帝都後宮の元夫婦

 
 沙和(さわ)が遠矢貴行(とおやたかゆき)から離縁を言い渡されたのは初夜、初めて口づけを交わした直後だった。

「君に落ち度はない。だが、二度と俺の前に姿を見せないでほしい」

 白い婚礼衣装に身を包み、三々九度の盃を交わしてから、まだ半日あまりだった。
 貴行が布団から逃げるように離れ、寝間の畳につくほど深く頭を下げるのを、沙和は寝巻きの胸元をかき合わせ呆然と見つめた。

「どうしてですの……?」

 貴行は端正な顔を歪めるだけで、返事はなかった。沙和も、なにも言えなかった。
 世間一般にいう、政略結婚ではなかった。
 ひょんなことから知り合った貴行とはそれからも幾度か会う機会があり、実直で飾らない人柄に好感を抱いた。
 だから求婚されたときも、断るという選択肢は浮かばなかった。
 これから、ふたりで愛情を育てていくのだと思っていた。
 しかし、翌日から彼は沙和が嫁いだ遠矢の家に帰って来なくなった。
 そうしてひと月が経ったころ、沙和は正式に離縁状を渡され、遠矢家を出された。
 沙和が十六歳になった秋のことだった。
 
     ***
 
 沙和が自分の部屋で七宝焼の小箱を愛でていると、荒々しい足取りで父親が踏みこんできた。
 文明開化の波にいち早く乗った父親は、今日も仕立てのよい洋装に身を包んでいる。しかし、怒りの形相のおかげで洒落た格好も台無しだ。
 沙和は小箱を畳に置いて父親に座布団を勧めたが、その瞬間、父親から特大のカミナリが落とされた。

「もうやめてくれ……! 売れもせん箱ばかり集めおって。いったいこれで何度目なんだ!?」

 怒りの目は、沙和が手に入れたばかりの美しい小箱に向いている。深い夜空のような地色に薔薇が描かれた、七宝焼だ。
 沙和はことりと首をかしげた。

「数えたことはありませんが……そうですわね、ええと」

 と、指を折って数え始めた沙和に、二度目のカミナリが落ちる。

「お前がいつまでもそんなだから、新しい縁談も来んのだ! お前がこの家に出戻ってからもう三年、三年だぞ? このままでは我が家が破綻する」
「そう言われましても、後妻にという申し出をお断りなさったのはお父様じゃないですか」
「当たり前だ! 手塩にかけて育てたかわいい娘を、なぜわざわざ好色じじいの後妻にほいほい差し出さにゃならんのだ。お前の散財に目をつむってきたのも、お前がかわいくて不憫でならんからだろう」
「お父様、ご覧くださいませ。どれも素晴らしい逸品ですわよ。散財ではありませんわ」

 父親は床間の飾り棚に並べられた沙和の蒐集品(しゅうしゅうひん)を思わずといったふうに見やり、うっ、とうめいた。

「さすが、傍流とはいえ元華族の娘で商会育ちだけある」

 飾り棚には、出戻った沙和が蒐集した小箱が美しさを競い合うようにして並べられている。素材も、模様もさまざまだ。

「いや、駄目だ駄目だ! 十九歳にもなってのらくらとしていられては、こっちが保たん!」

 妙に爛々と、据わった目で告げられた。

「いいか。お前にはこの明治の世でもっとも堅実で、高貴な場所に収まってもらうからな」



 
 守衛が厳(おごそ)かに開けた絢爛(けんらん)な門を車で通り抜けると、沙和の前に別世界が広がった。
 端の見えない広大な敷地には白い砂利が敷かれ、空の色によく映えていた。巨大なと言っても差し支えないだろう建物群は、洋風のものもあれば和風のものもあって、両方がよく調和している。
 案内に従って一歩進むごとに緊張が募り、同時に感嘆のため息も漏れた。

