そうだ、親戚が来てるんだった。恐らくこの声の男が、ベンツの持ち主なんだろう。
「いますぐに結論を、とは言いませんから」
誰も喋らない、妙な沈黙が流れる。
何の話か全く分からないけれど、深刻な話だということぐらいは判る。
どう楽観的に見ても、私が電球を持って入っていける空気じゃない。
うわ、めんどくさい時に来ちゃったなぁ。と、手に持った電球を見つめた。
とりあえず置いていくか。
そぉっと靴を脱ぐと、台所に足を踏み入れた。
テーブルの上に置いておけば、おばちゃんも気が付くだろう。
そろそろとつま先立ちでテーブルに向かうと、ドアの僅かな隙間から居間の様子が見えた。
「前向きに検討してみてください」
黒いスーツに眼鏡をかけた、40代前半くらいのおじさんが頭を下げた。
――見たことのない人。
「そうですよ、悪い話じゃないんだから」
おじさんの左側で頷いたのは、志津達の通う高校の校長だ。
隙間からそっと覗くと、反対側にはサッカー部の顧問もいる。
どうして。何で先生たちがここに。
「でも……」
長い沈黙を破って、悠太のおじちゃんの戸惑った声が聞こえてくる。
「いきなりそんな事を言われても……なぁ?」
「え? えぇ……言葉の問題もありますし……」
突然話を振られたおばちゃんも相当困惑している様子だ。
何の話だろう。
私はドアに張り付くようにして、耳をすました。
「言葉の問題は大丈夫だよ。すぐ慣れる」
悠太の声だ。おじちゃんやおばちゃんとは対象的に、声が明るい。
状況が掴めなくて、頭の中が『?』でいっぱいになる。
「成長するには、今が一番良い時期なんです。こんな所に居てはもったいないです」
スーツのおじさんが、熱っぽく語ったが、私は「こんな所って……」とその言葉に少しムッとした。
「向こうでは地元のクラブチームに所属してもらうことになりますが、選手から指導者から全てが一流です。悠太君にとっては良い刺激になる筈です。だからこそ」
眼鏡のおじさんは咳払いをして畳み掛けるように言った。
「是非ロンドンへ留学して頂きたい」
――留……学……?
ごとん、と鈍く低い音が床を叩いた。
一瞬手の力が抜けて持っていた電球を落としてしまったのだ。
「なんだ?」
音に気が付き居間にいた全員が一斉にドアを見る。
私は完全にフリーズしていた。
頭が熱くてぼぉっとする。
居間のドアが勢いよく開くと悠太が顔を出した。
目が合うと、悠太の目が丸くなった。
「志津……!」
嘘だ。
悠太の言葉の続きも、落とした電球も無視して、家から飛び出した。
凍り付いていた鼓動がどんどん早くなる。
今のは嘘だ。聞き間違いだ……。
悠太が……ロンドンなんて行くはずがない……。
行くわけがない!
必死に自分に言い聞かせていた。
夜になって降り始めた雪が、街頭に照らされてきらきらと光る。
夜の海は真っ暗で、静かに波打つ。
時々吹き付ける北風が冷たい。
テトラポットに体育座りをして小さく丸まる。
「……やっぱりここに居た」
白い息を吐きながら、テトラポットを見上げて制服姿の悠太が笑った。
「志津の駆け込み寺だな、ここは」
すぐに追いかけてきてくれたんだ。
「志津はさぁ、何かあると絶対にここに避難するんだ。昔っから」
テトラポットに積もった雪を払いのけ悠太が隣に座る。
押し黙ったままの私を覗き込むと苦笑いを浮かべた。
「さっきの。聞いてた?」
「……うん」
「そっかー」
真面目な口調に変わった悠太が言った。
「さっきの眼鏡の人、サッカーのU-18の日本代表監督」
「……ふうん」
さほど興味がないように適当に相槌を打った。
でも、心臓の鼓動は確実に早くなる。
「監督がわざわざこんな田舎まで来てくれたんだ。すごくない?」
悠太はゆっくりとした落ち着いた声でが、隠しきれてない。
体中から嬉しいオーラが溢れ出している。
――下手くそ。
悠太から目を逸らして、膝を抱え込む。
中学生の頃から恐れていた事が、現実になってしまった。
中学生の頃はまだ覚悟が出来ていた。悠太は中学を卒業したら町を出て、サッカーの強豪校へ進学すると思っていたから。
でも悠太はここに残った。私たちがいるこの町に。
だから、これからもずっと一緒にいられるんだって勝手に思っていた。
こんなの全部夢ならいいのに。
喉の奥がぎゅうっと詰まる。
「……なんで悠太は」
考えていたことが、思わず口をつく。
「どうして高校でサッカーの強豪に行かなかったの?」
これは完全に八つ当たり。
同じ高校に進学していなければ、今更こんな思いしなかったのに。
ずっと一緒だと思っていたから、余計に裏切られた気分だった。
悠太の表情が少しだけ優しくなる。
「“地元の仲間達と国立に行くこと”が夢だったから。だからどんな強豪校に行っても意味がなかったんだよ」
「夢だったって……過去形なんだね」
自分でもぞっとするくらい、冷たい声が出た。
こんな言い方がしたい訳じゃないのに。最悪だ。
「1年目で県大会までいけたのは、めちゃくちゃ嬉しかった。でも……」
言葉を切ると、悠太は俯く志津を覗き込んだ。
「志津、国立で試合するってどれだけ凄いことか知ってる?」
「知ってるよ。県大会で優勝しなきゃ国立に行けないことぐらい」
