茜色の空の下。
県立球場のアルプススタンド。
フェンスの網目から、穏やかな西陽が差し込んでいた。
翠が唇を離そうとする。
でも、おれは翠を抱き締めてそれを阻止した。
今日くらい、いいじゃないか。
長い長い口付けを交わしたって、バチは当たらないと思う。
どうせ、明日からまた練習の日々だ。
だから、今のうちにたくさんのキスをしておこうと思った。
首に巻き付いていた翠の腕の力が、少しだけ緩んだ。
コトン、と音がした。
翠の手から必勝の御守りが落ちた音なのだろう。
あの日、紅く熟れた真夏の果実に照らされながら、おれはフランス人形を抱き締め続けた。
勿体なくて、痛ましくて、本当は抱き締めるだけのつもりだったけど。
何度も何度も、口付けをした。
あのさ、翠。
なによ、補欠。
ずっと、一緒にいような。
しょうがないわね。ずっと、一緒にいてあげる。
西風が、夕焼け色のアルプススタンドを爽やかに吹き抜けて行った。
あの日の約束を、一年経った今でも、翠が忘れずにいてくれたら、おれはそれだけで幸せだ。
「あ……消えてきた」
名残惜しそうに、修司が呟いた。
消えかけた彩雲を見つめながら、おれたちは肩を組んで、いつまでも夏の風にあおられていた。
墓地公園の片隅にタチアオイが1本だけ立っていて、もうすぐ梅雨が明けるよと風に揺れていた。
「さて。そろそろ向かうか。翠のお初棚」
消えかけた彩雲に背を向けて、健吾がきびすを返した。
「ああ。そうだな」
と修司もきびすを返し、歩きだした。
でも、おれはただ真っ直ぐに、虹色に輝く不思議な雲を見つめていた。
ああ、眩しい。
お前みたいだな。
翠。
小さく笑って、おれは黒いネクタイをきゅっと締め直した。
彩雲が、もう間も無く消えようとしている空を見上げる。
遠いな。
太陽までの道のりって、どれくらいあるのだろうか。
遠く離れているから、心細い。
でも、翠は元気にやっているだろうから。
翠のそんな姿を想像してみる。
すると、おれも元気がでる。
でも、翠はさみしがりやだから、たまに泣いているだろうから。
お前みたいなさみしがりやは、いつか、おれがそっちに行くまで待ってなさいってこった。
虹色に輝く彩雲が、消えた。
ベールのような雲が左右にはけていった。
昼前の陽光が降り注いでくる。
ああ、眩しい。
左腕で額を覆いながら目を細めて、空を見つめていると、修司がおれを呼ぶ。
「響也! 行こうぜ」
「ああ、うん」
眩しい青空に背を向けて、おれは駆け出した。
ビョオッと突風のような強い風が、おれの背中を押した。
ハッとして、振り向いた。
太陽のきつい陽射しと目が合った。
補欠!
「翠……」
いつの日だったか、翠に言われた言葉が頭をよぎった。
踏ん張れ!
補欠!
乳白色に発光する太陽に微笑んで、おれは頷いた。
うん。
きみが笑っているのなら、それだけで、おれは幸せです。
きみは、涙が出るほどいい女でした。
「なにやってんだよー! 響也あー」
石段のところで、健吾と修司が手招きをしていた。
「おし」
もう一度、ネクタイをきつく締め直して、スーツをビシッと着直して、おれは駆け出した。
「悪い、健吾、修司」
何度も何度も、後ろを振り返りながら。
翠。
おれ、南高校の教師になる。
んで、野球部のコーチやるんだ。
それで、もう一度、甲子園を目指そうと思う。
翠を、もう一度、甲子園に連れてってやるよ。
だから、約束忘れないでいて欲しい。
翠と出逢ったのは偶然じゃなくて、運命でもなくて。
宿命だったんだって、証明してみせる。
生まれ変わったら、また恋に落ちる宿命を、この手で証明してみせる。
おれは、これからも毎年、夏を待ちわびるのだろう。
翠の幸せを、夏にかけるために。
あの日、夕焼け色のアルプススタンドで誓った約束を、おれは夏にかけ続ける。
だから、そこから見ていて欲しい。
彩雲の向こうから、いつも、おれだけを見ていて。
そして、来世にまた出逢ってくれないか。
その時は、またおれから気持ちを伝えようと思う。
好きです、とか、付き合って下さい、だとか。
そんなありふれた告白じゃなくて。
きみがびっくりしてひっくり返るような告白をしようと思う。
迷わずに、伝えようと思う。
「翠ってさあ、強烈な女だったよなあ」
クスクス笑いながら、健吾が石段を下り始めた。
「そうそう。初めて会った時はびっくりしてさあ! 聞いてくれよ、健吾」
楽しそうに話しながら、健吾の跡を修司が追い掛ける。
長い石段を2段下りたところで、おれは、もう一度振り向いた。
青空。
墓地公園の片隅に、咲き終わりを迎えたタチアオイ。
夏の風に揺れるタチアオイを見つめて、おれは問い掛けた。
誰にも聞こえないように。
翠にだけ聞こえるように、こっそり。
また今度。
出逢ったら、と心の中で言ってから、口に出した。
あの日、夏風に揺れるタチアオイの向こうに、おれは、翠の面影を見たような気がした。
翠は、笑っていた。
まるで、太陽のように。
「その時は、おれのとこに嫁に来ないか」
【END】
翠へ
きみのことだから、元気なのだと思う。
おれは今現在も、きみの居ない現実を受け入れられずにいる。
目が覚めると、きみに電話をかけようとして、奥歯を噛み締めているおれがいる。
静かな毎日です。
きみが隣に居ない日々が、これほどまでにつまらないなんて知らなかった。
でも、おれは真っ直ぐ生きていこうと思う。
きみのように、どこまでも真っ直ぐに。
タチアオイが咲く頃になると、嬉しくなる。
きみが笑っているようで、心が暖まる。
来世、また好きになってもいいだろうか。
一緒に夏を駆け抜けてくれますか。
誓おうと思う。
だから、かけてくれないか。
きみの幸せ。
おれにかけてくれませんか。
好きです。
翠。
いとおしい。
ありふれた言葉で、ごめん。
最後に一言だけ、言っておこうと思う。
太陽でした。
きみは、おれの太陽でした。
2009.8.13
夏井 響也