はじまりの朝



* *



 半袖半ズボンの男の子。
 その後ろ姿を僕は追いかけていた。
 時に公園。時に自宅の前の空き地。
 いつだって、どんどんと走って行く背中を、追いかけるのは僕のほう。
 時折、立ち止まって振り返る。
「ナナ~早く」
 日焼けした肌。眩しい笑顔。僕を呼ぶ声。
「待って~~いっく~ん」
 僕も彼の名を呼ぶ。
 そうやって、ずっと追いかけっこをしている。


 楽しい。とても楽しいのに、切ない。

 だって僕は知ってるんだ。
 これが『夢』だということを。
 いつだって、彼と一緒にいることのできた、幼い頃の『夢』だということを……。



* *



(――涙が……)


 泣きながら目覚めた。
 ベッドの上で上体を起こすと、涙が頬を伝い落ちた。僕はそれをそっと拭う。
 ああやって『彼』と追いかけっこをしたのも、もう何年も前のことだ。
 小学生の頃、それが楽しくて夢にも出てきた。でももうずっと見ていなかった。『彼』と会わなくなってから。

 今頃こんな夢を見たのも――きっと『彼』と再会したからだろう。
 再会。
 と言っても見かけただけ。
 『彼』も僕のほうに顔を向けていたと思う。でも何の反応も見せない。
 たぶん、僕のことなんて眼にも入らなかったんだろう。

 それでも、これ程影響力があるのは、やっぱり、僕にとって『彼』は。


 城河(しろかわ)樹(いつき)は──とても、タイセツナヒト──だから。



「……ナナ~ナナ~。七星(ななせ)ー起きてるのー?」

 切なく甘酸っぱい世界は不意に破られ、現実に引き戻される。

 母が階下から呼んでいた。もしかしたら、もうだいぶ前から呼んでいたのかもしれない。
 ベッドヘッドの棚に置いてあるデジタル時計は、六時五十分を過ぎていた。いつもなら六時半に鳴るようにセットしてあるが、今日は鳴った気がしない。
 そう言えば昨夜、樹のことを考えながら寝落ちしてしまったような気がする。
 僕はまだ頬を伝っていた涙を両手でぐいっと拭き取り、まだ浸っていたいこの場所から出ていく。
 急いで制服のワイシャツとズボンに着替えた。
 ドアを開けると部屋の前に猫のティラミスが待ち構えていた。「にゃあ」と一声鳴いて、僕の足にすり寄る。
「ごめんね、ティラ。今は構ってあげられないよ」
 僕が階段を駆け下りると、それよりも早くティラが下りて行った。
 
 
「おはよー。やっと起きたかー」
 キッチンに立って快活に笑う母。
 ティラは今度は母の足元でご飯をねだっている。
「おはよう。今日ご飯いらない」
 そう言いながらささっと通り過ぎて、洗面所へ。
 泣いたような跡は見せたくなかった。
「おー」
 後ろから返事が追いかけてくる。あまり煩く言わないのが母の良いところ。
 
 
 バシャバシャッと、涙の跡を流すように顔を洗う。
 鏡に映すと普段隠れている額が見え、慌てて手櫛で前髪を下ろした。濡れたままだと目が半分隠れそうなくらいに長い。
「ナナちゃんおはよー。今日はゆっくりだねー」
 鏡のなかに姉の乙女(おとめ)の顔がちらっと見えた。
 すぐに「行ってきまーす」「行ってらっしゃーい」の声と共に玄関が開閉する音がした。

 これが僕の家族。

 母と姉。
 それから、猫のティラミス。


 父親は僕が小五の時に交通事故で亡くなった。ここに家を建て、越してきてから五年後のことだ。
 母はそれまでもずっとパートで働いていたが、父が亡くなった後正社員として転職した。そうしながらも学校の行事にも参加し、役員なんかもこなしてしまう、とにかくパワフルな母親だ。
 専門学校を卒業して社会人二年目の姉も、母親の血を濃く受け継いでいるのか、なかなかパワフルな女性(ひと)だ。
 
 そして、そのパワフルな女性二人に囲まれた男の僕は、この家の中で一番弱々しいかも知れない。
 人見知り。消極的。ネガティブ思考。
 二人に申し訳なく、勝手に肩身の狭い思いをしている。
 二人に愛されいる自覚はあるのに。
 僕は額を隠した顔を見ながら、ふっと小さく溜息をついた。


「七星~のんびりしてていいの。ご飯食べなくても間に合わなくなるよ~」
「あ、うん」
 今日も朝からネガティブ思考全開。
 もう一度バシャッと水を引っ掛けてから、傍に掛かっているタオルで顔を拭いた。
 

「お弁当忘れるなよー」
「んーっ!」
 忘れそうになり、慌ててリュックにお弁当を入れる。
 忙しい時間を割いてお弁当を作る母に感謝しつつ、家を飛び出して行く。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい!」


 ぎりぎりいつものバスに乗る。
 駅迄は三十分。バスの本数も少ないルートだが、朝は必ず座れるというのが利点がある。
 駅から学校まではまた十分程歩く。

 このバス通りに面した高校がある。今の高校よりも少し近く、この辺りの高校では一番偏差値が高い学校だ。
 僕は元々はこの高校を志望していたし、担任も塾長も暗に押していた。
 しかし実際に受けたのは、一つ下のランクの高校だった。ランクを下げて優位に立とうとか、そういうわけではない。
 本気で欲しいものを前にすると、緊張で本来の力も出せないからだ。合格確実と言われても、恐らくあの高校には合格出来なかっただろうと、今でも思っている。



* *



 入学して二週間経った昨日。

 妙に派手で騒がしい集団が一年の教室の前を通っていた。髪は金色だったりオレンジだったり。紺のブレザーの下が派手なTシャツだったり、ワイシャツが白以外だったり。
 そんな生徒が五、六人。
 この学校もけして偏差値の低いほうではない。こんな感じの生徒がいることに、僕は驚いていた。他の生徒も同じように思っているのか、彼らを遠巻きに見てはひそひそと話をしていた。

 その集団の中に――『彼』を見た。