「まさか宮中に出仕することになるなんて、人生なにがあるかわからない物ですわね」

 中でも壮麗な外観は、先日完成を祝い、現在の帝の住まいとなったばかりのまばゆい宮殿であった。

「御在所にはお上と、東宮殿下がお住まいです。手前がご公務をなさる建物で——」

 正門周辺に建てられた宮殿は公務を行うための建物で、表宮(おもてのみや)とも呼ばれている。帝国の国力を示すためもあってか、外観は壮麗かつ典雅だ。
 対して帝や東宮の私的な空間となる建物は、総じて後宮(こうきゅう)と呼ばれている。敷地の奥に建てられた和風建築群で、ここには妃たちの住まう建物や女官の住居棟なども含まれる。
 案内役の説明を新鮮な気持ちで聞きつつ、沙和は気を引きしめる。
 沙和の実家は元を辿れば公家にも連なるとはいえど、その実家とは比較にならないほど立派な佇まいだ。ただ、後宮は華美な装飾はなく、どちらかといえば質素な印象を受ける。
 沙和たちは表宮と後宮の中間ほどにある一棟の建物の前で足を止めた。

「こちらが宝物蔵(ほうもつくら)でございます」

 数段の階を備えた高床の建物は、中の宝物が黴(かび)などの害に侵されないようにしたものだろう。石造りの壁の上部には、採光と風を通すための小窓が見えた。
 いわゆる保管庫なので、華美な装飾はない。しかし沙和の実家の主屋ほども大きく、堅牢な造りだ。

「まあ。わたしが管理するのはこちらに所蔵されたものね?」
「そのとおりです。委細お聞きかと存じますが、管理には所蔵台帳への登録や、修復なども含まれます」

 帝都にあるお上の御在所にて、保管されている宝物の管理をする。
 それが、実家に居座り続け、商会に持ちこまれる様々な品物からこれと思うものを買い漁った沙和に父親が命じた、新たな「収まりどころ」だった。
 しかも父はいつのまにか沙和を住みこみで働く女官として話をつけていた。外に出ると散財するから、という非情な理由である。
 つまり、沙和の世界は当面、この御在所の門の内側がすべてである。
 これまでのように、日々持ちこまれる新しいものに心をときめかせることは叶いそうにない。

「ああでも素敵。宝物蔵の品物がすべてわたしの手中にあると思えば、この環境は願ったり叶ったりかもしれないわ」
「ほう、新しい女官殿は任官初日に首を斬られたいとおっしゃる」

 よく研(と)がれた刃めいた声の主をふり返り、沙和は目をみはった。
 細身ながら筋肉のついた長身に、武官の服装を隙なく身につけた青年だ。腰に佩(は)いた剣もごく自然になじんでいる。
 完璧な彫像めいた端正な顔立ちに、鋭さがうかがえる目元。
 身のこなしは流れるようで、年頃の女性であれば見惚れずにはいられないだろう。
 沙和の胸に、驚きと懐かしさ、それからなんとも言えない複雑な気持ちがいっぺんに押し寄せてきた。

(歳はたしか、わたしの五歳上だから……今年で二十四歳でいらっしゃるかしら)

 不器用で、愛想がよいとは言えない人だった。だけど実直で飾ったところがなく、一度懐に入れた相手には情が深い人だったとも思い出す。
 夜の底を掬いあげたかのような深い色の目も、変わらない。
 だけどその目には記憶の中の彼にはなかった翳りがちらつき、険しくなったようにさえ見えた。

「君が新しい宝物局配属の女官なのか」

 沙和を見つめる表情に変化はない。しかし見開いた目に一瞬過去が襲いかかり、凍りついたのを、沙和は見逃さなかった。
 とはいっても、沙和も似た表情をしているに違いない。

(こんなに驚いたことなんてなかったわ)

「お久しぶりでございます、貴——」
「東宮付き武官長で御影守(みかげもり)の遠矢だ。今後、宝物蔵の出入りには私が必ず立ち会うからそのつもりで」

 元夫は、沙和が最後まで言うのを許さなかった。



 
 まさか三年を経てから、元夫とこんなかたちで再会することになるとは思わなかった。
 貴行は三年前より痩せたようだ。と、沙和は目の前で仕事の説明をする貴行を見ながら思う。よく眠れていないのか、目元には隈があった。

「――君には、私などの説明は退屈だったようだな」

 貴行の声に物思いから覚めたときには、彼は詰所を出るところだった。沙和も女官服の裾をからげ、急ぎ足でついていく。
 砂利に足を取られそうになりながら、自分をかつての「俺」ではなく「私」と呼ぶ貴行を遠く感じる。

