夜半から降り始めた雪は、明け方になっても止む気配を見せなかった。障子越しに差し込む朝の光は淡く、庭の木々も、石灯籠も、すべてが白く覆われている。
小夜は鏡台の前に座り、侍女に髪を結い上げられていた。篠宮の屋敷を発った、昨朝と同じように。
目を閉じれば、兄の顔が浮かぶ。そして、その兄を討った男の顔が否応なく頭をよぎる。昨夕、久世の屋敷へ足を踏み入れてから、初めて迎える朝。慣れぬ寝所では、ほとんど眠れなかった。
──久世宗雪
冷酷無比と恐れられる若き当主。けれど、昨夕初めて相まみえたその男からは、噂に聞くような荒々しさは微塵も感じられなかった。
寡黙で、表情に乏しく、何を考えているのかわからない。
ただ、あの男が自らの手で兄を討ったという事実だけは疑いようもなかった。
「小夜様、少しだけ顔を上げてくださいませ」
背後から、穏やかな声がした。
侍女の名は、絹(きぬ)という。小夜より七つ年上の二十五。幼い頃から傍にいてくれた、姉のような存在だった。篠宮の屋敷から、ただ一人小夜に付き従ってきた者でもある。
嫁ぎ先へ侍女を伴うことは、珍しいことではない。けれど、長く争ってきた両家の婚姻となれば、話は別だった。
それでも宗雪は婚姻の取り決めに際し、小夜が望むならば、親しい侍女を一人伴ってよいと申し出たという。その話を父から聞いたとき、小夜は意外に思った。兄を討った男が、なぜそのような心遣いをするのだろうかと。
理由を尋ねることもできぬまま、今日を迎えていた。
鏡の中で、絹が慣れた手つきで髪を整えていく。見知らぬ屋敷の中で、その手の温もりだけが、故郷と変わらぬものだった。
「小夜様。少し、お顔色が優れませんね」
絹が遠慮がちに声をかけた。
「そう見える?」
「はい。昨夜は、あまりお休みになれなかったのでは……?」
「心配しないで。まだ慣れていないだけよ」
小夜は鏡の中の絹に微笑んだ。けれど、その笑みがどこかぎこちないことを、絹は見逃さなかった。
「小夜様はそのように仰るときほど、無理をなさっています」
「……絹にはなんでもお見通しね」
「何年、お傍に仕えているとお思いですか」
小夜は困ったように笑った。絹の手に導かれ、白い小袖に袖を通し、紅を差す。
鏡に映る花嫁姿を見つめたとき──ふと、遠い日の記憶が蘇った。
──肌寒い初春の頃。
庭先に綻び始めた梅の花を眺めながら、小夜は兄に尋ねたことがある。
「兄様。私もいつか、お嫁に行くのでしょうか」
千景は少し驚いたように目を見開き、それから優しく微笑んだ。
「そうだね。小夜が心から添い遂げたいと思う人に出会えたなら、いつかはそんな日が来るのだろう」
「……兄様は、小夜がお嫁に行ったら寂しくありませんか?」
「……寂しいよ。けれど、小夜が幸せになるのなら、兄はそれが一番嬉しい」
そう言って、千景は小夜の髪を優しく撫でた。
「きっと、美しい花嫁になるだろうね」
その言葉が嬉しくて、小夜は頬を染めた。
「そのときは、兄様にも見ていただきたいです」
「ああ。もちろん」
「絶対ですよ」
「必ず」
──けれど、その約束が果たされることは、もうない。
鏡の中の自分を見つめながら、小夜はそっと唇を引き結んだ。
(兄様。今の私を見て、笑っていますか。それとも……あなたを討った男のもとへ嫁ぐ私を、哀れんでいるでしょうか)
「……兄様」
知らず、唇からこぼれていた。
髪を梳いていた絹の手が一瞬、止まった。
「……小夜様?」
呼びかけられ、小夜は我に返った。
「何でもないわ」
膝の上で重ねた指先に、そっと力をこめる。感傷に浸るために、ここへ来たのではない。
この婚姻によって、一人でも多くの命が救われるのならば。自分は、久世の妻になろう。たとえ、その相手が兄の仇であろうとも。
****
祝言は、驚くほど静かなものだった。
