地方の商人西園寺家当主のもとに、帝から一通の手紙が届いた。当主は手紙を受け取るなり、慌てた様子で自分の娘を呼んだ。「この度帝の後宮が拡張することとなったそうだ。よって15歳から18歳までの婚約者のいないものは1年間後宮に入ることとなる。そのためみやび君に宮入の案内が届いた」
「嫌ですわ。どうして私が後宮に行かねばならないのですか。私には商会の仕事が山のように残っております。1年も後宮に入ってしまえば、この商会は拡大の機会を失ってしまいます」
「しかしだな、我々の一族は権威のある華族ではない、ただの田舎の商人だ。帝の命に逆らえば一家もろともとりつぶしになる」
「ですが」
「もうこの話は終わりだ。一月後には入宮となる故、荷物をまとめなさい」
そう言い残して当主は部屋を出ていってしまった。部屋に残されたのは、みびやとその侍女みみだけだった。みやびは下を向いたままソファーで何かをずっと考えこんでいた。その様子を見かねたみみが声をかける。
「お嬢様、時間もありませんし早速お荷物の整理を始めましょう」
みみから声をかけられたと同時に、みみは心の中で硬い決心をしたような面持ちで顔を上げた。
「いいえ、私は今の状態の商会を放置することはしないわ。よって後宮にはまいりません。そこでミミ、あなた私の代わりに後宮へ1年間行ってきて下さらない?」
みみは自分の主人が何を言っているのかさっぱり理解ができなかった。
「お、お嬢様何をおっしゃっているのでしょうか」
「そのままの意味よ。私、西園寺商会をやめたくないからどうしても後宮には行けないの。私は基本的に内職中心だったから、入れ替わりがばれる心配はないわよ」
みみは自信満々に言い切った。
「そんなこと言われましても……」
みみが10年以上みやびに使えているからと言って、この提案を受け入れられるほどの度胸はなかった。なぜならこれは帝を騙す行為であり、もしことが露呈した場合、商会のとりつぶしはもちろん、皆極刑に処されるだろう。第一、貧民出身のみみは裕福な商家の娘を演じられる自信もない。ただみやびお嬢様が今商会を抜けるわけにはいかないということにも一理ある。なぜならば今いくつも進行中の商談が存在し、それを進めるにはお嬢様の力が不可欠だ。
「もちろんタダでとは言わないわ。後宮にいる1年間は今の給金の三倍は出すわ。それに戻ってきたら半年間の休暇だってあげる」
これはみみにとってかなり良い提案であった。みみは、早くに病死してしまった両親にかわり、妹・ねねの進学費用を貯めているところであった。自分は通えなかった学校に、せめてねねだけでも通わせてやりたい。ねねはかなり頭がよく、留学の話も出ているほどだ。正直、借金をしないと留学は厳しいと思っていた。けれど今目の前に給金という大きな餌がぶら下げられた。
給金が三倍になればもしかしたら学費だけじゃなくて、他のお金も工面できるかもしれない。でも今後宮へ行ったらねねの面倒は誰が見るの。
目の前のニンジンに飛びつきたい気持ちと、バレた時のリスク、ねねのことで、みみの頭の中はせめぎ合った。
「それと、ねねのこれからのことは心配しないで。留学はもちろんみみは後宮へ行ってからの生活もしっかり私が責任をもってサポートするから」
この一言が決め手となり、みみはみやびの身代わりとして1年間後宮へと入ることとなった。
みみが後宮へ入ってからは意外にも平和な日々が待っていた。朝起きて、朝食をとり、読書をしつつお茶を飲んだり庭園で散歩したりと、侍女として目まぐるしい日々を送っていた頃とは比べ物にならないほど穏やかな生活を送った。
他の華族令嬢とは接触をしないようにしていたため目立つこともなく、あと1か月程で後宮を出られるというところまで来たある日。普段誰も来ることのないこの宮に一人の使者がやって来た。
「帝の使いでございます。みやび殿、本日帝がこちらの宮にわたられることとなりました。ご準備をお願いいたします」
みみはその言葉を聞いたとき、目の前が真っ白になった。ここまでどうにか接触せず、バレることなくやってきたというのに。どうしよう。こんな考えが頭の中を駆け巡った。このパニック状態の中使者が何かを話している。けれどみみの頭には話の内容は全くといっていいほど入ってこない。
「……となります。それでは失礼いたします」
使者が部屋から去ったとたん、みみはその場に崩れ落ちた。
「大丈夫ですか」
西園寺から一緒に侍女として来ていたさやがみみのもとに駆け寄ってきた。
「ど、どうしよう。このままじゃ一年で帰れないどころか、一生後宮へ捕らわれたままになってしまう。そうなったらお嬢様は一生表舞台に立てなくなってしまう。それにばれたら……」
「おしずかに。誰が聞き耳を立てているか分かったものではないですよ。それにいったん落ち着いた方がいい。お茶持って来るから」
お茶を取りにさらは部屋から出ていった。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせ深呼吸をする。少し落ち着いたところでどうするべきか、みみは思考を巡らせた。
とりあえず体調を崩したということにしてやり過ごすか。しかし先ほど使者と顔を合わせてしまっている。そんな急激な体調不良の言い訳が通用するわけがない。ならばもういっそのこと逃げてしまおうか。後宮の塀くらいなら登れないこともないだろう。ただそんなことをしたら西園寺家が大変なことになってしまう。そんな非現実的なことを考えている場合ではない。
仕方がない。なんとか顔がばれないようにしつつ今晩だけやり過ごそう。お嬢様と私は背格好がよく似ているから最悪お嬢様が後宮へ公式に来ることになってもバレることはないだろう。それにお手付きにならなければ予定通り後宮から出ていけるに違いない。帝が後宮を訪れる場合、基本的には記録係が外についており、その日の夜伽の有無を記録している。帝の子孫を残すことを目的として作られた後宮ではあるが、多くの妃はお渡りがあってもお手付きになっていないと噂を耳にした。
もうその可能性に賭けるしかない。
こうして決心したみみはお茶をもって戻ったさやへ今考えた作戦を伝え、一緒にお渡りの準備を始めた。
——————————
あわただしく準備している間に時間は経ち、お渡りの時間となった。
大勢の人が廊下を歩く音がする。じわじわと近づく音に、みみの鼓動も一緒に激しくなった。
「帝の御成り」
ふすま越しに聞こえた従者の声と共に、外に控えた侍女たちがふすまを引いた。
ミミはなるべく帝の顔を見ないように、というか自分の顔を見られないように深く頭を下げて迎え入れた。
「ご機嫌麗しゅう存じます。お初にお目にかかります。西園寺家長女のみやびと申します。短い時間ですが、帝にご快適にお過ごしいただけますよう努めます」
こ、これが帝。顔は見えていないが圧倒的な存在感をミミは感じた。きっと顔を見たらまともに話せなくなるだろう。みみはみやびの付き添いでかなり高位の華族と接したことにがあるがそれとは比べ物にならないほど身に纏う雰囲気は威圧的だった。それと同時になぜかみみは懐かしさを覚えた。