「そんなつもりではありませんでしたわ。貴——」
「名前はやめてくれ」

 ふり返った貴行ににらまれた。

「——遠矢様、もう一度だけ。次はきちんとうかがいますから」

 昨日は初日だったため、主に女官長から後宮での生活面の説明を受けただけだった。今日が実質の仕事始めである。
 ちなみに沙和は、所属としては宝物局付きで女官といっても下級女官だという。
 貴行は不機嫌そうにしながらも、説明を繰り返した。
 宝物蔵での仕事は、帝が目覚める朝八時から日暮れまで。後宮内は電気設備がととのっているが、「奥」では基本的に電気を使用しない。宝物蔵でも手燭を持ちこんで作業をする。などなど。
 宝物蔵への立ち入りも、まず女官長に身体検査を受け、鍵を借りるための札をもらわなければならない。その上で、武官をともなって管轄部署へ鍵を受け取りに行く必要があるという。
 宝物蔵から出るときは、逆の手順で鍵を返すらしい。

「宝物蔵の出入りにも、必ず武官が立ち会う。間違っても勝手な振る舞いのないように」
「まあ、そこは自信がありますわ。理由もなくある日突然、離縁を言い渡されても、おとなしく従いましたでしょう」
「皮肉で返す気か?」
「いいえ、実績を示せば安心していただけるかと思ったのですけれども」
「我々の個人的な話は二度と口にしないでくれ」

 貴行はにべもなかった。
 



 お上に仕える人間の身元は調べられているはずなので、沙和と貴行が元夫婦であった事実も、ごく一部には知られているのだろう。
 しかしお勤めを開始して一週間が過ぎると、女官長でも知らないらしいとわかってきた。どうも、貴行が口を固く閉ざしているようだ。沙和も進んで明かそうとは思わない。
 実質的には、たった一日で終わった結婚生活である。話しても、腫れ物に触るような扱いを受けるか、いい笑い者になるだけだ。
 それに、求婚されたときこそ心が浮き立ったけれど、姿を見せるなとまで告げられてから三年も経ったのだ。
 沙和の心だって、すんと凪の状態になるものである。

「沙和さんも、お家では蝶よ花よと育てられたのでしょうけど。宮中ではお育ちに関係なく、皆がお上に尽くす女官に過ぎなませんからね」
「もちろん、お上(へ献上された品々)にこの身を捧げるつもりでございます」

 女官長からの注意に、沙和は神妙な表情で返事をする。
 合図のとおりに両手を万歳のかたちに上げた。

(そうよ。貴行様とは、今はお上に仕える者同士というだけだわ)

 肩先から腰までさするようにして、女官長の手が沙和の全身をあらためる。袖の中、襟ぐりなどにも手を入れられる。
「身体検査」は、沙和の想像よりもよほどしっかりと行われるらしい。
「よろしゅうございます。お勤めよろしくお願いします」

 ようやく許可が下り、沙和は鍵を借りるための札を女官長から受け取った。次は武官の詰所である。
 ここ宮中には、千を下らない数の人間が働いているという。
 帝や東宮、妃たちの世話をする上級女官はその一部にすぎず、大半が雑事をこなす下級女官だ。沙和もそのうちのひとりである。
 女官は大半が未婚の娘だが、中には沙和のような者や夫に先立たれた者も働いているらしかった。既婚者もまったくいないわけではないという。
 ただ、女官たちに共通するのは、いずれも身許のたしかな良家の子女であるということである。
 沙和が向かった詰所は、表宮のすぐ裏手にあった。質素だが洋風の造りだ。
 立ち会う武官は、だいたいが貴行と決まっているようだった。
 稀(まれ)に別の武官が担当するときもある。貴行の部下のようで、新入りだから軽んじられるかと思いきや、礼儀正しくも気さくに接してくれる。
 だけど、貴行が相手ではそうはいかない。
 口を開けば「その足の速さでは日暮れになっても宝物蔵にたどり着かない」だの「君と女官服の取り合わせは実に珍妙だ」だのと、貴行はけんもほろろなのだ。
 宝物蔵では黙々と、残っている台帳と所蔵品の照合作業をする。作業はもうひとりの女官と分担して行うが、お勤めの時間は重なるときもあればそうでないときもある。
 そうして日が落ちれば、また武官が迎えにきて作業終了だ。
 最初こそ後宮独自の規則や新しい人間関係に戸惑ったけれど、一週間も経つと慣れてきた。
 もともと人を疑うということをしない性格も手伝ってか、貴行の毒舌もそんなものかと耐性がついてくる。