広間には久世家の重臣たちが数名、居並んでいるだけ。華やかな楽の音も、賑やかな祝いの声もない。
床の間には紅白の梅が生けられ、香炉から細い煙が立ち上っていた。ほのかに甘い梅の香が、今朝思い出した兄の声に重なる。
小夜は宗雪の隣に座り、静かに頭を下げた。
宗雪は白い小袖の上に、濃紺の直垂をまとっていた。袖には久世家の家紋が控えめにあしらわれ、祝いの席でありながら、華美な装飾は見られない。
ただ背筋をのばし、昨夕と変わらぬ凪いだ水面のような横顔。
盃を交わし、夫婦としての儀を終える。
それだけで、篠宮小夜は久世宗雪の妻となった。
あまりにも、あっけなかった。十八年を過ごした家を離れ、兄を殺した男の妻となる。その重さに比べれば、交わした盃はあまりに小さく、軽い。
小夜が静かに盃を置いたときだった。
「……ひとつ、よろしいでしょうか」
久世の重臣の一人が口を開いた。年の頃は五十を過ぎているだろうか。白いものの混じった髭を蓄え、険しい眼差しを小夜へ向けている。
「篠宮の姫君に、まことに久世の妻となる覚悟がおありなのか、伺いたく存じます」
広間の空気が、わずかに張り詰めた。
小夜は男を見た。
その言葉に含まれた疑念を、聞き逃すほど幼くはない。篠宮家は、長く刃を交えてきた相手だ。和平の証として嫁いできたとはいえ、誰もが自分を歓迎しているわけではないのだろう。
それは、覚悟していたこと。
「……覚悟がなければ、私はこの場におりません」
小夜は静かに答えた。男の眉が、わずかに動く。
「されど、先の戦にて両家が流した血は少なくはありませぬ。姫君とて、そのことをお忘れではありますまい」
「ええ。忘れるはずがございません」
小夜は、膝の上で重ねた手をほどいた。
「私は、あの戦で兄を失いましたので」
──広間が静まり返った。
誰もが知っていることだった。篠宮千景を討ったのが、ほかならぬ久世宗雪であることを。そして、その妹が今、宗雪の隣に座っていることを。
小夜は一度だけ、浅く息を吸った。
「兄を失った悲しみが、五年の歳月で消えることはございません。これから先も、忘れることはないでしょう」
その声は堂々としていた。
「けれど、失った命を惜しむばかりでは、また新たな命を失うことになりましょう」
小夜は凛とした態度で男を見据えた。
「この婚姻は、両家の争いを終わらせるためのもの。私一人の覚悟を問われるのであれば、久世の皆様にも、同じ覚悟がおありなのか伺いたく存じます」
誰かが、息を呑んだ。
十八の娘が、久世家の重臣を前に一歩も退かずにいる。
その姿を、宗雪は黙って見つめていた。
小夜の横顔。まっすぐに相手を見据える黒い瞳。恐れを知らぬわけではない。それでも、己の信じることを曲げようとしない、その眼差し。
不意に、五年前よりもさらに遠い日の記憶が胸をよぎった。
──宗雪殿。人を従わせるのは、刃だけではありませんよ。
穏やかな声。柔らかいけれど芯のある、彼女とよく似た瞳。
宗雪は、わずかに目を伏せた。
「……この婚姻は、私が望んだものだ」
低い声が、広間に響く。
小夜が隣を見ると、宗雪は重臣たちへ鋭い視線を向けていた。
「篠宮との争いは、私の代で終わらせる。そのために小夜を妻に迎えた」
静かな口調だった。けれど、その言葉には誰にも異を唱えさせぬ重みがあった。
「この婚姻に異を唱えるならば、まず私に申せ。梶原」
名を呼ばれた重臣は、しばし口を閉ざした。やがて深々と頭を下げる。
「……出過ぎたことを申し上げました」
宗雪はそれ以上、何も言わなかった。小夜もまた、静かに頭を下げる。
しかし、心臓はうるさいほど鳴っていた。
見知らぬ屋敷で、見知らぬ者たちに囲まれ、兄の仇の隣に座っている。恐ろしくないはずがなかった。
それでも、ここで俯けば己が選んだ道まで否定することになる。
だから小夜はしっかりと顔を上げ、前を見据えていた。