「ほう、これはまさか、こんな近くにいたとはな」
フッと微笑んだような声で帝は意味深に何かつぶやいた。みみにその真意はわからなかった。とりあえず挨拶が終わったから次は、帝をお席にご案内しなければ。そんな考えでみみの頭はいっぱいになった。
「こちらへどうぞ。さや、酒の用意を」
みみは下を向いたまま、料理が用意された座敷まで帝を案内した。
「そのようにかしこまらなくてよい。ところでそなたはなぜ自室であるのに傘をかぶっているのだ? 顔を見せよ」
帝が傘の布に手をかけようとした。これはまずいとみみは必死に言葉を紡いだ。
「本日従者様がいらっしゃった後迎えの準備をしていたのですが、その際利用した洗顔水が肌に合わずかぶれてしまったのでございます。お見苦しいお姿をお見せすることとなってしまいますゆえ、自室とはなりますが、このままでよろしいでしょうか?」
「そうであったか。失礼した、本題に入ろうか」
帝は残念に思いながら、布にかけていた手を下げた。
とりあえず傘の件はうまくごまかすことができてよかった。そして本題とは何だろう。とても嫌な予感がする。
「そなたは今日付けで私の正室として皇籍へ籍を移すことになる」
みみは頭から雷を受けたような衝撃を受け、声が出なかった。私を正室に迎えるだって。そんなことあっていいはずがない。そもそも私はみやびお嬢様ではないのだから。それに、今日初めて話す相手なのに……。声の震えを悟られないように、みみは口を開いた。
「私に皇妃など到底勤まりません。どうかお考え直しください」
跪いて許しを請おうとした瞬間、体を引かれ寝床に押し倒されていた。
「そなたの意見など聞いていない。そもそも正式な手続きを経て後宮へ召し上げられたのだ。そなたは今日私のお手付きとなり、正式な妃として本宮に上がることとなる」
本当にまずい。このままではお手付きとなってしまう。正室となってしまっては身代わりなことがばれてしまう。そうなれば西園寺家のとりつぶしは免れない。それどころか私は皇室を冒涜した罪で死刑となり、家族もただでは済まないだろう。とりあえずこの場を何とかやり過ごさなければ。
「大変申し訳ありません。本日月の障りがあり……夜伽はできません」
「月の障り……だと」
みみは苦しまぎれの言い訳を放った。正直これで逃れられるかは怪しいところであるが仕方ない。主人の家と自分の家族の命がかかっているのだ。もうこれで逃げ切るしかない。
「事前にご連絡をすべきところでしたが、従者様がいらっしゃった数時間後に始まってしまいまして……侍女に確認していただければ確かかと」
そう言って帝の顔を見ると不可解な顔はしていたものの、何とか逃げ切れそうな様子であった。
「ほう、楽しみはあとをとっておけということだな。面白い。今日のところは観念してやる」
「ご配慮いただきありがとうございます」
何とか夜伽は避けられたと安心したが、思っている以上に時間がない。
「今日はみやびの調子が悪いようだ。明日医者をこちらに呼ぶので検診を受けるように。今日は突然悪かった。ゆっくり休むといい」
そう従者へ言い残して帝は部屋から去っていった。
みみは帝の見送りをし、ふすまの前で呆然と立ちすくしていた。
「みみ、上出来だったよ。大丈夫」
心配そうに部屋の外で控えていたさやが駆け寄ってきた。
「で、でも、また来るって。それに明日お医者様を部屋に呼ぶって。どうしよう」
「西園寺のほうには連絡は致しました。明日旦那様が帝へ謁見なさるそうです」
「そ、そう」
「今日はもう遅いから寝よう。これ以上私たちにできることはないわ」
「ええ」
みみは結局一睡もできないまま夜を明かした。
「みみ、おはよう。今旦那様が帝へ謁見されているそうよ。このまま上手くいくと良いのだけれど」
ミミたちにできることはなく、じっと部屋で祈り続けていた。そわそわしすぎて何も手に付かないまま時間だけが過ぎていった。なんだか着替える気にもなれず夜着のまま、時間は昼に差し掛かっていた。
いい加減着替えでもしないとと思い、重い腰を上げようとさやを呼ぼうとしたその時、「帝の御成り」と部屋の外から声が届いた。
どうしよう、まだ着替えもできていないこんな状態のまま、帝をお迎えしなければならないなんて。それより話し合いはどうなったんだろう。とりあえず傘をかぶらないと。頭の中に流れていく思考がまとまり切らないまま、中途半端に傘をかぶった状態で帝を迎えようとしたが、時すでに遅し。部屋のふすまは、みみが布団から出る前に開かれた。
みみは反射的に扉の方を向き、帝と目が合った。
そこにはこの世のものとは思えない美しい容姿があった。美しい銀色の髪に鶯色の瞳。圧倒的に人間離れした容貌に、「この世界にこんな人が2人もいるんだ」とみみは驚いた。
2人……なんでそんな風に思ったんだろう。こんなきれいな人、今までどこかで会ったことが……
帝がどんどん近づいてくるたびにきしむ床の音にふと我に返り、みみは急いで布団から出てひざまづいた。
「大変失礼いたしました、あの、少し調子が悪くて……」
言葉を出そうにも、何も出てこない。なんとかしないと、そんな思考で頭がいっぱいになった。
「もういいんだよ。君がみやび嬢の代わりに来た侍女だと言うことは、先ほど聞いたから」
帝はみみを優しく抱きしめた。みみは自分に起きている現状を理解できていない。
ただどうやら、旦那様は正直に話されたようだ。これ以上隠し通すことなどできなかったし、それが正しい判断だと私も思う。でも、このままではお取りつぶしに……それだけは避けなければ。
「大変申し訳ありませんでした。旦那様やお嬢様は何も悪くないのです。私が勝手に身代わりとしてここまで来たのです。皇室を脅かし騙そうとしたのはわたくしの独断に過ぎません。どうか私を極刑にしてください」
震える声でみみは必死に許しを請った。自分が極刑に処されるのは免れない。ならばせめてお世話になった西園寺家を巻き込まないようにししなければ…
「何を言っているのだ。そなたが死ぬことなどこの私が許さない」
みみは帝の発言に絶望した。
死ぬことすら禁じられ、私は今後どのように処分されるのだろう。拷問と絶望で満ち溢れた未来予想が次々頭に浮かび、現実から目を逸らしたくて仕方がなかった。
「そなたは私の番だ。勝手に死ぬことなど絶対許さない。そなたは予定通り今日付けで正室として迎える。これは西園寺家当主とも確認済みだ」
「えっ」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔とは、このような顔なのだろう。みみは自分でも自覚するほど間抜けな顔をしている自信があった。
「それはどういうことなのですか」
「君が西園寺家の令嬢の代わりに後宮へ来ていること、そうなった経緯は西園寺殿から伺った。この後宮制度が未来ある淑女の妨げになることは我々の間でも問題になっていた。そのため、西園寺家の事情も考慮し不問とした。その代わりに君を西園寺家の養子として迎え、正室として迎えることを条件としたのだ」
