征夷大将軍

あらすじ

神獣鏡 という青銅鏡の考古学ミステリー

を題材に学校の教科書にはでてこない

謎が多く考古学好きにはたまらない古文書を

かなり紐といた歴史的超大作のロングセラー

にしますが、ところどころ話やストリーが

かなり脱線して、短編エッセイや他の

話になりますが必ず本題に軌道修正は

しますから、読みたくないストリーは

飛ばして下さい。

登場人物は歴史上にかなり名前を残している
偉人や歴史に出てくるメジャーな人物が
出てきます。

以前に大河ドラマにしようとしていた

原作の(四神獣)(神獣鏡)(徐福伝説)の三部作を

集合させる超大作になります。

ロングセラーで本社の大河ドラマの原作を

狙う為に今まで編集できないでとっておくしか

なくて、秋になったので編集をし直します。

2026年11月1日から書きはじめました。



第一章 〚征夷大将軍〛

平安時代時代の甲斐源氏発祥の武将の新羅三郎義満という武田信玄公よりも古い戦国武将で平安時代から鎌倉時代にかけての甲斐源氏の武将で

平安時代は茨城県はひたちなか市に皇族があり

そこで妾の女を兄の平清盛に寝取られてしまい

頭にきて気性の荒かった弟の義満はおもわず

兄の平清盛をぶん殴ってしまい、そんな兄弟喧嘩

が原因で源氏と平家が2つに別れてしまい

源平合戦が始まってしまった事が鎌倉時代を経て

戦国時代にまでの争いの時代のきっかけになった

みたいです。

当時は征夷大将軍という階級がまだなくて

武将という言い方で、ひたちなか市では謀反を

起こしたので追放されて山梨県、甲斐の国全体を

統括するようにと清和天皇の孫に値する皇族の

戦国武将の原点みたいな武将であるから

ひたちなか市から家来5、6人を引き連れて

馬に乗り茨城県はひたちなか市から箱根山の

足柄山などを経由して甲斐の国の平塩の丘にある

熊野神社に辿りついたという事です。

旅の途中に足柄山で熊な遭遇して、義満本人や

家来でお付きの源義経や 源(なんとか?)数名

たちはマサカリで熊を撃退して馬に乗せて

道中で熊を食べながら平塩の丘まで辿りついて

笙 しょう の名人であり家来5人たちと酒を

交わしながら宴を開いて熊鍋を突いて熊を

食べながら酒を飲んで長い道中の宴を開いて

いた事からはじまります。

足柄山や箱根山では金太郎のモデルになって

いて日本昔ばなしなどの金太郎の題材は

新羅三郎義満だったみたいです。

(私がBackstreet 初期作品)という作品を作ってい

た時に、よく山の中でロケをしていかなり熊に遭

遇しそうになっていてまったく関係ないですが

(森の熊さん)をテーマ曲にしていてその頃に

多分、四神獣を書いていたので新羅三郎義満が

金太郎のモデルだったとわかりました。

案外日本昔ばなしやら童話に出てくるキャラクタ

ーは実在で偉人の人をコミカルにアニメにしてい

る事も図書館にあった童話や歴史マンガを

見て勉強していました。

遊びやマンガみたいにわかりやすい文献から

難しい古文書や加賀美墓石店の台帳にあった

村松家の一番古い家系図と園立寺の家系図に実家

の物置きにあった家系図と青洲文庫にあった

家系図はみんな同じ家系図でしたから

リサーチはそれ程難しくなかったです。

