カナさんはにこっと笑った。
笑顔がめちゃくちゃ可愛い。
アップルティーを冷ましながら少しずつ飲んでいくと、心の中からじんわりと暖まっていくような気がした。
「このあたりは郊外だから、あまり日本人がいないの。珍しいわね。大地くんは観光?」
そう聞かれて、俺はカップを置きながら「まぁ…そんなところですかね」と答えた。
カナさんは目を丸くした。
「何もないでしょう。この辺」
「ここに来ること自体に意味があるようなものなので」
そう小さく笑った俺に、彼女は頬杖をついて興味深そうな目を向けた。
細く白い左手の薬指には、シルバーの指輪が光っている。
「自分探しの旅ってやつ?素敵ね」
「平たく言えばそうですね」
「学校は?今高校生でしょ?」
「受験生ですけど一週間休学です」
一週間っていったら、インフルエンザで寝込むのと変わらないぐらいじゃない。
カナさんがそう笑ったから、つられて笑った。
そんな感じで、学校のことや家族のこと…いろんな他愛ない話を続けた。
しばらくしてカップの中のアップルティーがだいぶ減ってきた頃、カナさんは軽く目を伏せながら言った。
「いいね。大地くんみたいな人と話してると、元気もらえるよ」
「いや。俺はそんな…全然」
「でもすごく行動力があるじゃない」
それは。
そう言いかけた言葉を一度飲み込んだ。
…人捜しをしていることを、カナさんに言うつもりはなかった。
でもまぁ、これぐらいは言ってもいいかもしれない。
そう改めて考え直して、口を開いた。
「憧れてた人がいたんです。すごく行動力があって…優しくて、強くて。先輩なんですけど」
カナさんは「そうなんだ」と呟くように言った。
―――どこか遠い目をしていた。
少しの間、何も考えずにアップルティーの香りの余韻を楽しんでいた。
カナさんも何も言わなかった。
それでも、
「大地くん」
ふと名前を呼ばれて、顔を上げた。
カナさんはマグカップを流し台に持っていくと、それを洗いながら言葉を続けた。
「リンゴを拾ってもらっただけで、男の子を家に上げようなんて、普通は思わないんだけど」
カップを洗う水の音が響いた。
俺は、柚先輩にとても良く似たその後ろ姿を見つめていた。
「それでも、思わず大地くんを家に上げてしまったのはね。
…わたしにも、あなたに良く似た、日本人の友達がいたからなの」
―――少しだけ昔話をしていいかな?
彼女はそう言って、小さく笑った。
――――――先輩、お元気ですか?
風邪ひいてないですか?
無茶してないですか?
便箋がついに、最後の一枚になりました。
(これでもだいぶ小さい字で詰め詰めに書いてます)
長い長い手紙もそろそろ完結です。
俺の長い長い旅ももう終わりました。
最後は
嘘みたいなホントの話。
冗談みたいな、
そんな話をして
締めくくってみようと思います。
――――「高校の時にね、好きな人がいたの」
カナさんは小さなクッキーを出してくれた。
お茶と一緒に出すつもりが、すっかり忘れちゃった。
そう小さく笑いながら。
それでも俺はクッキーよりも、カナさんの話に釘付けになった。
「その人とは…」
「なんにもならなかった。2年の時だけクラスが一緒になれたんだけどね、所詮はただのクラスメート。…先生に頼まれたプリントを渡すときぐらいしか話さない。そんな感じだったな」
彼女の細い指に光る指輪が、気になった。
それにさり気なく目を遣ると、すぐに気付かれてしまった。
「あ、これ?」
「…すみません。思わず気になって」
「最近出来たの。優しい優しい彼氏。アメリカ人だけどね」
カナさんは柔らかく笑った。
本当に幸せそうな、心からの笑顔だった。
「過去に戻れたらいい。そう思うことはあるけど、いざ戻れる魔法みたいなチャンスが現れたとしたら…わたしはきっと戻らないな」