「それはどうしてでございますか?」
「それは、私の番だからさ」
「その番とは何なのですか」
「私が龍の血を引く家系のものだということは知っている?」
「もちろんでございます」
「神力が弱い者には番を探知する力がない。だから番が見つからないまま30年ほどで基本的に死んでしまうんだけれど私は先祖返りと評されるほど神力が強いんだ。だから自力で番を見つけることができた。だから、そなたは私から逃げることはできない」
抱きしめられた腕の強さがどんどん強くなっていく。昨日は傘をかぶっていてよく見えなかった首筋には、わずかに鱗が生えているのが見えた。。この至近距離で見て初めて、帝が人間とは異なる存在であることを思い知る。そしてその首筋には、なぜか見覚えのある古い傷跡があった。
この色、どこかで……
「ナギ?」
「ようやく気付いたんだね」
みみの脳裏に、懐かしい記憶がよみがえった。
それは今から約10年前、みみが7つになるころ。それは凪が次期帝という立場を確立する2か月前のことだった。
立太子しては簡単に屋敷から出ることもできない。そうなる前にと、屋敷を抜け出して目にした光景は、今まで見ていたものと同じ国だとは思えなかった。
整えられた道、身なりの整った人々、輿から見える都の風景。
それこそがこの国の真の姿であると凪は信じ切っていた。けれど、そんなものはただの張りぼてだという現実を目の当たりにした。
飢えた民、路上で生活する者たち、そして凪に物乞いをしようと寄ってくる人々。これこそがこの国の本当の姿だったのだ。華族が私腹を肥やし、平民は飢えている。
その現実に打ちのめされ、立ち尽くしていると、いつの間にか物乞いたちに囲まれていた。
「お坊ちゃん、ここらじゃずいぶんと綺麗な格好をしてるじゃねえか」
周りの目は完全に、獲物を捉えようとする獣のそれだった。当時10歳の凪にはなすすべもなく、持っていたものをすべて剥ぎ取られてしまった。
なんとか肌着だけは死守したものの、持っていたものはすべて奪われ途方に暮れる。
この格好のまま屋敷に戻ることはできない。なんとか服を調達しないと。だけど、持っていた日銭も取られてしまった……
どうするべきかと立ち尽くしていると、後ろから声をかけられた。
「どうしたの?」
そこに立っていたのは、自分よりも少し幼げな少女だった。
格好からして、この辺りの住人のようだ。また何かを取られるのではないかと、凪は少し警戒心を強める。
「そなた、何者だ?」
「何者と言われても、私はみみ。あの家に住んでいるの」
そう言ってみみが指さしたのは、家と言っていいのかわからないほどボロボロの建物だった。屋根は半分ほど壊れており、本当に人が住んでいるのかすら疑問を覚えるほどだった。
「そんな格好じゃ寒いでしょ。家に行けばきっと何か羽織るものがあるから、ついてきて」
何も持っていない凪は、みみについていくことにした。間近で見るみみの家は、遠くから見るよりも惨状を極めていた。
玄関のような場所から家の中に入ると、そこは思っていたよりも整った空間だった。外観がボロボロなだけで、勝手に中もひどい有様だと思い込んでいたが、そんなことはなかった。ところどころ継ぎはぎで屋根が直されており、部屋は整頓され、古いながらもきちんと手入れされていることが伺えた。
「ちょっと待ってて」
みみはそう言ってタンスの中を探った。そして引っ張り出してきたのは、おそらくみみの父親のものと思われる着物だった。
「この着物、お父さんの着物だからあなたには長いかもだけど、ないよりはマシでしょ」
本当に丈の長い着物であったが、帯でなんとか裾を上げ、多少見苦しくはあるものの、屋敷まで戻ることができそうな格好になった。
「でも、この衣を私に渡しては、そなたの父君は困るのではないか?」
「大丈夫。お父さんは去年の冬に死んじゃった。この着物を着る人はもうここにはいないの」
明るく言い放ったみみだったが、その顔は暗かった。凪は何を言えばいいのかわからずに、そっとみみの頭を撫でた。するとみみは少しだけ微笑んだ。
「そうだったのか。衣を貸してくれてありがとう。ところで、どうして私を助けてくれたんだ?」
「だって寒そうだったし、あそこにいたら誘拐されちゃいそうだと思ったから」
「……そこまで私は弱くはない」
「そんなこと言って、ごろつきに追いはぎにあったんでしょ。弱くないのは確かかもしれないけど、ここら辺の人はみんな大きいから」
図星をつかれ、凪は言い返せなくなり言葉に詰まる。
「私、ここら辺のこと詳しいから。私が守ってあげる!」
「……それを言うなら、私が守る方だろう。みみより体も大きいし」
「でも、ここら辺に来たの初めてでしょ?」
「それは……」
「大丈夫、この町の事は私が熟知してるから任せてよ!」
凪はこの状況下ではこの小さな背中に自分の未来を託すことしかできない。
意を決して、道を案内してもらった。
「ところでみみは、いつからここにいるんだ?」
「生まれてからずっとだよ」
細い道を案内され、そのままついていく。その道すがら、凪は平民へ話を聞けるチャンスだと思い、ここぞとばかりに質問をすることにした。
「みみは……将来の夢とかあるのか?」
「私、まだ7歳だから働けないんだけどね。10歳になったら華族のお屋敷の使用人になってお金を稼ぐの。今年生まれる予定の妹を学校へ行かせることかな」
「みみは、学校へは行かないのか?」
「母も病弱で、父は去年亡くなったの。だから私が学校に行くなんて、家に負担がかかることはできないよ」
「そうか……そのあとは?」
「うーん、あんまり考えてないけど、お父さんみたいに優しい人と結婚して、暖かい寝床がある安心して住むことのできる家を買って暮らすとか? んーでも、あんまり考えたことなかったかも」
「この生活は、楽しいか?」
「大変なことも多いけど、結構楽しいよ。近所の人は優しい人も多いしね」
「不満はないのか? 帝に対して」
「龍の力があるおかげで、私たちの国は保たれているんでしょう? そんなすごい力を私たちのために使ってくれているだけでありがたいのに、不満なんてないよ」
「……こんな格差を生んでしまっているというのにか?」
「それって、帝が悪いのかな?」
「え……」
「帝でも、どうすることもできないことってあると思う。龍の力だって、そんな細かいことをどうにかできるほど万能じゃなさそうじゃん」
みみはふっと我に返ってそう答えた。
そう言って笑うみみの笑顔に、凪は救われた気がした。今まで平民に対して勝手に覚えていた後ろめたさ。自分が皇族として、この国を引っ張れるのかという不安。そのすべての重圧から解放されたような気がした。
と同時に、凪の中でくすぶっていた力が解放される。そんな感覚を覚えた。
古くから皇室に伝わる言い伝えが、凪の頭の中を駆け巡った。
