七時十二分発の上り電車を、彼女はいつも見送った。
乗らなかった。ただ、ホームの端に立って、風に髪を揺らしながら、遠ざかる車両の背を見ていた。
木下は最初、通勤途中に気づいた。翌朝も、その翌朝も、同じ場所に同じ人がいた。乗らずに見ている、それだけの人だった。
一度だけ、雨の朝があった。ホームの床に水たまりができていた。彼女は傘を持っていなかった。濡れてもいなかった。足元だけ、乾いていた。木下はそのことを、誰にも言わなかった。
いつごろからか、それが木下の一日の始まりになっていた。
彼女を見てから、電車に乗る。ただそれだけのことが、十五年間の通勤を支えていた。
---
声をかけたのは、秋も深まったある朝だった。
理由はわからない。ただ、その日だけは足が止まった。
「毎朝ここにいますね」
彼女は驚かなかった。振り返って、少し目を細めた。
「あなたこそ、毎朝乗っていくじゃないですか」
名前を聞いた。月島と言った。木下は自分の名前を告げた。
月島は一度だけ、「知ってます」と言いかけて、止まった。気のせいかもしれなかった。
それから、少しずつ話をするようになった。七時十二分までの短い時間に、他愛のないことを言い合った。寒くなったとか、駅前のパン屋が変わったとか、ホームの鳩が増えたとか。
ある朝、月島が聞いた。
「猫、飼ってますか?」
唐突だった。木下は少し考えてから、飼っていると答えた。
「白い猫で、ハルという名前です」
月島は何も言わなかった。ただ、遠ざかる電車の背を見ながら、小さくうなずいた。
---
冬になった。
月島は笑うとき、口元よりも先に目が動いた。何かを思い出す目だった。少しだけ遠くを見ていた。木下はそれが好きだった。
春になった。
月島は桜の散るホームに立って、「きれいですね」と言った。木下もそう思った。その朝、家を出るとき、ハルが玄関までついてきて、じっと木下を見ていた。
夏になった。
ある朝、木下は言った。
「これからも、ずっとここで会いたい」
月島は少し黙って、それからゆっくりうなずいた。
「私も」
---
十一月のある朝、月島は電車を見送りながら言った。
「十五年前——ここで、終わったのかもしれない」
木下は何も言えなかった。
「あなたが来てくれてたから。ハルが——」
風が吹いた。月島の髪が揺れた。
「今日、あなたが——」
それだけだった。
木下は、気づいていたのかもしれない。
ずっと乗らずに電車を見送る人が、なぜ雨の日でも濡れていないのかを。なぜ十五年間、一度も欠かさずそこにいたのかを。なぜ、あの朝ハルの名前を聞いたのかを。
けれど、なぜ木下だったのかは、わからないままだった。
「行かないでほしい」
月島は首を横に振った。笑うとき、口元よりも先に目が動いた。
「ハルのそばにいてあげて」
電車が来た。
七時十二分。
月島は何も言わなかった。ただそこに立っていた。風が吹いて、ホームに朝の光が差してきた。
木下は一歩、踏み出した。足が少し重かった。ドアの前で一瞬止まって、手を上げかけた。
乗った。
首が、少し動いた。それだけだった。
振り返らなかった。
電車が動き出した。窓の外に、ホームが流れていった。
何も起きなかった。
その日の夜、台所で湯を沸かしているとき、突然手が止まった。ハルが足元に来て、一度だけ鳴いた。木下はしゃがんで、しばらくそこにいた。
次の朝、ホームの端に誰かがいるような気がした。木下はしばらくそこを見ていた。
乗らなかった。ただ、ホームの端に立って、風に髪を揺らしながら、遠ざかる車両の背を見ていた。
木下は最初、通勤途中に気づいた。翌朝も、その翌朝も、同じ場所に同じ人がいた。乗らずに見ている、それだけの人だった。
一度だけ、雨の朝があった。ホームの床に水たまりができていた。彼女は傘を持っていなかった。濡れてもいなかった。足元だけ、乾いていた。木下はそのことを、誰にも言わなかった。
いつごろからか、それが木下の一日の始まりになっていた。
彼女を見てから、電車に乗る。ただそれだけのことが、十五年間の通勤を支えていた。
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声をかけたのは、秋も深まったある朝だった。
理由はわからない。ただ、その日だけは足が止まった。
「毎朝ここにいますね」
彼女は驚かなかった。振り返って、少し目を細めた。
「あなたこそ、毎朝乗っていくじゃないですか」
名前を聞いた。月島と言った。木下は自分の名前を告げた。
月島は一度だけ、「知ってます」と言いかけて、止まった。気のせいかもしれなかった。
それから、少しずつ話をするようになった。七時十二分までの短い時間に、他愛のないことを言い合った。寒くなったとか、駅前のパン屋が変わったとか、ホームの鳩が増えたとか。
ある朝、月島が聞いた。
「猫、飼ってますか?」
唐突だった。木下は少し考えてから、飼っていると答えた。
「白い猫で、ハルという名前です」
月島は何も言わなかった。ただ、遠ざかる電車の背を見ながら、小さくうなずいた。
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冬になった。
月島は笑うとき、口元よりも先に目が動いた。何かを思い出す目だった。少しだけ遠くを見ていた。木下はそれが好きだった。
春になった。
月島は桜の散るホームに立って、「きれいですね」と言った。木下もそう思った。その朝、家を出るとき、ハルが玄関までついてきて、じっと木下を見ていた。
夏になった。
ある朝、木下は言った。
「これからも、ずっとここで会いたい」
月島は少し黙って、それからゆっくりうなずいた。
「私も」
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十一月のある朝、月島は電車を見送りながら言った。
「十五年前——ここで、終わったのかもしれない」
木下は何も言えなかった。
「あなたが来てくれてたから。ハルが——」
風が吹いた。月島の髪が揺れた。
「今日、あなたが——」
それだけだった。
木下は、気づいていたのかもしれない。
ずっと乗らずに電車を見送る人が、なぜ雨の日でも濡れていないのかを。なぜ十五年間、一度も欠かさずそこにいたのかを。なぜ、あの朝ハルの名前を聞いたのかを。
けれど、なぜ木下だったのかは、わからないままだった。
「行かないでほしい」
月島は首を横に振った。笑うとき、口元よりも先に目が動いた。
「ハルのそばにいてあげて」
電車が来た。
七時十二分。
月島は何も言わなかった。ただそこに立っていた。風が吹いて、ホームに朝の光が差してきた。
木下は一歩、踏み出した。足が少し重かった。ドアの前で一瞬止まって、手を上げかけた。
乗った。
首が、少し動いた。それだけだった。
振り返らなかった。
電車が動き出した。窓の外に、ホームが流れていった。
何も起きなかった。
その日の夜、台所で湯を沸かしているとき、突然手が止まった。ハルが足元に来て、一度だけ鳴いた。木下はしゃがんで、しばらくそこにいた。
次の朝、ホームの端に誰かがいるような気がした。木下はしばらくそこを見ていた。



