音。
夜が明けきらない空は薄紫色。
その中に滲むたくさんの色は不安定な顔をして、俺たちを見下ろしている。
それは、まるで俺の心を表しているようだ。
穏やかな波の音しか聞こえない静寂に包まれて。
「チェリー、チェリー、
あなたとあたしは二人で一つよ、
チェリー、チェリー。」
梨子は、あの不思議な歌の歌詞を独り言みたいに呟いた。
ただ海を見つめ、砂浜に立ち尽くす俺と梨子。
「……このまま、心中でもしちゃう?
もう、きっと、逃げ場なんてないんだし。」
「……俺は嫌だよ。」
梨子が、俺を見上げた。
「俺は、梨子と生きていきたいから。」
寂しそうに微笑む梨子、
海を見つめたまま俺は言葉を続ける。
「…梨子。俺、自首するよ。
逃亡劇は、もう終わりにしよう。」
梨子は俯いて、何も言わなかった。
「ちゃんと出会って、ちゃんと始めたいんだ。
梨子と二人で、当たり前の未来を生きるために。だから…自首するよ。」
俺はそこまで言って、波打ち際まで歩いた。
「……梨子、俺の質問に答えてほしい。」
それが、どんな真実だとしても。
「梨子と水沢は………。」
梨子を必要とし、梨子を愛してる。
それで、充分じゃねぇか。
「梨子と水沢は、姉妹なんだろう?」
そう口にした瞬間だった。
俺は背中に強い衝撃を受けて、顔面から海に転がった。
何が起こったのか分からず、慌てて顔を上げると梨子が俺を見下ろしている。
海水の中に座り込んだ俺に落とす眼差しは、凍えるほど冷たい。
「梨子……?」
俺は絞りだすように言った。
梨子は力なく笑う。
「そうだね、朔ちゃん。
もう終わりにしようか、何もかも。」
「…………。」
言葉を失う。
梨子は小型のピストルを手にして、その銃口を俺に向けた。
「両親が離婚する前の、あたしの名前は水沢梨子。
ご想像のとおり、水沢詩織はあたしの姉なの。」
梨子は怖いくらいに無表情で、その話し方は無機質だった。
まるで、何の感情もないような。
「両親が離婚して、別々に暮らすようになってからも、あたしと姉は仲が良かった。
あたしは姉が大好きで、何度も何度も家出しては、この町に来ていた。
姉に会いたくて、ね。」
梨子は、俺から目を逸らさずに言葉を続ける。
「『スナック・リンダ』のあの部屋は、昔からあたしと姉の秘密基地だった。
リンダママは元々、母の友人なの。」
俺は、ただ梨子の話を聞くことしかできない。
俺の仮説は当たっていた。
だが…………。
「優しくて明るい姉の様子が可笑しくなったのは、姉が中学を卒業してから間もなくだった。
中学の、嫉妬に塗れた女子のイジメにも屈しなかったのに……。
高校に入学して少し経った頃、姉には生まれて初めての彼氏ができたの。
姉は彼を愛していたし、彼も同じであると信じていた。
…けど、そうじゃなかった。
その男は、他に何人も女がいた。……それでも、姉は献身的に男に尽くした。
女はただの性欲処理の道具だ、と平然と言うロクでもない男にね。
……姉がストーカーに遭い始めたのは、丁度その頃。」
「ス…トーカー?」
「……待ち伏せされたり、後をつけられたり。だんだんエスカレートしていって……。
姉は部屋に閉じこもりがちになった。目は虚ろになって、どんどん痩せて。
それでも大好きな男がいたから……なのに、男はゴミ同然に姉を捨てた。
中学同様、高校でも女子との人間関係は上手くいってなかったし、そういう事が重なって姉は学校にもあまり行かなくなった。
………その学校に久々に行った日、遅くなった帰り道でストーカーに襲われた。
なんとか逃げたけど、何度も殴られた暴力の跡は酷かった。……美しかった姉の面影は、もうどこにもなかったの。」
梨子は唇を歪めた。
泣きだしてしまいそうになるのを、必死で抑えているように見えた。
「………それから、すぐよ。姉は、17歳の夏に首を吊って死んだ。『スナック・リンダ』の、あの小さな部屋でっ!!」
「………死…んだ…?水沢が…?」