『先祖返りに匹敵する力を持つ者は、天命を受けると同時にその地に番が現れる』
そう、まさに目の前にいる彼女が、自分の『番』なのだと。
「この道を出れば、南通りへ出られるよ。そういえば名前を聞いてなかったけど、なんていうの?」
「なぎ。私の名は、凪だ」
「ナギって珍しい名前だね、ここら辺じゃ聞かない名前。……あ、もうこんな時間! 早く戻らないと暗くなっちゃう。じゃあ凪、もうこっちの方に来ちゃダメだよ。町の人たちは部外者に対して優しくないんだから」
そう言ってみみは立ち去ろうとした。
「待ってくれ」
「何?」
「ここまで案内してくれたこと、服を借りたことに報いねばならぬ」
「そんなこと言われても……別に私、何か欲しかったわけじゃないけど」
「まあそう言わず、受け取ってくれ」
そう言って差し出された手の上には、七色に光る綺麗な石が置かれていた。
光の当たり具合によって見せる色を変えるその石は、大人の親指の爪ほどの大きさと厚みで、「石」というには少し薄いような印象を受けるものだった。
この世のものとは思えないほどの美しさに、みみは目を奪われた。
そして、その石に反射して目に飛び込んできた夕日によって、ふと現実に引き戻された。
「……そんな高そうなもの、もらえません」
「いいや、受け取ってほしい。そしてそれを持って待っていてくれれば、みみに私が暖かい寝床と、安心して暮らせる家を授けよう。だから……迎えに来るまで待っていてくれ」
皇太子ですらないただの皇子の自分には、彼女を突然連れ帰って番だと主張できるほどの権力はない。けれど、かならず彼女を迎えに行く。絶対に誰にも渡したりしない。
その決意として、凪は自らの鱗をみみへ授けた。
「そこまで言うなら……わかった。待ってるね」
――記憶の断片が繋がっていく。
「どうしてこんなところに……」
「探してたんだよ。私が皇太子の立場を得てから。ずーと。だけどみみは都からいなくなっていた」
しょぼんとした顔で幼子のような口調になった陛下は、どこか当時の面影を色濃く映していた。
「申し訳ありませんでした。家に帰ったあと色々あって……」
「なにがあったの。これまでの事全部聞かせて」
あの時、みみは暗くならないうちに家まで帰ろうと早足で戻った。
それにしてもこの石、すごくきれい……。まあ、ナギはお金持ちっぽかったし、そういう人たちはみんな持っているものなのかしら
道案内の対価としては少し大きすぎる気がしたが、深く考えても仕方ない。
でも、身ぐるみはがされたのにこんなものを持ったまま隠し持っていたなんて、意外と器用な人なのかも。
そんなのんきなことを考えながら歩いていると、何やら自分の家のほうが騒がしい。
「こんな時間まで何してたの!」
近所のおばさんが何やら焦った様子でみみに問いかけた。
「何って、道案内をしてて……って、どうしてこんなにここは騒がしいの?」
「あんたのお母さん、さっき産気づいて……!」
「え、でも生まれるのは2週間後だって……」
家の外に人間の声とは思えないほどの叫び声と共に、「おんぎゃー」という赤ちゃんの泣き声が響いた。
「どうやら生まれたみたいだよ」
背中を押されて家に入ろうとすると、「おい、おい、しっかりしな!」と焦った声が聞こえた。
不安になりながら部屋に入ると、そこにはしわしわの赤ちゃんを抱いた近所のおばちゃんと、真っ青になったお母さんを必死に呼び止めている乳母の姿があった。
そのあとのことは、正直あまり覚えていない。半狂乱になりながら「お母さん」と呼び続けていたと思う。けれど、みみの母がその声に応えることはなかった。
気が付くとそこには息絶えた母と、生まれたばかりの妹とみみしかいない空間になっていた。
ふと妹に目を向けると母に似た目元と父に似た口元が目に飛び込んだ。これはきっと母が残してくれた最後の希望だ。母はこんなところで独りぼっちにならないためにこの子を残してくれたんだ。
これから先妹だけは、何としても守り抜かないとそんな強い気持ちが芽生えた。
近所の手を借りて葬儀を行ったあと、みみはすぐに街を出た。ここに居てはまともに暮らすこともままならない。近所の人は優しかったけれど、正直みんな自分が生きていくのに精一杯で、働くことのできない幼子を抱える負担を負うことはできないのだ。何とか私を雇ってくれるところを見つけなくては。
まともな家が自分のような者を雇ってくれるなんて最初から考えてもいない。華族のお屋敷で働く夢は諦めよう。心のなかでけりをつけ、生活費の足しにするために、ナギにもらった石を売ろうと市場の宝飾露店へ向かった。
「へい、いらっしゃい」
「あの、これ買い取ってもらえませんか」
ミミが凪にもらった不思議な色の石を差し出した。
「ほう……大体1両ってところか」
1両あれば1か月は食うに困らない。ねねはまだ赤ちゃんでそこまで食費はかからないはずだ。この金額なら大丈夫だと「売りますと」言いかけたとその時
「100両」
突然、背後から私とあまり年齢が変わらない少女がつぶやいた。
「その宝石見たところ100両の価値はありそうだけど。相手がいくら平民だからって、騙しちゃダメだよ」
「そんな、騙そうなんて……」
「どう考えても1両どころの価値じゃないでしょ。本当にそう思ったならおじさん、もうこの商売やめた方がいいよ。見る目ないから」
「なんだと、このクソガキが!」
商人は怒ってこちらに飛びかかってきた。けれど、少女の後ろに控えていた護衛が素早く間に割り込み、おじさんは兵士に捕らえられた。
「あ、あの……」
「こんな素敵なもの、どこで手に入れたの?」
「それは、とある人に譲ってもらったものなの……」
「そんな大切なもの、売ってしまってよかったの?」
「あの、その、お金がなくて……」
みみはこれまでの経緯を包み隠さず話した。するとその話を聞いた少女は、まっすぐな瞳でこう言った。
「じゃあ、うちに来なさい」
「私があなたを雇ってあげる」
「でも私のように身元がしっかりしていない者は働けないのでは……」
「じゃあこの宝石を身元証拠金として、あなたを雇うわ」
「本当にいいんですか……?」
「ええ、いらっしゃい」
こうしてみみは西園寺家に迎え入れられたのだった。
「……ここからはおおよそ、旦那様から聞いた通りでございます。いただいたものを勝手に手放してしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「いいんだ。むしろあの鱗を渡したおかげで、みみは生き延びて私のもとへこうやって帰ってきてくれたんだから」
もう二度と会えないと思っていた命の恩人が目の前にいる。目の前のの現実にみみは、涙が止まらなかった。
「本当にありがとうございました。私もずっと、ナギに会いたいと思っていたんです。あの時凪がくれた石がなければ、みやびお嬢様に出会うこともできず、路上で餓死していたと思います。あの時私を助けてくれたのは、あなた様です。本当にありがとうございました」
ミミはずっと心のどこかで諦めていた恩人との再会に、言い知れぬ幸福を感じていた。