孫権をはじめとして始皇帝や徐福に西安王朝の

天才児2000人などが主な登場人物になって

きますから、徐福伝説のリサーチでは

富士山の麓にある浅間神社の近くにあった

徐福村やら本巣湖畔あたりもよく行ったついでに

徐福や神獣鏡に関わる題材をリサーチして

いました。題材をリサーチしていると

他の事までわかってしまい脱線するしかなくなっ

てしまい三部作にしていました。

※※※

ここから本題のはじまり

平安時代の夕方に貴族で皇族の家の5人のお付き

たちと熊野神社にて宴をして酒を交わして一時間

程、話をしていた後に甲斐の国を統括する目的で

やってきた5人は馬にまたがり貴族の高貴な平安時

代の鎧や衣装のままで夜にまだ灯りなどなかった

時代に提灯か松明を手にしながら熊野神社の

数少ない農家の家や、まだこの辺りが古倉と呼ば

れていて苗字も地名だった昔には2000人しか

市川大門には住民はいなかったと古文書には

書いてありました。

平塩の丘からこの辺り古倉までは歩いても10分

程で5人の家来たちとこの辺りを散策したに違いな

いと推測できます。赤提灯を頼りに必ず地元の

居酒屋で情報を調達するのは今も昔も変わらない

で武将など酒や女や宴が好きなはずだから

一丁目にあった、よろずやに最初に立ち寄ったは

ずでその前に夜七時くらいだと想定すれば

この辺りでは大地主で庄屋の兼業農家で村長を

していたはずの家の先代の (法捨信士)法捨信士と

いう戒名を自分につけるような起点の聞いたかな

り頭の良かった村長だと推測できます。

自分の戒名を落としておいて、その後に出来た子

供たち同士を戦略結婚させていたみたいです。

夜七時くらいに赤提灯や提灯の灯りを頼りに

貴族の身分の高い義満たちが馬に乗って

近くにくれば馬の蹄の音で、外に出て確かめる

はずで、甲斐の国に着いたばかりの義満たちと出

くわしたはずです。

そうすれば皇族の使う言葉と甲州弁でも時代が同

じなら話ていれば会話は通じるから家の村長の

爺さんが少し町中を案内したに違いないと推測

できます。

そうすれば必然的に、居酒屋のよろずやに

皆で酒を飲みにいき座敷で義満を中心に家来5人

と家の村長とよろずやの女将や主人たちと

店を貸し切りで夜遅くまで酒を飲みながら

その日は必ず家に六人を泊めて招いていたはず

で家のご先祖様で村長ならそれくらいの接待を

しないはずはないと言えます。 俺ならそうして

いたはずです。

多分よろずやで酒を飲んで少し話ている

途中で、家に戻り風呂の支度や布団の用意を

したり馬をどこに繋くなどの準備をしたり女房や

子供たちにさせてから、夜中泊まれるように

したはずです。それからよろずやに提灯を持って

徒歩でいき一緒に酒を飲みながら腹をわって

気兼ねなく話ていたはずで、過剰接待をしない

はずはなく、かなりの千両の大枚の小判やら

金銀の財宝の褒美を手渡された変わりに自分たち

の住処などや落ちつくまでの身の回りの世話を

するという話になっていたに違いはないと言えま

す。

40歳くらいの俺くらいの過剰接待はしていたはずで、平安時代の征夷大将軍やら甲斐源氏の発祥の武将が突然現れたらびっくりして過剰接待を
しない方がよほど不届き者とされて相手にされないと読めていました。