「つまり、能天気なのだろう」
「あら、それは少し違いますわ。環境の変化に順応しやすいのです」

 詰所から出てきた貴行のトゲをさらりとかわし、沙和は女官長が不在であることを伝える。
 朝から姿が見当たらず、今日はまだ身体検査を終えられていない。

「今日はどなたも『表』のお仕事でお忙しいご様子ですし、わたしは下級女官ですから『表』への立ち入りは禁じられておりますし。困りましたわ」
「では、もうひとりの宝物蔵担当の女官……は今日は非番か」

 そうこうするうちに、詰所にいた武官たちも次々に持ち場に出ていく。
 貴行も本来の持ち場に向かう時間が迫っているようだ。苛立たしそうに沙和を見ると、詰所に入るよう急かす。

「いいか。俺がせざるを得ないからするだけで、好きでやるわけじゃない」
「はい? なにをでしょう」

 貴行は詰所の引き戸を隙間を残して閉めると、なぜか両手を上げた。

「今から私は『無』の心で君の身体検査を行う」
「あら、あら、まあ。なにも隠し持ってはおりませんが」

 そういう話ではない、という顔でにらまれ、沙和は口をつぐんだ。

「いいか、私は君には二度と触れたくなかった。だがしかたない、さっさと終わらせる。手を上げろ」
「まあ。手を上げろだなんて、まるで捕り物みたいですわね。そんなに怖い顔をなさらなくても、服の上から触れられただけで悲鳴を上げるほど初心ではありませんわ。いっそ初心でいたかったとは思いますけれども」

 初夜のお務めも果たす前に離縁されたが、貴行は沙和が一生の覚悟を決めて体を預けようとした相手だ。
 ほかの官吏に検査をされるよりは、いくらかましである。

「君はわずかのあいだも黙っていられないのか?」

 沙和はおとなしく両手を上げる。貴行は表情を消すと、ぐっと間合いを詰めた。
 見あげると、貴行の喉仏がすぐ目の前にある。
 貴行が女官服の上から沙和の腕、肩、胴と順に触れていく。沙和はどきりとして息を詰めた。
 彼の手は遠慮がちで、毒の効いた口調とは裏腹に沙和を気遣うようでもあった。なにやら妙にいたたまれず、沙和は早く終われと念じる。
 検査が終了するというとき、沙和の手に触れた貴行がはっとした。

「君は今も……なのか?」

 え、と顔を上げると、貴行が目を見開いていた。
 瞬時のうちに、貴行の目に様々な感情が浮かんでは消えていくのが見えた。驚きと、強い否定と。それらが、どこからくるものなのか、沙和には見当もつかない。
 最後に浮かんだのは、たぶん——失望だった。

「まあ、なんでしょう。痣かしら」

 おどけて言うと、貴行がはっと手を離した。しかし食い入るように自身の手を見つめている。
 かと思うと、大げさなくらいに後ずさった。

「君みたいな能天気な人間には、この場所はふさわしくないな。一日も早く、辞めることを勧める」
「まあ。いきなりそう言われましても、わたしの一存で辞められませんわ。出戻りも二度目になれば父が泡を吹いて倒れそうですし、困りました」
「君はお父上が倒れても動じないだろう。とにかく、私も口添えするからここは早々に辞めるんだ」

 なんだかむかむかしてきた。
 もう関係のなくなった相手に、あれこれと口出しされるいわれはないはずである。

「遠矢様が、わたしを見たくないというお気持ちはよくわかりました。ええ、とてもよくわかりましたわ」

 にこやかにしながら、でも、と続ける。

「遠矢様には、わたしが親を悲しませても動じない不実な人間に見えていたのですね。わたしが、ある日突然納得のいく説明もなく離縁を申し渡されようと、動じない人間だと思っておられたのですね」