「本当に、みみは可愛いね」
そう言って凪は、みみに優しく口づけをした。
「嫌ですわ。どうして私が後宮に行かねばならないのですか。私には商会の仕事が山のように残っております。1年も後宮に入ってしまえば、この商会は拡大の機会を失ってしまいます」
「しかしだな、我々の一族は権威のある華族ではない、ただの田舎の商人だ。帝の命に逆らえば一家もろともとりつぶしになる」
「ですが」
「もうこの話は終わりだ。一月後には入宮となる故、荷物をまとめなさい」
そう言い残して当主は部屋を出ていってしまった。部屋に残されたのは、みびやとその侍女みみだけだった。みやびは下を向いたままソファーで何かをずっと考えこんでいた。その様子を見かねたみみが声をかける。
「お嬢様、時間もありませんし早速お荷物の整理を始めましょう」
みみから声をかけられたと同時に、みみは心の中で硬い決心をしたような面持ちで顔を上げた。
「いいえ、私は今の状態の商会を放置することはしないわ。よって後宮にはまいりません。そこでミミ、あなた私の代わりに後宮へ1年間行ってきて下さらない?」
みみは自分の主人が何を言っているのかさっぱり理解ができなかった。
「お、お嬢様何をおっしゃっているのでしょうか」
「そのままの意味よ。私、西園寺商会をやめたくないからどうしても後宮には行けないの。私は基本的に内職中心だったから、入れ替わりがばれる心配はないわよ」
みみは自信満々に言い切った。
「そんなこと言われましても……」
みみが10年以上みやびに使えているからと言って、この提案を受け入れられるほどの度胸はなかった。なぜならこれは帝を騙す行為であり、もしことが露呈した場合、商会のとりつぶしはもちろん、皆極刑に処されるだろう。第一、貧民出身のみみは裕福な商家の娘を演じられる自信もない。ただみやびお嬢様が今商会を抜けるわけにはいかないということにも一理ある。なぜならば今いくつも進行中の商談が存在し、それを進めるにはお嬢様の力が不可欠だ。
「もちろんタダでとは言わないわ。後宮にいる1年間は今の給金の三倍は出すわ。それに戻ってきたら半年間の休暇だってあげる」
これはみみにとってかなり良い提案であった。みみは、早くに病死してしまった両親にかわり、妹・ねねの進学費用を貯めているところであった。自分は通えなかった学校に、せめてねねだけでも通わせてやりたい。ねねはかなり頭がよく、留学の話も出ているほどだ。正直、借金をしないと留学は厳しいと思っていた。けれど今目の前に給金という大きな餌がぶら下げられた。
給金が三倍になればもしかしたら学費だけじゃなくて、他のお金も工面できるかもしれない。でも今後宮へ行ったらねねの面倒は誰が見るの。
目の前のニンジンに飛びつきたい気持ちと、バレた時のリスク、ねねのことで、みみの頭の中はせめぎ合った。
「それと、ねねのこれからのことは心配しないで。留学はもちろんみみは後宮へ行ってからの生活もしっかり私が責任をもってサポートするから」
この一言が決め手となり、みみはみやびの身代わりとして1年間後宮へと入ることとなった。
みみが後宮へ入ってからは意外にも平和な日々が待っていた。朝起きて、朝食をとり、読書をしつつお茶を飲んだり庭園で散歩したりと、侍女として目まぐるしい日々を送っていた頃とは比べ物にならないほど穏やかな生活を送った。
他の華族令嬢とは接触をしないようにしていたため目立つこともなく、あと1か月程で後宮を出られるというところまで来たある日。普段誰も来ることのないこの宮に一人の使者がやって来た。
「帝の使いでございます。みやび殿、本日帝がこちらの宮にわたられることとなりました。ご準備をお願いいたします」
みみはその言葉を聞いたとき、目の前が真っ白になった。ここまでどうにか接触せず、バレることなくやってきたというのに。どうしよう。こんな考えが頭の中を駆け巡った。このパニック状態の中使者が何かを話している。けれどみみの頭には話の内容は全くといっていいほど入ってこない。
「……となります。それでは失礼いたします」
使者が部屋から去ったとたん、みみはその場に崩れ落ちた。
「大丈夫ですか」
西園寺から一緒に侍女として来ていたさやがみみのもとに駆け寄ってきた。
「ど、どうしよう。このままじゃ一年で帰れないどころか、一生後宮へ捕らわれたままになってしまう。そうなったらお嬢様は一生表舞台に立てなくなってしまう。それにばれたら……」
「おしずかに。誰が聞き耳を立てているか分かったものではないですよ。それにいったん落ち着いた方がいい。お茶持って来るから」
お茶を取りにさらは部屋から出ていった。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせ深呼吸をする。少し落ち着いたところでどうするべきか、みみは思考を巡らせた。
とりあえず体調を崩したということにしてやり過ごすか。しかし先ほど使者と顔を合わせてしまっている。そんな急激な体調不良の言い訳が通用するわけがない。ならばもういっそのこと逃げてしまおうか。後宮の塀くらいなら登れないこともないだろう。ただそんなことをしたら西園寺家が大変なことになってしまう。そんな非現実的なことを考えている場合ではない。
仕方がない。なんとか顔がばれないようにしつつ今晩だけやり過ごそう。お嬢様と私は背格好がよく似ているから最悪お嬢様が後宮へ公式に来ることになってもバレることはないだろう。それにお手付きにならなければ予定通り後宮から出ていけるに違いない。帝が後宮を訪れる場合、基本的には記録係が外についており、その日の夜伽の有無を記録している。帝の子孫を残すことを目的として作られた後宮ではあるが、多くの妃はお渡りがあってもお手付きになっていないと噂を耳にした。
もうその可能性に賭けるしかない。
こうして決心したみみはお茶をもって戻ったさやへ今考えた作戦を伝え、一緒にお渡りの準備を始めた。
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あわただしく準備している間に時間は経ち、お渡りの時間となった。
大勢の人が廊下を歩く音がする。じわじわと近づく音に、みみの鼓動も一緒に激しくなった。
「帝の御成り」
ふすま越しに聞こえた従者の声と共に、外に控えた侍女たちがふすまを引いた。
ミミはなるべく帝の顔を見ないように、というか自分の顔を見られないように深く頭を下げて迎え入れた。
「ご機嫌麗しゅう存じます。お初にお目にかかります。西園寺家長女のみやびと申します。短い時間ですが、帝にご快適にお過ごしいただけますよう努めます」
こ、これが帝。顔は見えていないが圧倒的な存在感をミミは感じた。きっと顔を見たらまともに話せなくなるだろう。みみはみやびの付き添いでかなり高位の華族と接したことにがあるがそれとは比べ物にならないほど身に纏う雰囲気は威圧的だった。それと同時になぜかみみは懐かしさを覚えた。