だからこの作品は長編になるから山本勘助が
主演だった〚風林火山〛の 続編になり
50歳くらいでないと書く事は難しいと温めて
いたという事です。

武田信玄公のご先祖様でもあり家系図では
逸見氏の後は文家になっていて義満の直系や文家や義経の直系やら文家に枝分かれしていて

逸見氏以外は古文書にはあえて残さないくらいに

古文書を見たらかなりかなりの文章も達筆で


馬に乗れはヤブサメ程の馬術と弓の名人で
音楽は神楽の笙の名人で
達筆で古文書を書いていた本人たちであり

当時の2000人の住民を少しの間で
すぐに統括していて、江戸や山梨県県内から
流れてきた罪人200人程を

一丁目のよろずやより上にある根の上地区には
ご先祖様たちが刑務所を作っていたけど

殺人や窃盗罪人たちを管理するのに相当苦労していたから、それらの報告を当時、ひたちなか市の
皇族に知らせていた事もあり、管理できない

200人の罪人が、よろずや

の近くに刑務所があったから、酒を飲みながら

義満やらお付きが刑務所の様子を下見にいき
中の様子を義満に報告していたはずで

その日は疲れてよろずやの座敷にて酒を飲んで
鎧を外して家来たち5人で雑魚寝していたはずで、義満たちが寝てから、家のご先祖様の爺さん
は家に戻って翌日からの急がしくなる事の準備で酒を飲んで寝てしまったはずです。

第一話

〚〛新羅三郎義満と義経たちがやって来た〚〛


著作 オラノオラオ




第二話


翌朝、村長の爺さんは朝早くに馬でよろずやに向かったはずです。

〚〚 早朝 甲斐源氏 〛〛

よろずやでの武将や村長やよろずやの女将と主人の会話

「うちの近くに、木造で古く汚くて不衛生のカワブキ屋根の刑務所が近くにあり罪人が200人も江戸や盆地から流れてきてそれを世話する人も足りなくて、オラたちには罪人たちを殺す事もできないから、お大官様たちがどうにかして下さい。」


新羅三郎義満 「それなら見に行く前にお前たちのこの村の事を当分の間に聞こう。」

と言って毎晩よろずやで無尽が開催される事になり市川大門やら山梨県内にある独特ね地域に根付いているしきたりや文化は、その人たちや

家の、ご先祖様や当時の村の農民たちが
話合いをしながら盆地独特の文化を作って行った。

義満やら家来たちは、武将で武士でもあり
武士と文化や文芸に秀でていた皇族であるから

平塩の丘の熊野神社が本当の甲斐源氏の発祥の土地であり、周りに公家屋敷みたいな雅な神社が
いくつか点在していますが、そういう雅な神社に
ひたちなか市から、義満たちが家来や妾たちの
皇族や貴族を呼びよせて、武家屋敷と神社を一体化させて神道の鳥居のある神聖な神社と
仏さんを祀るお墓を管理する仏閣のお寺を
何もなかった野原を切り開いて平塩の丘に建設していったから平安時代から鎌倉時代 を経て室町時代などは小京都みたいな五輪塔や東寺などの
京都にあるような木造の古い寺院などが実際にあり甲斐源氏発祥の地に相応しい室町時代風な建設
物を自分たちや町内にいる大工や宮大工や職人たちに指示や資金をだしながら時間をかけて
平塩の丘を甲斐源氏の土地に開拓していたはずで
その甲斐源氏というより源氏の勢力を恐れた
魔王の異名もつ織田信長公に平塩の丘は
比叡山みたいに焼き討ちのより木造建築の神社仏閣は火を放たれて朽ち果ててしまったと文献にもある。

昔は天台百坊と言って室町時代まではかなり雅で
神社には桜の庭園がありとても雅だったらしい。

で焼けなこったお寺が現在の真言宗の宝珠院とその隣の天台宗の花園院で毎朝宝珠院と花園院の
鐘が毎朝なっているがまったく、変わっていない。宝珠院のお婆ちゃんはよく俺に宝珠院は真言宗の前は禅宗で曹土宗 (そうどしゅう)の道元だと
たしか話ていて、天台宗も真言宗も元の経典は般若心経だと教えてくれた。

私が若い時に廣瀬先生に弟子入りしてお金を払って得度をしてもらい(建仙)という僧名を貰いました。高野山に、仏師になろうと高野山大学の
お坊さん科に行く予定でお山に行く前に宝珠院にて毎朝2ヶ月覚えるまで般若心経と不動明王真言と真言宗のお経を読経していましたが、
写経しても必ず間違えてしまい今だに般若心経は忘れてしまっています。