「いや、それは」

 貴行がたじろぎ、沙和ははっとして力を抜いた。
 彼はもう、過去の人である。

「嫌ですわ、栓なきことを申しました。どうぞお忘れくださいませ。……あら、女官長様のお声がしますわ。札をいただいてまいります」

 沙和は詰所を出る。貴行の表情は見えなかった。



 
 貴行に検査されたのだとはおくびにも出さず、沙和はあらためて女官長から身体検査を受けた。
 札を受け取るときになっても、貴行は姿を見せなかった。持ち場のほうに行ったのかもしれない。
 貴行の姿を目で探していると、帝宮へ向かいかけた女官長が思い出したように沙和の元へ戻ってきた。

「沙和さんは、遠矢様とはどういったご関係? あの遠矢様が、沙和さんには……ねぇ、ご様子が違うじゃない」
「そうでしょうか? そんなことはないと思いますけれど、あるとしたら、遠矢様は……」

 と微笑みかけて沙和は言葉を切る。貴行の態度を思い返す。初めて出会ったかのような態度と、名前で呼ばれるのを嫌う顔。極めつけは沙和の辞職を求める言葉。
 貴行は、沙和との関係が知られるのを望まないに違いない。

「きっと宝物蔵の管理をする女官を珍しく思われているのですわ」
「なあんだ、そういうこと? 考えてみれば、あの遠矢様が、特定のかたを贔屓になさるはずがないものねぇ。ようございましたわ」

 女官長はほっと安堵した顔で、貴行について語る。
 端正な美貌の持ち主で帝や東宮の信頼も厚いため、女官たちの目の肥やしになっていること。
 そのくせ、本人に浮いた話がひとつもないこと。
 一部の若い女官たちのあいだでは、東宮となさぬ仲ではという噂すら持ち上がるほどだということ。

「沙和さんはもういい歳だから問題ないとは思うけれど、遠矢様にお近づきになろうだなどとは思わないようにね」

 つまり、貴行は皆が遠目に愛でる存在であり、抜け駆けは許されないと釘を刺されているらしい。
 沙和はにっこりと微笑んだ。

「あのかたとお近づきになろうなんて、わたしが三歳若返ったとしてもお断りですわ」



 
 それからおよそひと月。
 貴行には口添えするとまで言われたので、ある日突然追い出されるかもしれない。沙和は内心ひやひやしていたが、今のところその気配はなさそうだった。
 しかし朝夕の立会いでも、貴行の態度は相変わらずだ。
 他愛ない会話はする。後宮の御池の脇に菖蒲(しょうぶ)が咲いたとか、衣替えの初日は焚きしめられた香の匂いが強くて辟易したとか。
 たいていの場合、話を切り出すのは沙和だ。貴行の返事には相変わらず棘があったが、もはや耳を撫でる風のようなもの。
 ただ、少し前から貴行から張りつめた空気を感じるのだけは気になっていた。
 目元には疲れも見えていたが、どうもそれだけが原因ではないように思える。なにかに怯えるような雰囲気さえあった。
 離縁までの短い期間にも、同様のことがあったと思い出す。

「今日から大祓(おおはらえ)の儀式が終わるまで、遠矢様はいらっしゃらないから。詰所では別の武官を呼ぶようにね」

 朝の身体検査を終えると、女官長が沙和に告げた。
 大祓とは、生きていくうちに溜まる穢れを祓い清めるための儀式だという。
 このところ、そわついた雰囲気が漂っていたのは、儀式が近いせいだったようだ。
 昨夕の立会いのとき、貴行からそんな話はひと言もなかったのだけれど。

「遠矢様はどちらへ?」
「あの方は御影守ですから、潔斎(けっさい)のあいだお上についていらっしゃるのでしょう」
「東宮様付きの武官なのにですか?」

 そう、と女官長がうなずいた。

「遠矢家は代々、特別な術でお上をお守りする家系なの。お上の影があられる距離には危険を寄せつけないという意味で、御影守と呼ぶのですって」
「まあ、どんな術なんでしょう」
「沙和さん、遠矢様に興味をお持ちなの?」
「まああ。決してそんなことは。ええ、まったくございませんけれども」