「ほう、これはまさか、こんな近くにいたとはな」
フッと微笑んだような声で帝は意味深に何かつぶやいた。みみにその真意はわからなかった。とりあえず挨拶が終わったから次は、帝をお席にご案内しなければ。そんな考えでみみの頭はいっぱいになった。
「こちらへどうぞ。さや、酒の用意を」
みみは下を向いたまま、料理が用意された座敷まで帝を案内した。
「そのようにかしこまらなくてよい。ところでそなたはなぜ自室であるのに傘をかぶっているのだ? 顔を見せよ」
帝が傘の布に手をかけようとした。これはまずいとみみは必死に言葉を紡いだ。
「本日従者様がいらっしゃった後迎えの準備をしていたのですが、その際利用した洗顔水が肌に合わずかぶれてしまったのでございます。お見苦しいお姿をお見せすることとなってしまいますゆえ、自室とはなりますが、このままでよろしいでしょうか?」
「そうであったか。失礼した、本題に入ろうか」
帝は残念に思いながら、布にかけていた手を下げた。
とりあえず傘の件はうまくごまかすことができてよかった。そして本題とは何だろう。とても嫌な予感がする。
「そなたは今日付けで私の正室として皇籍へ籍を移すことになる」
みみは頭から雷を受けたような衝撃を受け、声が出なかった。私を正室に迎えるだって。そんなことあっていいはずがない。そもそも私はみやびお嬢様ではないのだから。それに、今日初めて話す相手なのに……。声の震えを悟られないように、みみは口を開いた。
「私に皇妃など到底勤まりません。どうかお考え直しください」
跪いて許しを請おうとした瞬間、体を引かれ寝床に押し倒されていた。
「そなたの意見など聞いていない。そもそも正式な手続きを経て後宮へ召し上げられたのだ。そなたは今日私のお手付きとなり、正式な妃として本宮に上がることとなる」
本当にまずい。このままではお手付きとなってしまう。正室となってしまっては身代わりなことがばれてしまう。そうなれば西園寺家のとりつぶしは免れない。それどころか私は皇室を冒涜した罪で死刑となり、家族もただでは済まないだろう。とりあえずこの場を何とかやり過ごさなければ。
「大変申し訳ありません。本日月の障りがあり……夜伽はできません」
「月の障り……だと」
みみは苦しまぎれの言い訳を放った。正直これで逃れられるかは怪しいところであるが仕方ない。主人の家と自分の家族の命がかかっているのだ。もうこれで逃げ切るしかない。
「事前にご連絡をすべきところでしたが、従者様がいらっしゃった数時間後に始まってしまいまして……侍女に確認していただければ確かかと」
そう言って帝の顔を見ると不可解な顔はしていたものの、何とか逃げ切れそうな様子であった。
「ほう、楽しみはあとをとっておけということだな。面白い。今日のところは観念してやる」
「ご配慮いただきありがとうございます」
何とか夜伽は避けられたと安心したが、思っている以上に時間がない。
「今日はみやびの調子が悪いようだ。明日医者をこちらに呼ぶので検診を受けるように。今日は突然悪かった。ゆっくり休むといい」
そう従者へ言い残して帝は部屋から去っていった。
みみは帝の見送りをし、ふすまの前で呆然と立ちすくしていた。
「みみ、上出来だったよ。大丈夫」
心配そうに部屋の外で控えていたさやが駆け寄ってきた。
「で、でも、また来るって。それに明日お医者様を部屋に呼ぶって。どうしよう」
「西園寺のほうには連絡は致しました。明日旦那様が帝へ謁見なさるそうです」
「そ、そう」
「今日はもう遅いから寝よう。これ以上私たちにできることはないわ」
「ええ」
みみは結局一睡もできないまま夜を明かした。
「みみ、おはよう。今旦那様が帝へ謁見されているそうよ。このまま上手くいくと良いのだけれど」
ミミたちにできることはなく、じっと部屋で祈り続けていた。そわそわしすぎて何も手に付かないまま時間だけが過ぎていった。なんだか着替える気にもなれず夜着のまま、時間は昼に差し掛かっていた。
いい加減着替えでもしないとと思い、重い腰を上げようとさやを呼ぼうとしたその時、「帝の御成り」と部屋の外から声が届いた。
どうしよう、まだ着替えもできていないこんな状態のまま、帝をお迎えしなければならないなんて。それより話し合いはどうなったんだろう。とりあえず傘をかぶらないと。頭の中に流れていく思考がまとまり切らないまま、中途半端に傘をかぶった状態で帝を迎えようとしたが、時すでに遅し。部屋のふすまは、みみが布団から出る前に開かれた。
みみは反射的に扉の方を向き、帝と目が合った。
そこにはこの世のものとは思えない美しい容姿があった。美しい銀色の髪に鶯色の瞳。圧倒的に人間離れした容貌に、「この世界にこんな人が2人もいるんだ」とみみは驚いた。
2人……なんでそんな風に思ったんだろう。こんなきれいな人、今までどこかで会ったことが……
帝がどんどん近づいてくるたびにきしむ床の音にふと我に返り、みみは急いで布団から出てひざまづいた。
「大変失礼いたしました、あの、少し調子が悪くて……」
言葉を出そうにも、何も出てこない。なんとかしないと、そんな思考で頭がいっぱいになった。
「もういいんだよ。君がみやび嬢の代わりに来た侍女だと言うことは、先ほど聞いたから」
帝はみみを優しく抱きしめた。みみは自分に起きている現状を理解できていない。
ただどうやら、旦那様は正直に話されたようだ。これ以上隠し通すことなどできなかったし、それが正しい判断だと私も思う。でも、このままではお取りつぶしに……それだけは避けなければ。
「大変申し訳ありませんでした。旦那様やお嬢様は何も悪くないのです。私が勝手に身代わりとしてここまで来たのです。皇室を脅かし騙そうとしたのはわたくしの独断に過ぎません。どうか私を極刑にしてください」
震える声でみみは必死に許しを請った。自分が極刑に処されるのは免れない。ならばせめてお世話になった西園寺家を巻き込まないようにししなければ…
「何を言っているのだ。そなたが死ぬことなどこの私が許さない」
みみは帝の発言に絶望した。
死ぬことすら禁じられ、私は今後どのように処分されるのだろう。拷問と絶望で満ち溢れた未来予想が次々頭に浮かび、現実から目を逸らしたくて仕方がなかった。
「そなたは私の番だ。勝手に死ぬことなど絶対許さない。そなたは予定通り今日付けで正室として迎える。これは西園寺家当主とも確認済みだ」
「えっ」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔とは、このような顔なのだろう。みみは自分でも自覚するほど間抜けな顔をしている自信があった。
「それはどういうことなのですか」
「君が西園寺家の令嬢の代わりに後宮へ来ていること、そうなった経緯は西園寺殿から伺った。この後宮制度が未来ある淑女の妨げになることは我々の間でも問題になっていた。そのため、西園寺家の事情も考慮し不問とした。その代わりに君を西園寺家の養子として迎え、正室として迎えることを条件としたのだ」
