雪解け忍ばせ、愛を乞う

兄を殺した男のもとへ、明日、嫁ぐ。

篠宮小夜(しのみや さゆ)は、膝の上に置いた小刀を見つめていた。

鞘は黒く、柄には細い銀糸が巻かれている。五年前、兄の千景(ちかげ)が戦へ発つ前に、小夜へ託したものだった。

「小夜、お守りを渡しておく。でも、これはむやみに抜いてはいけないよ」

あの日の兄は、そう言って、いつものように穏やかに笑っていた。

「どうして? これは戦うために使うものでしょう?」

「そうだね。けれど……できれば小夜には、誰も傷つけずに済む道を探してほしい」

それが、兄と交わした最後の言葉になった。

小夜は小刀を鞘から抜いた。障子越しの月明かりを受けて、刃が青白く光る。指先に触れた刀身は、冬の夜気をそのまま閉じ込めたように冷たかった。

「……兄様」

声に出した途端、胸の奥が軋んだ。五年が経った今も、その名を呼ぶだけで息が詰まる。

兄がいなくなってから五年──

どれほど涙を流しても、幾度眠れぬ夜を明かしても、兄が帰ってくることはなかった。泣けば帰ってくるのなら、いくらでも泣いた。けれど、そうではないと知ってから、小夜は泣くのをやめた。

兄を討った男の名は、久世宗雪(くぜ むねゆき)。

冷酷無比と恐れられる若き武将。明日から、小夜の夫となる男だった。

「……おかしな話ですね、兄様」

小夜は小さく笑った。自分でもひどく乾いた笑い声だと思った。

「兄様を殺した相手に、嫁ぐだなんて」

障子の向こうでは、風が庭の松を揺らしていた。枝に積もっていた雪が、音もなく落ちる気配がする。

この縁組が成れば、長く続いた争いは終わりを迎える。飢えに苦しむ民は減り、子どもたちが怯えずに眠れる日が来るという。小夜もそれを望んでいた。誰よりも。

けれど──

小刀を握る指に、力がこもる。

「兄様の命を奪ったことを、なかったことにはできない」

父は、この婚姻を篠宮家が生き残るための道だと言った。家臣たちは、篠宮家の女の務めだと言った。

小夜は、そのどちらにも頷いた。民を守れるならば、敵方へ嫁ぐことも厭わない。

しかし、その先で何を思い、何を選ぶかまで、誰かに決めさせるつもりはなかった。

小夜は刃を鞘へ納めた。

「……久世宗雪」

改めてその名を口にした途端、唇が震えた。けれど、小夜は奥歯を噛み締め、込み上げるものを喉の奥へと押し戻す。

「あなたが、どのような方なのか。この目で確かめて差し上げます」

静かに、小刀を懐へ忍ばせる。冷たい鞘が、肌着越しに胸へ触れた。

「そのうえで……私が決めます」

討つべき男なのか。それとも、兄が命を懸けて守ろうとした和平を託せる男なのか。

──兄の死を、無駄にはしない。

夜が明ければ、花嫁となる。その懐に、刃を隠して。

****

翌朝。

まだ陽も昇りきらぬうちから、篠宮の屋敷は慌ただしかった。廊下を行き交う女中たちの足音。庭先から聞こえる馬のいななき。霜の降りた門前には、久世家へ向かう輿と護衛の者たちが控えている。

小夜は鏡台の前に座り、静かに目を伏せていた。

「小夜様、よくお似合いでございます」

背後で髪を結い上げていた侍女が、嬉しそうに微笑む。

「ありがとう」

小夜も微笑み返した。紅を引いた唇も、丁寧に結われた黒髪も、鏡に映る姿は見慣れた自分とはまるで違う。

今日から、久世宗雪の妻となる。

そう思っても、不思議と実感は湧かなかった。

「……小夜様」

侍女が、ふいに櫛を持つ手を止めた。

「あの……本当に、よろしいのでございますか」

小夜は鏡越しに彼女を見つめる。

「どういう意味?」

「その……久世の御方は、千景様を……」

「それ以上は、言わないで」

小夜ははっきりと告げる。声を荒らげたわけではなかった。けれど、侍女ははっと口をつぐんだ。

「申し訳ございません……」

小夜はゆっくりと立ち上がり、振り向くと、侍女の手に自分の手を重ねた。その指先は、冷えきっていた。

「怒っているわけではないの。大丈夫よ。私が自分で決めたのだから」

そう言って口元を和らげた。

やがて、廊下の向こうから足音が近づいてきた。

「……小夜」

障子が開く。

「父上?」

そこに立っていたのは、篠宮家当主、蒼玄(そうげん)だった。いつもと変わらぬ厳しい顔つき。
その手には、一張の弓が握られていた。

小夜はその弓を見つめる。

「それは……」

「千景のものだ」

父は短く答えた。使い込まれた弓の握りは僅かに綻び、兄の手の痕がそのまま残っている。

「……兄様の弓を、どうして」

「持っていけ」

蒼玄はそれだけ言った。

「祝いの品だ」

「ですが、これは父上が大切に……」

「私が持っていても、埃を被るだけだ」

強い父の声。しかし、指が弓を手放すまでに、わずかな間があった。

「……ありがとうございます」

小夜は頭を垂れ、両手で弓を受け取った。弓は思っていたよりも、ずっと重かった。

──しばしの沈黙。庭先では、出立を告げる声が響いている。

「小夜」

「はい」

小夜が顔を上げると、父の視線は庭へ向けられていた。

「困ったことがあれば、いつでも知らせよ」

小夜は思わず、ふっと笑った。

「父上が、そのようなことをおっしゃるなんて」

「……何がおかしい」

「いいえ。何もおかしくはありません。ただ、嬉しくて」

「……」

小夜はそっと弓を傍らに置き、畳に膝をついた。両手をつき、深く頭を下げる。懐の小刀が胸元に硬く当たった。

「父上、十八年間ありがとうございました。どうか、お身体を大切になさってください」

「お前もな」

それだけ交わし合うと、小夜は弓を抱いて立ち上がり、侍女と共に父の傍を通り過ぎていく。

「……小夜」

背後から、もう一度だけ声がした。

「はい」

小夜は振り返らずに答えた。

「……達者でな」

敷居をまたぎかけた小夜の足が、止まった。
その声が少し震えていたから。

幼い頃から、父はいつも厳しかった。兄のように頭を撫でてくれることも、優しい言葉をかけてくれることも、ほとんどなかった。

「……はい。行ってまいります、父上」

小夜は振り返らなかった。その言葉を最後に、静かに障子が閉じられる。

蒼玄はしばらく、その場を動かなかった。