「あの…」
「…うん?」
「その、好きだった人は…」
ああ。
話を続けなくちゃね。
カナさんは微笑んで頷くと、話を続けてくれた。
「その人は色々事情があって…話せば長くなるし難しいから省くけど、本当に色々あったの。
高2の夏かな。…いや、夏よりもっと前かな。
わたしは最初からアメリカに進学する予定だったから、進路指導室に向かってたのね。アメリカの大学をいっぱい載せたパンフレットを持って。
…そしたら、彼にたまたまぶつかったの。」
その時のその瞬間を思い出すように、懐かしそうな表情になった。
「わたしは眼鏡なんて掛けちゃって、もう本当に真面目すぎる地味な高校生だった。でも彼は本当にきらきら眩しくて。憧れだった。
――『ごめん、前よく見てなかった』
って、白い歯見せて軽く笑ってね。ぶつかった瞬間は頭に来たんだけど、一気に許せちゃったぐらい。
それにわたしは彼に憧れてたから、緊張やら恥ずかしいやらで顔もまともに見れない状態ですぐに立ち去ろうとしたの。
そしたら『待って。よく見せて』って言われて。びっくりした。
思わず心臓がドキドキしたんだけど、彼が指さしてたのは、わたしの持ってたパンフレットだったのね」
少女漫画みたいなシチュエーションを期待しちゃって。恥ずかしかったな。
カナさんはそうはにかんだ。
「わたしはそのパンフレットいっぱい持ってたから、あげるよって言って持ってたやつ全部あげたの。驚いてたけど、『悪いな。ありがとう』って笑顔見せてくれて。本当に嬉しかった。
だからわたし、勇気を出して聞いてみたの。
『あなたもアメリカに行くの?』って。」
呼吸さえうまく出来ないまま、俺は黙ってカナさんの話を聞いていた。
目の前で紡がれる彼女の言葉ひとつひとつを、聞き逃さないように受け止めるしかすべがなかった。
「そしたら彼は、ちょっと困った顔になって。
それから小さく笑って小指を立てて言ったの。
『そうかもしんない。…でも、それは谷村の心の中だけに秘めといて』って。あ、谷村っていうのはわたしの苗字なんだけどね。
でもすごく、すごく嬉しかった。わたししか知らない秘密が出来たこと。関わることもないだろうな、って思ってたから。ずっと」
カナさんはそっと目を閉じた。
本当に憧れてたこと、本当に好きだったこと。全部が自然と伝わってくる。
「今思えば恋愛感情じゃなくて、憧れだったのかもね。その人がどうしたって振り向いてくれないことはわかっていたし、無理に振り向かせようなんて考えたこともなかった」
でもね、とカナさんは優しい目を俺に向けた。
やっぱり柚先輩に似た、まなざしだった。
「今の彼氏は大好きだし今の人と結婚するつもりだけど、それでも彼は一生忘れられないし、忘れたくもない。素直に思い出と共に生きていこうと思ってるのよね。
初恋だったの。本当に」
はつこい。
初恋。
とてもきれいな言葉だ、と思った。
俺はゆっくりと「それで…」と口を開いた。
「それで、その人は今…?」
カナさんはクッキーの入っていた缶を手に取ると、椅子から立ち上がって台所の棚に歩み寄った。
「高3の時には既に行方がわからなくなっちゃったの。わたしもクラスが変わっちゃったし、詳しいことは耳にしなかったんだけど。だから驚いたわ」
パタン。
クッキーの缶を棚にしまって小さな扉を閉めると、カナさんが振り向いた。
「アメリカで再会した時にはね。すごく驚いた」
「……え…」
――…一瞬、うまく声が出せなかった。
瞬きさえも忘れて、目の前のカナさんを見つめた。
俺のそんな様子にも気付かずに、彼女は「ごめんね」と小さく笑った。
「長々とこんな話しちゃって。その人ね、本当に大地くんに似てるの。だからつい」