「それはどうしてでございますか?」
「それは、私の番だからさ」
「その番とは何なのですか」
「私が龍の血を引く家系のものだということは知っている?」
「もちろんでございます」
「神力が弱い者には番を探知する力がない。だから番が見つからないまま30年ほどで基本的に死んでしまうんだけれど私は先祖返りと評されるほど神力が強いんだ。だから自力で番を見つけることができた。だから、そなたは私から逃げることはできない」
抱きしめられた腕の強さがどんどん強くなっていく。昨日は傘をかぶっていてよく見えなかった首筋には、わずかに鱗が生えているのが見えた。。この至近距離で見て初めて、帝が人間とは異なる存在であることを思い知る。そしてその首筋には、なぜか見覚えのある古い傷跡があった。
この色、どこかで……
「ナギ?」
「ようやく気付いたんだね」
みみの脳裏に、懐かしい記憶がよみがえった。
それは今から約10年前、みみが7つになるころ。それは凪が次期帝という立場を確立する2か月前のことだった。
立太子しては簡単に屋敷から出ることもできない。そうなる前にと、屋敷を抜け出して目にした光景は、今まで見ていたものと同じ国だとは思えなかった。
整えられた道、身なりの整った人々、輿から見える都の風景。
それこそがこの国の真の姿であると凪は信じ切っていた。けれど、そんなものはただの張りぼてだという現実を目の当たりにした。
飢えた民、路上で生活する者たち、そして凪に物乞いをしようと寄ってくる人々。これこそがこの国の本当の姿だったのだ。華族が私腹を肥やし、平民は飢えている。
その現実に打ちのめされ、立ち尽くしていると、いつの間にか物乞いたちに囲まれていた。
「お坊ちゃん、ここらじゃずいぶんと綺麗な格好をしてるじゃねえか」
周りの目は完全に、獲物を捉えようとする獣のそれだった。当時10歳の凪にはなすすべもなく、持っていたものをすべて剥ぎ取られてしまった。
なんとか肌着だけは死守したものの、持っていたものはすべて奪われ途方に暮れる。
この格好のまま屋敷に戻ることはできない。なんとか服を調達しないと。だけど、持っていた日銭も取られてしまった……
どうするべきかと立ち尽くしていると、後ろから声をかけられた。
「どうしたの?」
そこに立っていたのは、自分よりも少し幼げな少女だった。
格好からして、この辺りの住人のようだ。また何かを取られるのではないかと、凪は少し警戒心を強める。
「そなた、何者だ?」
「何者と言われても、私はみみ。あの家に住んでいるの」
そう言ってみみが指さしたのは、家と言っていいのかわからないほどボロボロの建物だった。屋根は半分ほど壊れており、本当に人が住んでいるのかすら疑問を覚えるほどだった。
「そんな格好じゃ寒いでしょ。家に行けばきっと何か羽織るものがあるから、ついてきて」
何も持っていない凪は、みみについていくことにした。間近で見るみみの家は、遠くから見るよりも惨状を極めていた。
玄関のような場所から家の中に入ると、そこは思っていたよりも整った空間だった。外観がボロボロなだけで、勝手に中もひどい有様だと思い込んでいたが、そんなことはなかった。ところどころ継ぎはぎで屋根が直されており、部屋は整頓され、古いながらもきちんと手入れされていることが伺えた。
「ちょっと待ってて」
みみはそう言ってタンスの中を探った。そして引っ張り出してきたのは、おそらくみみの父親のものと思われる着物だった。
「この着物、お父さんの着物だからあなたには長いかもだけど、ないよりはマシでしょ」
本当に丈の長い着物であったが、帯でなんとか裾を上げ、多少見苦しくはあるものの、屋敷まで戻ることができそうな格好になった。
「でも、この衣を私に渡しては、そなたの父君は困るのではないか?」
「大丈夫。お父さんは去年の冬に死んじゃった。この着物を着る人はもうここにはいないの」
明るく言い放ったみみだったが、その顔は暗かった。凪は何を言えばいいのかわからずに、そっとみみの頭を撫でた。するとみみは少しだけ微笑んだ。
「そうだったのか。衣を貸してくれてありがとう。ところで、どうして私を助けてくれたんだ?」
「だって寒そうだったし、あそこにいたら誘拐されちゃいそうだと思ったから」
「……そこまで私は弱くはない」
「そんなこと言って、ごろつきに追いはぎにあったんでしょ。弱くないのは確かかもしれないけど、ここら辺の人はみんな大きいから」
図星をつかれ、凪は言い返せなくなり言葉に詰まる。
「私、ここら辺のこと詳しいから。私が守ってあげる!」
「……それを言うなら、私が守る方だろう。みみより体も大きいし」
「でも、ここら辺に来たの初めてでしょ?」
「それは……」
「大丈夫、この町の事は私が熟知してるから任せてよ!」
凪はこの状況下ではこの小さな背中に自分の未来を託すことしかできない。
意を決して、道を案内してもらった。
「ところでみみは、いつからここにいるんだ?」
「生まれてからずっとだよ」
細い道を案内され、そのままついていく。その道すがら、凪は平民へ話を聞けるチャンスだと思い、ここぞとばかりに質問をすることにした。
「みみは……将来の夢とかあるのか?」
「私、まだ7歳だから働けないんだけどね。10歳になったら華族のお屋敷の使用人になってお金を稼ぐの。今年生まれる予定の妹を学校へ行かせることかな」
「みみは、学校へは行かないのか?」
「母も病弱で、父は去年亡くなったの。だから私が学校に行くなんて、家に負担がかかることはできないよ」
「そうか……そのあとは?」
「うーん、あんまり考えてないけど、お父さんみたいに優しい人と結婚して、暖かい寝床がある安心して住むことのできる家を買って暮らすとか? んーでも、あんまり考えたことなかったかも」
「この生活は、楽しいか?」
「大変なことも多いけど、結構楽しいよ。近所の人は優しい人も多いしね」
「不満はないのか? 帝に対して」
「龍の力があるおかげで、私たちの国は保たれているんでしょう? そんなすごい力を私たちのために使ってくれているだけでありがたいのに、不満なんてないよ」
「……こんな格差を生んでしまっているというのにか?」
「それって、帝が悪いのかな?」
「え……」
「帝でも、どうすることもできないことってあると思う。龍の力だって、そんな細かいことをどうにかできるほど万能じゃなさそうじゃん」
みみはふっと我に返ってそう答えた。
そう言って笑うみみの笑顔に、凪は救われた気がした。今まで平民に対して勝手に覚えていた後ろめたさ。自分が皇族として、この国を引っ張れるのかという不安。そのすべての重圧から解放されたような気がした。
と同時に、凪の中でくすぶっていた力が解放される。そんな感覚を覚えた。
古くから皇室に伝わる言い伝えが、凪の頭の中を駆け巡った。
『先祖返りに匹敵する力を持つ者は、天命を受けると同時にその地に番が現れる』
そう、まさに目の前にいる彼女が、自分の『番』なのだと。