世界遺産で弘法大師の空海様が切り開いた
和歌山県の高野山の話はまた後にします。


安土桃山時代の戦国時代には天下統一を目的に
日本国内の各都道府県の戦国武将がこぞって
征夷大将軍の位を争奪して戦国時代に突入しました。それまでの1192年作ろう鎌倉幕府の源頼朝の
鎌倉時代や室町時代はそれ程争いはなかったみたいで千葉県の日蓮聖人が 「禅天魔・真言亡国」と
達磨大師や道元和匠や禅宗の高僧たちや
お大師様や最澄様を否定する発言をして
鎌倉幕府に首を切られて殺される直前に日光の光が幕府の処刑人の目をかすめたという逸話で千葉県から山梨県の身延に流されていて鎌倉時代に身延山を日蓮聖人の総本山にしたという事です。

山梨県の身延やら市川大門にも日蓮宗多いですが日蓮宗は鎌倉時代にできた新しい仏教であり
禅宗や真言宗や天台宗に比べたら、歴史は新しい仏教という事になります。

古来インドのゴーダマシダールダはバラモン教に出家する王子様時代のお釈迦様ですが
ガンジス川の辺りの菩提樹の下で坐禅を組んで
悟りを開いた お釈迦様が(悟りを開いた者を)
仏陀ブッダと呼ぶらしくそこから釈尊とかお釈迦様と呼ばれていてインドの仏教の開祖ですが、
日本の古来仏教は密教ですが由来は

平安時代くらいに、国のから要請で
飛鳥時代~奈良時代にかけて平安京にも飢饉が円満してしまい、当時の調停から平安京に大仏を
建ててたり寺院を建立して(なんとか)を祈願する事になっていたけど肝心な経典がないから

小野妹子らの遣唐使を唐にやり鑑真和匠を奈良寺院に平安京に招いたのは〚〚天平の瓦〚〛を観て知りました。
奈良や飛鳥時代の奈良の大仏様の時代の

初期の古来仏教は唐の高僧の鑑真和匠が唐から
経典を日本に持ちこんでくれたので日本の古来仏教の開祖は鑑真和匠となると思います。


真言宗と天台宗でも調停から
その時代に合う新しい仏典をまた中国から
持ち帰って欲しいとその時代にい合わせた新しい仏教の仏典を求めて空海様と最澄様が 唐の時代の中国に船で渡り少林寺の菩提寺 青龍寺恵果和尚から、理趣経や般若心経やらの経典を空海様と最澄様が持ち帰り、空海様は高野山を開山して真言宗の総本山を建立して最澄様は滋賀県に比叡山を建立しています。

青龍寺の恵果和尚に伝わった密教は元もとは

色んな説があり、西遊記の三蔵法師が
経典を、求めて旅をしていて砂漠で野垂れ死にしそうになったら怪物が現れれて
般若心経を伝授されたというのが一番説得力があるように思いますが、

俺は前に悟りを開いたお釈迦様がインドから中国の道教の開祖で論語の老子様のもとへ会いにいき
弟子入りした時に酒を飲む老子様に対して
ゲコで酒を飲まないお釈迦様たちが仲良く口喧嘩しながら般若心経を2人で作って高野山では
酒の事を般若湯といい、酒は飲んでもよいと
般若湯と、読んでいるから

俺はブッダよりも確かに空海様の方が、頭がよくて柔らかいと高野山の開経偈という
お大師様の生誕の日にお大師様の祭壇で
「南無大師遍照金剛」を目をつむって7回唱えましたら

心か頭の中に 「いつか私を唐 (中国)に連れていって欲しい。」 と聞こえた気がして、それを聞いて熊谷寺だけでなくお大師様の逸話を聞く事があり
それらを聞いたらなんか、仏師にならなくても
俺も中国に行きたいと思っいましたから