隣に座る宗雪が、再び彼女へ目を向けたことには気づかぬまま。
小夜は鏡台の前に座り、侍女に髪を結い上げられていた。篠宮の屋敷を発った、昨朝と同じように。
目を閉じれば、兄の顔が浮かぶ。そして、その兄を討った男の顔が否応なく頭をよぎる。昨夕、久世の屋敷へ足を踏み入れてから、初めて迎える朝。慣れぬ寝所では、ほとんど眠れなかった。
──久世宗雪
冷酷無比と恐れられる若き当主。けれど、昨夕初めて相まみえたその男からは、噂に聞くような荒々しさは微塵も感じられなかった。
寡黙で、表情に乏しく、何を考えているのかわからない。
ただ、あの男が自らの手で兄を討ったという事実だけは疑いようもなかった。
「小夜様、少しだけ顔を上げてくださいませ」
背後から、穏やかな声がした。
侍女の名は、絹(きぬ)という。小夜より七つ年上の二十五。幼い頃から傍にいてくれた、姉のような存在だった。篠宮の屋敷から、ただ一人小夜に付き従ってきた者でもある。
嫁ぎ先へ侍女を伴うことは、珍しいことではない。けれど、長く争ってきた両家の婚姻となれば、話は別だった。
それでも宗雪は婚姻の取り決めに際し、小夜が望むならば、親しい侍女を一人伴ってよいと申し出たという。その話を父から聞いたとき、小夜は意外に思った。兄を討った男が、なぜそのような心遣いをするのだろうかと。
理由を尋ねることもできぬまま、今日を迎えていた。
鏡の中で、絹が慣れた手つきで髪を整えていく。見知らぬ屋敷の中で、その手の温もりだけが、故郷と変わらぬものだった。
「小夜様。少し、お顔色が優れませんね」
絹が遠慮がちに声をかけた。
「そう見える?」
「はい。昨夜は、あまりお休みになれなかったのでは……?」
「心配しないで。まだ慣れていないだけよ」
小夜は鏡の中の絹に微笑んだ。けれど、その笑みがどこかぎこちないことを、絹は見逃さなかった。
「小夜様はそのように仰るときほど、無理をなさっています」
「……絹にはなんでもお見通しね」
「何年、お傍に仕えているとお思いですか」
小夜は困ったように笑った。絹の手に導かれ、白い小袖に袖を通し、紅を差す。
鏡に映る花嫁姿を見つめたとき──ふと、遠い日の記憶が蘇った。
──肌寒い初春の頃。
庭先に綻び始めた梅の花を眺めながら、小夜は兄に尋ねたことがある。
「兄様。私もいつか、お嫁に行くのでしょうか」
千景は少し驚いたように目を見開き、それから優しく微笑んだ。
「そうだね。小夜が心から添い遂げたいと思う人に出会えたなら、いつかはそんな日が来るのだろう」
「……兄様は、小夜がお嫁に行ったら寂しくありませんか?」
「……寂しいよ。けれど、小夜が幸せになるのなら、兄はそれが一番嬉しい」
そう言って、千景は小夜の髪を優しく撫でた。
「きっと、美しい花嫁になるだろうね」
その言葉が嬉しくて、小夜は頬を染めた。
「そのときは、兄様にも見ていただきたいです」
「ああ。もちろん」
「絶対ですよ」
「必ず」
──けれど、その約束が果たされることは、もうない。
鏡の中の自分を見つめながら、小夜はそっと唇を引き結んだ。
(兄様。今の私を見て、笑っていますか。それとも……あなたを討った男のもとへ嫁ぐ私を、哀れんでいるでしょうか)
「……兄様」
知らず、唇からこぼれていた。
髪を梳いていた絹の手が一瞬、止まった。
「……小夜様?」
呼びかけられ、小夜は我に返った。
「何でもないわ」
膝の上で重ねた指先に、そっと力をこめる。感傷に浸るために、ここへ来たのではない。
この婚姻によって、一人でも多くの命が救われるのならば。自分は、久世の妻になろう。たとえ、その相手が兄の仇であろうとも。
****
祝言は、驚くほど静かなものだった。
広間には久世家の重臣たちが数名、居並んでいるだけ。華やかな楽の音も、賑やかな祝いの声もない。