悠太がかぶりを振った。
「それじゃあ国立で試合は出来ない」
「え?」
「県大会を勝ち抜いて、全国大会でベスト4になって、初めて国立競技場に行けるんだ」
「それは……」
知らなかった。
全国大会に行っても更に勝ち進まなきゃならないなんて。
「そんな夢の大舞台、サッカーやってれば誰だって憧れるでしょ!俺も今までは国立に行くことだけ考えて練習してきた。そこがゴールだって思ってたから」
多分、陸もそう思っている。国立が最終目標だって。
でもそれは逆に言うと、部活を引退するまでの期間限定の夢なんだ。
悠太が真っ直ぐ前を見据える。
「でも今は違う。その先を見たくなった」
顔を上げた志津と悠太の視線がぶつる。
「プロになりたい」
聞きたくなかった。
そんな台詞は聞きたくなかったったのに。
「監督は俺に才能があるって言ってくれたんだ。俺の成長次第では、U-18の大会に招集したいとも言ってくれた」
それ以上聞きたくない。喉の奥が苦しい。
耳を塞ぎたくなった。
「でも、それには今のままじゃダメなことぐらい俺にも分かる」
目頭が熱い。
視界に映る悠太が涙でゆがんだ。
「だから……ロンドンに行くの?」
声が震えた。
違うよって言って。
この町にいるに決まってるだろって言って笑って。
「うん」
まっすぐな目で悠太が答えた。
小さい頃から見てきた目だ。
悠太はいつも、自分の進むべき道をひとりで決める。
誰かに流されたりしない。
だから、ここで止める事が無意味なことぐらい百も千も万も承知だ。
それでも――言いたいことが山ほどある。
胸が痛い……。
胃がタオルみたいにぎゅうっと絞られる。
泣いたらだめ。絶対にだめだ。
涙がこぼれないように、下唇を思いっきり噛んだ。
――行かないで。
そんな遠い所……行かないで。
嫌だ……行っちゃ嫌だ。
私……悠太が好きなんだよ?
「……そっか。すごいじゃん」
平気な声を装って、悠太の肩をたたいた手が小刻みに震える。
「さっきは、突然ロンドンって聞いたから驚いちゃったけど、案外近いもんだよね!」
悠太は笑いもせず無表情で「うん」とだけ言った。
せめて笑って欲しかった。
一世一代の強がりに、気が付かないふりをして欲しかった。
本当の気持ちなんか言えるわけない。
『行かないで』なんて言えない。
だって私は、彼女でもなんでもない。
ただの幼なじみだから。
「日本代表になれるかもなんて、すごいチャンスじゃん、私も幼なじみが有名人になったら嬉しいよ」
自分に言い聞かせるようにして笑った。
こんな……こんな小さな町に居たら、叶う夢だって叶わない……。
こんな町にいつまでも居たら、悠太がダメになる。
「今日見たいテレビがあるんだった!じゃあまたね」
悠太の目も見ないで、急いでテトラポットから飛び降りる。
顔を見てたら泣いてしまいそうで、一刻も早くここから立ち去りたかった。
「わ!」
飛び降りた途端、体のバランスが崩れて思わず間抜けな声が出る。
前のめりになったまま、雪が薄く積もったアスファルトに膝から着地した。
膝に鈍い痛みが走る。
格好悪……。
「おい、大丈夫か!?」
慌てた悠太がテトラポットから飛び降りた。
「来ないで!!」
駆け寄ろうとする悠太に向かって叫ぶ。
怒ってると思われたかもしれない。
悠太の足音が止まり、自分の呼吸と波の音だけが大きく聞こえる。
「……大丈夫だから」
振り向かない。
振り向けば、悠太が心配してくれるだろう。
でも……今振り向いても笑える自信がない……。
目の前が涙で滲んでいた。
「ばいばい」
膝からうっすらと血が滲む。
走ると冷たい風に当たって刺す様に痛んだ。
でも――……。
こんな傷、全然痛くない。
心の方がずっと傷だらけだ。
喉の奥がぎゅっと締め付けられ、我慢していたはずの涙が溢れ出す。
悠太が、一気に遠い存在になってしまう。
この町から……悠太がいなくなる。
血の滲む膝を抱えて、積もったばかりの雪の上にしゃがみこんだ。
「好きなのに……」
嗚咽が漏れる。
誰もいない海沿いの道で声を出して泣いた。
小さい町だから、噂はあっという間に広がった。
悠太がロンドンへサッカーのために留学するらしい、と。
志津達の高校はロンドンに姉妹校がある。
悠太はそこへ留学することになった。
向こうのクラブチームに所属して、練習をするらしい。
――全部、噂で聞いた話だ。
だってあの日以来、悠太とは口を聞いていないから。
あれからというもの、私は悠太を露骨に避けまくっている。
周りの友達は「どうしたんだ、あいつら」と苦笑いして首を捻っていたけれど、そんな事いちいち説明したくはない。
どうせ「志津、わがままだなー」と笑い飛ばされるに決まっている!
悠太が話しかけようと近付いて来れば走って逃げたし、
「志津―」と呼ばれても聞こえない振りをした。
梢子が「悠太呼んでるけど……」と気まずそうに囁くのだって無視した。
避けられているのは分かっている筈なのに、何度も話しかけようとする悠太の無神経さに腹が立つ。
もう私の事は放っておいて欲しい。
私は何が何でも絶対に悠太とは話さない!
だって話すと「行かないで」と言ってしまいそうだから。