色んな理由が高野山でもありましたが高野山から
逃げかえってきて在家の三日坊主という事に
して建仙の証書は廣瀬先生に燃やしてもらいました。

でも西原の山田アパートにて寝ていたら

頭の中に意味も言葉自体も知らなかった

(聖人君子)という四字熟語が降っきた事があり

FAX用紙に その字を書いて壁貼っていた事があります。

また。










インドの釈尊の仏教よりも
真言宗は大日如来を中心とする密教









文芸ともにかなり才能のある武将だったと町の神社やらや得に三珠町の お文殊さんには
能舞台や神楽舞台があり芦川の 川渡りのお祭りは
義経たちが甲斐源氏の最初の仕事は

馬に乗り町中を散策していたはずです。

平安時代でもまだ狩猟の縄文時代の毛皮を着た

原始人みたいな川浦地区の人たちを

義経たちは見かねて、蠅や虫がたかっている

毛皮は不衛生だという事を教えて絹の服を着させ

て矢じりを持っていた縄文人たちに弥生人に

させて貴族の着る絹のシルクを着させて身綺麗に

させる事からはじめたはずです。

当時不衛生でコロナのような飢饉やら疫病が

耐えなかった事などの管理をする現在の

皇族の宮内庁職員としている事は同じはずで

あります。














か弥生時代の

シルク絹の衣装を来ていた






ついて最初に三珠と市川大門の喧嘩や争いが
耐えないので大工や職人たちに木造の橋を共同で
作らせて喧嘩や争いのない用に喧嘩両成敗にもあるように喧嘩があれば仲介役や人を殺したり
窃盗する罪人には頭や身体などに入れ墨を入れて
罪人たちがどんな罪を犯したか誰が見てもわかるようにしたのが日本の和彫りの入れ墨文化に発展していたとも推測できます。


























































































































