床の間には紅白の梅が生けられ、香炉から細い煙が立ち上っていた。ほのかに甘い梅の香が、今朝思い出した兄の声に重なる。
小夜は宗雪の隣に座り、静かに頭を下げた。
宗雪は白い小袖の上に、濃紺の直垂をまとっていた。袖には久世家の家紋が控えめにあしらわれ、祝いの席でありながら、華美な装飾は見られない。
ただ背筋をのばし、昨夕と変わらぬ凪いだ水面のような横顔。
盃を交わし、夫婦としての儀を終える。
それだけで、篠宮小夜は久世宗雪の妻となった。
あまりにも、あっけなかった。十八年を過ごした家を離れ、兄を殺した男の妻となる。その重さに比べれば、交わした盃はあまりに小さく、軽い。
小夜が静かに盃を置いたときだった。
「……ひとつ、よろしいでしょうか」
久世の重臣の一人が口を開いた。年の頃は五十を過ぎているだろうか。白いものの混じった髭を蓄え、険しい眼差しを小夜へ向けている。
「篠宮の姫君に、まことに久世の妻となる覚悟がおありなのか、伺いたく存じます」
広間の空気が、わずかに張り詰めた。
小夜は男を見た。
その言葉に含まれた疑念を、聞き逃すほど幼くはない。篠宮家は、長く刃を交えてきた相手だ。和平の証として嫁いできたとはいえ、誰もが自分を歓迎しているわけではないのだろう。
それは、覚悟していたこと。
「……覚悟がなければ、私はこの場におりません」
小夜は静かに答えた。男の眉が、わずかに動く。
「されど、先の戦にて両家が流した血は少なくはありませぬ。姫君とて、そのことをお忘れではありますまい」
「ええ。忘れるはずがございません」
小夜は、膝の上で重ねた手をほどいた。
「私は、あの戦で兄を失いましたので」
──広間が静まり返った。
誰もが知っていることだった。篠宮千景を討ったのが、ほかならぬ久世宗雪であることを。そして、その妹が今、宗雪の隣に座っていることを。
小夜は一度だけ、浅く息を吸った。
「兄を失った悲しみが、五年の歳月で消えることはございません。これから先も、忘れることはないでしょう」
その声は堂々としていた。
「けれど、失った命を惜しむばかりでは、また新たな命を失うことになりましょう」
小夜は凛とした態度で男を見据えた。
「この婚姻は、両家の争いを終わらせるためのもの。私一人の覚悟を問われるのであれば、久世の皆様にも、同じ覚悟がおありなのか伺いたく存じます」
誰かが、息を呑んだ。
十八の娘が、久世家の重臣を前に一歩も退かずにいる。
その姿を、宗雪は黙って見つめていた。
小夜の横顔。まっすぐに相手を見据える黒い瞳。恐れを知らぬわけではない。それでも、己の信じることを曲げようとしない、その眼差し。
不意に、五年前よりもさらに遠い日の記憶が胸をよぎった。
──宗雪殿。人を従わせるのは、刃だけではありませんよ。
穏やかな声。柔らかいけれど芯のある、彼女とよく似た瞳。
宗雪は、わずかに目を伏せた。
「……この婚姻は、私が望んだものだ」
低い声が、広間に響く。
小夜が隣を見ると、宗雪は重臣たちへ鋭い視線を向けていた。
「篠宮との争いは、私の代で終わらせる。そのために小夜を妻に迎えた」
静かな口調だった。けれど、その言葉には誰にも異を唱えさせぬ重みがあった。
「この婚姻に異を唱えるならば、まず私に申せ。梶原」
名を呼ばれた重臣は、しばし口を閉ざした。やがて深々と頭を下げる。
「……出過ぎたことを申し上げました」
宗雪はそれ以上、何も言わなかった。小夜もまた、静かに頭を下げる。
しかし、心臓はうるさいほど鳴っていた。
見知らぬ屋敷で、見知らぬ者たちに囲まれ、兄の仇の隣に座っている。恐ろしくないはずがなかった。
それでも、ここで俯けば己が選んだ道まで否定することになる。
だから小夜はしっかりと顔を上げ、前を見据えていた。
隣に座る宗雪が、再び彼女へ目を向けたことには気づかぬまま。