「この道を出れば、南通りへ出られるよ。そういえば名前を聞いてなかったけど、なんていうの?」
「なぎ。私の名は、凪だ」
「ナギって珍しい名前だね、ここら辺じゃ聞かない名前。……あ、もうこんな時間! 早く戻らないと暗くなっちゃう。じゃあ凪、もうこっちの方に来ちゃダメだよ。町の人たちは部外者に対して優しくないんだから」
そう言ってみみは立ち去ろうとした。
「待ってくれ」
「何?」
「ここまで案内してくれたこと、服を借りたことに報いねばならぬ」
「そんなこと言われても……別に私、何か欲しかったわけじゃないけど」
「まあそう言わず、受け取ってくれ」
そう言って差し出された手の上には、七色に光る綺麗な石が置かれていた。
光の当たり具合によって見せる色を変えるその石は、大人の親指の爪ほどの大きさと厚みで、「石」というには少し薄いような印象を受けるものだった。
この世のものとは思えないほどの美しさに、みみは目を奪われた。
そして、その石に反射して目に飛び込んできた夕日によって、ふと現実に引き戻された。
「……そんな高そうなもの、もらえません」
「いいや、受け取ってほしい。そしてそれを持って待っていてくれれば、みみに私が暖かい寝床と、安心して暮らせる家を授けよう。だから……迎えに来るまで待っていてくれ」
皇太子ですらないただの皇子の自分には、彼女を突然連れ帰って番だと主張できるほどの権力はない。けれど、かならず彼女を迎えに行く。絶対に誰にも渡したりしない。
その決意として、凪は自らの鱗をみみへ授けた。
「そこまで言うなら……わかった。待ってるね」
――記憶の断片が繋がっていく。
「どうしてこんなところに……」
「探してたんだよ。私が皇太子の立場を得てから。ずーと。だけどみみは都からいなくなっていた」
しょぼんとした顔で幼子のような口調になった陛下は、どこか当時の面影を色濃く映していた。
「申し訳ありませんでした。家に帰ったあと色々あって……」
「なにがあったの。これまでの事全部聞かせて」
あの時、みみは暗くならないうちに家まで帰ろうと早足で戻った。
それにしてもこの石、すごくきれい……。まあ、ナギはお金持ちっぽかったし、そういう人たちはみんな持っているものなのかしら
道案内の対価としては少し大きすぎる気がしたが、深く考えても仕方ない。
でも、身ぐるみはがされたのにこんなものを持ったまま隠し持っていたなんて、意外と器用な人なのかも。
そんなのんきなことを考えながら歩いていると、何やら自分の家のほうが騒がしい。
「こんな時間まで何してたの!」
近所のおばさんが何やら焦った様子でみみに問いかけた。
「何って、道案内をしてて……って、どうしてこんなにここは騒がしいの?」
「あんたのお母さん、さっき産気づいて……!」
「え、でも生まれるのは2週間後だって……」
家の外に人間の声とは思えないほどの叫び声と共に、「おんぎゃー」という赤ちゃんの泣き声が響いた。
「どうやら生まれたみたいだよ」
背中を押されて家に入ろうとすると、「おい、おい、しっかりしな!」と焦った声が聞こえた。
不安になりながら部屋に入ると、そこにはしわしわの赤ちゃんを抱いた近所のおばちゃんと、真っ青になったお母さんを必死に呼び止めている乳母の姿があった。
そのあとのことは、正直あまり覚えていない。半狂乱になりながら「お母さん」と呼び続けていたと思う。けれど、みみの母がその声に応えることはなかった。
気が付くとそこには息絶えた母と、生まれたばかりの妹とみみしかいない空間になっていた。
ふと妹に目を向けると母に似た目元と父に似た口元が目に飛び込んだ。これはきっと母が残してくれた最後の希望だ。母はこんなところで独りぼっちにならないためにこの子を残してくれたんだ。
これから先妹だけは、何としても守り抜かないとそんな強い気持ちが芽生えた。
近所の手を借りて葬儀を行ったあと、みみはすぐに街を出た。ここに居てはまともに暮らすこともままならない。近所の人は優しかったけれど、正直みんな自分が生きていくのに精一杯で、働くことのできない幼子を抱える負担を負うことはできないのだ。何とか私を雇ってくれるところを見つけなくては。
まともな家が自分のような者を雇ってくれるなんて最初から考えてもいない。華族のお屋敷で働く夢は諦めよう。心のなかでけりをつけ、生活費の足しにするために、ナギにもらった石を売ろうと市場の宝飾露店へ向かった。
「へい、いらっしゃい」
「あの、これ買い取ってもらえませんか」
ミミが凪にもらった不思議な色の石を差し出した。
「ほう……大体1両ってところか」
1両あれば1か月は食うに困らない。ねねはまだ赤ちゃんでそこまで食費はかからないはずだ。この金額なら大丈夫だと「売りますと」言いかけたとその時
「100両」
突然、背後から私とあまり年齢が変わらない少女がつぶやいた。
「その宝石見たところ100両の価値はありそうだけど。相手がいくら平民だからって、騙しちゃダメだよ」
「そんな、騙そうなんて……」
「どう考えても1両どころの価値じゃないでしょ。本当にそう思ったならおじさん、もうこの商売やめた方がいいよ。見る目ないから」
「なんだと、このクソガキが!」
商人は怒ってこちらに飛びかかってきた。けれど、少女の後ろに控えていた護衛が素早く間に割り込み、おじさんは兵士に捕らえられた。
「あ、あの……」
「こんな素敵なもの、どこで手に入れたの?」
「それは、とある人に譲ってもらったものなの……」
「そんな大切なもの、売ってしまってよかったの?」
「あの、その、お金がなくて……」
みみはこれまでの経緯を包み隠さず話した。するとその話を聞いた少女は、まっすぐな瞳でこう言った。
「じゃあ、うちに来なさい」
「私があなたを雇ってあげる」
「でも私のように身元がしっかりしていない者は働けないのでは……」
「じゃあこの宝石を身元証拠金として、あなたを雇うわ」
「本当にいいんですか……?」
「ええ、いらっしゃい」
こうしてみみは西園寺家に迎え入れられたのだった。
「……ここからはおおよそ、旦那様から聞いた通りでございます。いただいたものを勝手に手放してしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「いいんだ。むしろあの鱗を渡したおかげで、みみは生き延びて私のもとへこうやって帰ってきてくれたんだから」
もう二度と会えないと思っていた命の恩人が目の前にいる。目の前のの現実にみみは、涙が止まらなかった。
「本当にありがとうございました。私もずっと、ナギに会いたいと思っていたんです。あの時凪がくれた石がなければ、みやびお嬢様に出会うこともできず、路上で餓死していたと思います。あの時私を助けてくれたのは、あなた様です。本当にありがとうございました」
ミミはずっと心のどこかで諦めていた恩人との再会に、言い知れぬ幸福を感じていた。
「本当に、みみは可愛いね」
そう言って凪は、みみに優しく口づけをした。