〚 トラブルシューティング3 〛


令和の暴れん坊将軍のオラノオラオディレクターは、

インターネットを悪用して

スマートフォンと使用してきたパソコンから

競馬の予想を盗んだ窃盗犯罪者たちから

優先的に刑務所に送還できる

手回しをはじめている。

市川三郷町役場の職員たちが

この20年間に隠蔽してきた犯罪が

これから少しづつ明らかになってくる。

今まで書いてきたノートやらの伝記やら

をまとめて書き始めているが。


まず市川三郷町が合併した時の重要な

町長選からにする。

昭和後期には平和で公平な優しい

遠藤つぐお町長がいた。

竹下内閣の時には碑林公園を提案した

青沼隆三町長がいた。

四尾連湖の有泉という町長の時に

公明党の母体で久保町長の陣営たちは

対抗馬になる町内の自由民主党を指示する

何も悪い事は、していない人たちにマスコ

ミや他の人たちにわからないように

卑劣な嫌がせをしはじめていた。

金丸正明コーチをイースタップで

青酸カリを酒の中に入れて毒殺をしたり、

暗殺や毒殺をする殺人事件がはじまった。

それらの殺人事件を取り締まらいために

鰍沢署の金丸署長の時からSGIの警察部を

県警本部にいる高田の伊藤修一たちが

鰍沢署や南部署に創価の警察部を人事異動

しはじめた。

その頃から鰍沢署には勤務しているはずの

婦人警官がいなくなった。

自分たちを捜索する同僚を留置場に監禁し

て強姦して調教していった。

命が欲しかったら強姦で免れるが

口外しないことを条件にしているのが

この10年間の鰍沢署の実態だ。

久保町長が最初の町長選に立候補した

時からそういう公明党と創価学会の

隠蔽工作がはじまった。

町が合併した頃に創価たちは四尾連湖の有

泉を町長にしていた。

自民党には金丸正明コーチを殺害して

圧力をかけていた。

それらを知っている人には嫌がらせを

していた。

有泉仁を町長にしていた時に俺は

成人式で余興VTRを名取宗俊と2人で

制作していて、小中学校のお世話になった

先生たちからポートレートの VTRビデオを

制作していた。

まだ20歳で撮影の事はまったく勉強して

いなくて成人式の余興VTRを水口屋さん

で徹夜で2日間に編集して完成させた。

20歳の成人式でそれを町の図書館の

大ホールでプロジェクターで上映したのが

俺が映像業界にいくきっかけになった。

当時は酒や音楽と映像をやっていて

町の政治家の事はまったくわかっていなか

った。

お父さんは西八代郡農協の組合長を

まだやっていて従兄弟の高尾賢一さんも

現職の県会議員をしていた。

集合写真を遠藤つぐお町長が建てた

前の町民会館で撮影したが、

俺はよく町民会館や町民体育館や図書館で

撮影や音楽練習をしたり町の図書館で

青洲文庫の古文書やら文献をよく呼んでい

たことめあり 中倉先生という人がいて

宝珠院の平塩寺や甲斐源氏発祥の

貴重な文献をまとめた一冊の本を

託されて参考にしてくれと言われた。


〚銅鐸の本〛だったが神獣鏡という

孫権が作らせた赤烏元年鏡は

国宝になっていて西暦256年という

青銅鏡の国宝の鏡について

よくリサーチをしていたから

図書館にて古文書を読みあさっていた。

古文書を呼んでいると他の本屋さんでも

わからない事がわかりやすく書いてあった。

市川大門の考古学や歴史などを散策する為

に市川大門と三珠町や大塚古墳あたり

を散策にいきながらついでに撮影もしてい

たがまだ配信などがなかった。

大塚にいぶき屋というスタジオがあり

店主の塩島健二さんに神獣鏡の話を

したら、


(その鏡を発掘したのは昭和30年くらいに
いぶき屋のヒイオジイサンが

水上家の自然薯畑で当時使用人だった人が自然薯を掘っていたら偶然に土の中から発掘されたらしい。

いぶき屋のヒイオジイサンがその青銅鏡を
持ち帰って鍋の蓋がわりにして

お湯を沸かしていたらしいが、
青銅鏡にはリンが含まれていて知らないで
リンが含まれているお湯でお茶を飲んでいたら大塚地区で、〚キツネがついた。〛

と大騒ぎになり、それでその鍋の蓋にしていた青銅鏡が赤烏元年鏡という世界最古の
貴重な国宝の神獣鏡である事が考古学博士たちの発掘調査であきらかになった。

高校3年の歴史の授業中に担任の渡辺繁樹先生が、神獣鏡の事を授業で取り上げていた。俺の前の席にいた水上が、
「その鏡なら家の畑で見つかった。」
と言ってみんな興味津々になったが

渡辺繁樹先生は 大学に行ったら
その鏡について研究や論文にしてみたら
面白いかも知れないと俺に向けて話ていたよいに思えた。

赤烏元年鏡は孫権が三国志時代に中国で皇帝になった記念に始皇帝が孫権に作らせて

青銅鏡づくりで四神獣が描かれていて
参照には (この鏡を所持するものはその国の君主である)と、書かれていたので
君主とは孫権の事をさしていて

考古学の中でも学校の教科書には載っていない分野であった。

孫権の部下や西安王朝から2000人の神道を徐福が舟で連れて北九州まで渡来してきたが邪馬台国の卑弥呼たちと
徐福は貿易をしていたという事になる。


〚〛徐福伝説 〚〛

これから書く著作権はかなりの

著作権になります。

























同じようにTBSの下請け会社の赤坂にある

制作会社のTVCの近くあった韓国人の

オーガニックな店で韓国人の店主から

〚奇跡の枇杷の葉療法〛を託されて

これを夜の中に広めて欲しいとその

怪し気な本を貰って西原の山田アパートに

持ち帰っていた。

NHKで制作をしていた時の事だったが

アパートのベランダに枇杷の葉が 生えて

いた。私は最初肩こりや腰痛に聞くと

枇杷の葉をそのまま幹部に貼っていたが

それでも効果はあった。