雪解け忍ばせ、愛を乞う

久世家の屋敷へ辿り着いた頃には、冬の日はすでに西へ傾いていた。輿の外から、冷たい風が吹き込んでくる。

「小夜様。到着いたしました」

「……ええ」

小夜は短く答えると、懐へ手を添えた。兄から託された小刀が、そこにある。その感触を確かめてから、ゆっくりと輿を降りた。

目の前には、重厚な門構えの屋敷があった。門の両脇には久世家の家臣たちが控え、その奥には手入れの行き届いた庭が広がっている。

松の枝には、昨夜の雪がまだ白く残っていた。

篠宮家から付き従ってきた侍女が、不安げに身を寄せる。

「……小夜様」

「大丈夫」

小夜は微笑んだ。けれど、長い道中で冷えきった指先は、感覚がまるでない。

この屋敷のどこかに、兄を殺した男がいる。五年のあいだ、憎み続けた男。その顔を、これから初めて見るのだ。

「……行きましょう」

小夜が一歩を踏み出そうとした、その時。

門の奥で、居並ぶ家臣たちが一斉に頭を下げた。

屋敷へと続く石畳の向こうから、一人の男が歩いてくる。濃紺の直垂をまとい、肩に届くほどの黒髪を後ろでひとつに束ねている。すっと通った鼻筋に、涼しげな切れ長の目。端正な顔立ちに、感情らしいものは見えない。

思っていたよりも、ずっと若い。

男は小夜の数歩手前で立ち止まる。小夜の喉が微かに上下した。

「……篠宮小夜殿か」

「はい。お初にお目にかかります。篠宮小夜と申します」

小夜は背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げた。

「私が久世家当主、久世宗雪だ」

その名を聞いた瞬間、胸の奥が凍りついた。

──この男が、兄様を殺した。

小夜はゆっくりと顔を上げた。目の前の男を、まっすぐに見据える。

宗雪の目が、わずかに見開かれた。

ほんの一瞬──けれど、確かにその表情が揺らいだのを、小夜は見逃さなかった。

「……何か?」

問いかけると、宗雪はすぐに表情を戻した。

「いや」

短い返事だった。

「本日より、そなたを妻として迎える」

「よろしくお願いいたします」

「長旅、ご苦労だった」

「お気遣い、痛み入ります」

交わされた言葉は、それだけだった。

冷酷無比と恐れられる久世家の当主。兄の命を奪った男。

五年のあいだ思い描いていたのは、もっと荒々しく、血の匂いをまとった男だった。だが、目の前の彼はただ静かで、その表情からは何を考えているのか見当もつかない。

「……寒くはないか」

不意に問われ、小夜は数回瞬きをした。

「はい」

「そうか」

宗雪は小さく頷くと、傍らの家臣へ視線を向けた。

「部屋へ案内しろ」

「はっ」

小夜は思わず、その横顔を見つめた。

兄を殺した男が、自分を気遣っている。そのことが、妙に不自然に思えた。

だが、こんな些細な気遣いひとつで、何かが変わるわけではない。

「……宗雪様」

背を向けかけた宗雪が、足を止めた。

「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「……なんだ」

小夜は、まっすぐに宗雪を見上げた。

「なぜ、私を妻に迎えようと思われたのですか」

周囲の空気が、わずかに張り詰めた。家臣の一人が何かを言いかけたが、宗雪が片手を上げて制した。

「……和平のためだ」

迷いのない返答だった。

「この婚姻が成れば、両家の争いを終わらせることができる」

「そうですか」

「それ以外に、理由が必要か」

その言葉に、小夜の胸が小さく痛んだ。和平のため。それは小夜自身も望んだことだった。けれど、目の前の男にそう言われると、どうしても思ってしまう。

──兄を殺したことも、ただ戦を終わらせるために必要だったと言うのか。

小夜は奥歯を噛み締めた。

「いいえ……」

ゆっくりと微笑む。

「私も、民が安らかに暮らせる世を望んでおります」

「……そうか」

「ですが」

小夜は笑みを消した。

「私があなたを夫として受け入れるかどうかは、また別のお話です」

家臣たちが息を呑んだ。侍女が、小夜の袖をそっと引く。それでも小夜は、宗雪から目を逸らさなかった。

宗雪もまた、彼女を見つめていた。

風が吹き、枝の擦れ合う音だけが響いている。

「……それでいい」

やがて、宗雪が口を開いた。

「そなたに、私を慕えとは言わぬ」

その声は、ひどく静かだった。

「この婚姻を受け入れてくれたことには感謝している。だが、それ以上のものを求めるつもりはない」

小夜は思わず眉を寄せた。それは優しさなのか。それとも言葉通りの意味なのか。

「……こちらも、そのつもりですので」

そう答えると、宗雪はわずかに頷いた。

「案内してやれ」

家臣に告げ、宗雪は背を向けた。小夜は、遠ざかっていくその背中を、ただ黙って見つめていた。

****

案内された部屋は、屋敷の奥にあった。

障子を開けた途端、ふわりと温かな空気が頬を撫でた。部屋の真ん中では、火鉢の炭が赤々と熾っている。

「……もう、火が」

侍女が驚いたように呟いた。案内の家臣が膝をつき、頭を下げる。

「宗雪様より、小夜様がお着きになる前に部屋を温めておくよう、仰せつかっておりました」

小夜は、ぴくりと肩を揺らした。

──寒くはないか。

門前で聞いた低い声が、耳の奥によみがえる。

「では、私はここで失礼いたします」

家臣が下がり、侍女が荷を解き始める。小夜は火鉢の前に膝をつき、かじかんだ両手をそっとかざした。

冷えきっていた指先に、じんと痺れるような痛みとともに、少しずつ熱が戻ってくる。

「……こんなもので」

小夜は、ぽつりと呟いた。

こんなもので、何かが変わるわけではない。兄の命は戻らない。あの男が兄を殺した事実も、何ひとつ消えはしない。

それなのに、なぜか胸のざわめきが収まらなかった。

小夜は片手を懐へ当てた。炭の熱が届かないそこだけが、ひやりと冷たい。

──兄様。

小夜は一つ、息を吐いた。まだ何もわからない。

ただ確かなことは、兄を殺した男の妻として今日からこの屋敷で暮らすのだ。

その事実だけが、火鉢の熱にも溶けることなく小夜の胸の奥へ沈んでいった。