鬼神様の花嫁になった私を、親友は笑顔で呪っている

 鬼神の住まう黒嶺山は、帝都から馬車で半日ほど離れた場所にあった。
 山道を登るにつれて、空気が冷たくなっていく。
 案内役の神官たちは、山の中腹にある鳥居の前で足を止めた。

「ここから先は、花嫁様お一人でお進みください」
「一人で、ですか?」
「鬼神様がお待ちです」

 神官はそれ以上何も語らなかった。
 私は小さく息を吸い、鳥居をくぐった。
 そこには、見たこともないほど美しい景色が広がっていた。
 白い霧に包まれた森。苔むした石畳。水面に月を映す池。
 そして、その奥に佇む大きな屋敷。
 門の前に立っていたのは、一人の男だった。
 黒い髪は腰まで伸び、額には二本の黒い角。
 切れ長の瞳は血のように赤く、肌は雪のように白い。
 人間離れした美貌。
 彼が鬼神なのだと、すぐにわかった。

「お前が小夜子か」
「は、はい。桐生小夜子と申します」
「顔を上げろ」

 言われるままに顔を上げる。
 鬼神は私をじっと見つめた。

「……ずいぶんと痩せているな」
「え?」
「食事はきちんと取っているのか」

 思いがけない質問に私は目を瞬くと、次いで自分の頬に触れる。
 そんなに痩せぎすに見えたのだろうか……。

「ええと……普通に」
「普通とは何だ。人間の食事量はわからん」

 鬼神は眉間に皺を寄せた。
 恐ろしい存在だと思っていたのに、どこか困っているようにも見える。

「俺は黒嶺。お前がこれから暮らす場所の主だ」
「よろしくお願いいたします」
「堅苦しい挨拶は不要だ。俺のことは黒嶺と呼べ」
「ですが、鬼神様にそのような……」
「ならば、黒嶺様でも構わん」

 少しだけ、彼の口元が緩んだ気がした。
 屋敷の中に案内されると、広い部屋に食事が用意されていた。
 山菜の煮物、焼き魚、炊きたての白米。
 どれも温かく、丁寧に作られている。

「食べろ」
「ありがとうございます」

 箸を手に取ると、黒嶺が向かい側に座った。
 黒嶺は食事に手をつけず、ただ私を見ている。

「あの……召し上がらないのですか?」
「俺は食事を必要としない」
「そうなのですね」
「だが、お前が食べる姿を見るのは悪くない」

 思わず箸を止めた。
 何を言われたのかわからず、顔が熱くなる。

「……俺の花嫁になるのが嫌か」
「い、いいえ!」
「ならばよい」

 黒嶺は満足そうに頷いた。
 その夜、私は初めて黒嶺の寝所に呼ばれた。
 花嫁になった以上、夫婦として過ごさなければならないのだと思い、緊張していた。
 けれど、黒嶺は私の顔を見るなり言った。

「何を怯えている」
「その……私は、鬼神様の花嫁ですから」
「それがどうした」

 言いたい意味が分からないというように怪訝そうに眉間に皺を寄せる黒嶺に、私はもごもごと声を落として尋ねたのだった。

「夫婦になるということは……」

 寝所で睦み合うことですよね。と言い掛けたところで、ようやく合点がいったのか黒嶺は「ああ」と声を上げる。

「俺はお前を食わん」
「え?」
「それに、無理に触れるつもりもない。お前が望まぬことをする気はない」

 黒嶺は私に背を向け、部屋の隅に置かれた寝具を指さした。

「今夜はそこで眠れ」

 思わず彼の横顔を見つめてしまう。
 恐ろしい鬼神。
 人を食らうとも噂される存在。
 けれど、目の前にいる黒嶺は、私が思っていたよりもずっと優しかった。

「ありがとうございます、黒嶺様」
「……黒嶺でいい」
「はい。黒嶺様」
「聞いていないな」

 小さくため息をつく彼の声に思わず笑ってしまうと、またしても黒嶺は不思議そうに私を見つめたのだった。

「お前はよく笑うのだな」
「そうでしょうか」
「そうだ。……その顔を見ていると、妙に心が落ち着く」

 その言葉がなぜだか胸に残り、そして漠然と抱えていた不安や恐れはふわりと溶けるように胸の中から消え去ったような気がしたのだった。
 この時の黒嶺の言葉はいつまでも胸に巣食い続け、その日は与えられてた寝具で朝までぐっすり眠れたのだった。