―――だけど、
奇跡は起こることがある。
起こらないことが大半だけど、それでも起こることがある。
俺はそれを知っている。
「…ダイチ?」
ソニアに肩をつつかれてようやくはっとした。
20分ほど走ったところで、タクシーは大きな学校を前にして静かに止まった。
場所の指定も料金の支払いも、ソニアが完璧に助けてくれた。
広がるグラウンドに、きれいな校舎。横には寮がくっついている。
グラウンドにすぐ目が行くところでどうしても、自分がスポーツバカであることを確信せずにはいられない。
「そのトモダチの名前は、なに?」
ソニアが校門に駆け寄りながら、そう聞いてきた。
「誰かに聞いたほうがはやいよ」
ポニーテールがふわふわと揺れる後ろ姿。
軽やかに駆けていくその姿が、妙に懐かしかった。
「ダイチ?」
「あ、うん。ごめん」
「だから、そのヒトの名前は?」
「名前?名前はね…」
寝過ごしたせいで、もう昼間。
太陽の光がすごく眩しい。
グラウンドの土がきらきらと光っている。
「Sunny、かな」
「サニー?日本人じゃナイの?」
「日本語の名前で言ったら、ヒナタ。
…日向って言うんだよ」
校門が開いていないからと、ソニアがひょいとそれを乗り越えた。
俺も続いて門を乗り越える。
――日向…Sunny。
眩しい太陽。
―――日向先輩。
そりゃ雨の日も曇りの日も
たまにはいいけれど、
やっぱり俺は晴れが好きです。
雲に隠れないで待っていてくれますか?
"懐かしい"ってコトバ、好き。
でも分からない。
懐かしいってどんな感じ?
―――ソニアがそんな話をしてくれるようになったのは、ここに来て早くも4日目のことだった。
兄貴はおばさんとすっかり仲良しで、仕事の話やらなんやらで盛り上がっている。
ひとりベランダに出てコーラを飲んでいた俺に、「バカダイチ」とソニアが傍に寄ってきた時の話だ。
いつか、誰かにしてみたい。
誰かと共有してみたい。
そう思った話だったから、日向先輩への手紙の中にも書いてしまった。
「懐かしい?」
「ママが好きなコトバ。ワタシも好き」
ソニアはベランダのフェンスにもたれかかりながら、俺を見上げた。
懐かしい。
日本人が好きなコトバだけど、
英語にはそれをぴったりと現す単語がないらしい。
というよりは…
その感覚自体がよく分からないらしい。
「nostalgia、はあるけど」
ソニアがそう言うから兄貴から電子辞書を借りて引いてみたら、
nosalgiaは「郷愁」だった。
失われた過去を慈しむ気持ち。
…でも、なんか、ちょっと違うな。
悲しいだけじゃなくて、でも悲しいときもあって…
なんとも言えない切ない気持ち。
"懐かしい"は、"懐かしい"なんだ。
そうとしか言いようがない。
「ママは、英語にするならit brings back memoriesかなっていってた」
it brings back memories…
"思い出が蘇る"。
そうと言えなくもないかな?と首を捻った俺に、ソニアがふわっと笑った。
「キモチ、わかるよ。ダイチ。英語にもある。そういうコトバ。…英語じゃなきゃうまくいえない、フィーリング」
ソニアは教えてくれた。
それは、"I miss you"らしい。
「あなたが恋しい、って意味で習ったかな」
俺がそう呟くとソニアは首を捻った。
あどけない顔が、少し難しい表情になる。
「うまく説明できナイ」
それでも、ゆっくりと、説明してくれた。
"I miss you"は
あなたがいなくて寂しくてたまらない、というような、とても切ない感情を現す言葉らしい。
英語でしか伝わらない、あるいは日本語でしか伝わらない独特の切ないニュアンスがある。
それを初めて学んだ。
「ダイチにとって、ヒナタは…"懐かしい"?」
そう聞かれて首を捻った。
そうなのかな。
懐かしいといえば懐かしい。
あのフィールドに、あの仲間たちと、あの先輩たちと戻りたい。
今でもそう思う。
だけど、
"懐かしい"は、戻りたい気持ちじゃない。
戻りたいけど戻らない時間を想うとき
戻したいけど戻せない時間を想うとき
なんとも言えずに胸が締め付けられる。
だけど、その後に小さな…本当に小さな暖かさがほっこりと生まれる。
小さいけれど確かな暖かみ。
――それが"懐かしい"んだ。
「どちらかといえば、I miss youかな」
「…?」
「日向先輩がいないと、寂しくて会いたくてたまらないんだ。俺だけじゃなくて…みんな」
ソニアに聞かせるというよりは、自分自身に呟くようにそう言った。
瞼を閉じると柚先輩の顔が浮かんだ。
――会いたいだろうな。
会いたくてたまらないだろう。きっと。
余計なお世話かもしれないけど、
会わせてあげたくてたまらない。
…でも
ひとつ大きな謎がある。
日向先輩がいなくなった理由だ。
それがわからないから、みんな戸惑ってるんだ。
――本当はそれを知ることが一番の目的なんだ。
そういう意味では過去に戻りたい。
先輩がいなくなってしまう前に、もっと先輩の話が聞けたなら良かった。
「そろそろ遅いから中に入ろう」