 そのとき、急いた履(はきもの)の音とともに貴行が現れ、沙和たちは驚いて顔を上げた。

「今日はいらっしゃらないのではなかったのですか? 沙和さんには、ほかの武官に頼むよう言い含めていたところでしたの。遠矢様はご無理をなさってはいけませんよ」
「お気遣い感謝します、女官長。あなたにはいつも、頭が上がりませんね。しかし女官ひとりに立ち会う仕事もできないようでは、お上に顔向けできませんから。立会いがすみましたら、私も潔斎にまいります」

 貴行はごくていねいな口調で、女官長に礼を告げた。沙和に対する口調とは真逆だ。
 さっさと宝物蔵へ歩きだした貴行を、沙和は釈然としないまま早足で追う。

「遠矢様は、ほかのかたには皮肉をおっしゃらないのですね」
「君と違って、苛立たされることがないからな」
「まあ。それなのに、今日も来てくださったのですわね。御礼申し上げますわ」
「……そういうところが苛立たしい。大人しくしていてくれ」

 沙和は小走りで貴行に並び、ととのった横顔を見あげた。

「遠矢様、あの。もしかして、お疲れなのではありませんか?」

 やはり、貴行の顔色はどことなく悪い。苛立たしい、という直接的な言いかたも余裕がなさそうだった。

「それは私に早く帰れと言っているのか?」
「まあ、そんなこと……は否定しませんけれども。顔色がよくないので、心配したんですわ」
「君が、私を?」
「まあ。ほかに誰かいらっしゃるのでしたら、教えてくださいませ」

 ひねくれた反応ばかりの貴行に呆れ、沙和は宝物蔵に着くと鍵を開けながらぞんざいな返事をした。
 吐息に似たかすかな笑いが振ってきて、沙和は思わず顔を上げた。

「……受け取っておく」

 やわらかな声で告げられた言葉の意味に沙和が気づいたのは、貴行が帰ったあとだった。
 ——沙和からの心配を受け取る、と。
  



 女官長の言葉どおり、それ以降は朝夕の立会いは別の武官だった。貴行の上司で、東宮付きの武官長自ら立ち会ってくれるという。
 武官長はいかつい体格の、剣に頼らずとも拳だけで相手を倒しそうな男性だった。しかし話してみると意外にも接しやすい。

「遠矢が特別扱いをしている女官ってのは、君か。こらまた、おっとりした器量よしだな」
「まあ。特別愛想を悪くする相手という意味でしたら、そのようですわ」
「前言撤回、ただのおっとりじゃないな。胸にえらく太い芯があるとみた」

 立ち会いが終わると、作業開始だ。
 このところ、来たる儀式に備えた祭具の持ち出しで宝物局は大忙しである。
 各部署からひっきりなしに貸し出しの要請が来る。もうひとりの宝物蔵つき女官に教わりながらこなすうち、またたくまに日が過ぎた。
 ところが大祓の儀式前日の夕刻、時間どおりに宝物蔵を出た沙和は迎えの武官の姿が見当たらないのに首をひねった。
 武官の立会いの下で施錠することとなっているため、ひとりでは蔵を離れることもできない。沙和は半時間ほど武官を待ったが、来る気配もなかった。

(大祓の準備で、武官の皆様もお忙しいのかしら)

 貴行も本来なら沙和の立会いをする暇はなかったようだから、皆忙しくて宝物蔵のことなど忘れているのかもしれない。
 いったん施錠を行い、さらに二十分ほど待ってから、沙和は詰所に行くことにした。誰かいれば、連れてきて施錠の確認を頼めばいい。
 しかし詰所で声をかけても誰もいない。不用心だと思いつつ、武官のいそうな場所へ足を運ぶ。表宮へいけばさすがに誰かいるだろう。
 ところが、御在所のふたつの池のうち内池と呼ばれる池のほとりを通りがかったときだった。
 ただならぬ声を耳が拾い、沙和は足を止めた。
 池の中央に突き出た岩山には鷺(さぎ)が羽根を休めている。初夏らしい温い風が、額に張りついた前髪を払っていく。池の奥は松林になっているが、風の通りはよく、鬱蒼とした感じはない。むしろ清澄な気に満ちたような場所で、葉ずれの音以外は聞こえない——はずだけれど。

「う、う、あ、あぁ」

 背中がざわりとし、紗和は駆け出した。獣がのたうちまわる様子を思わせる呻き声は、池の近くから聞こえる。
 ふつうに通りがかるくらいではまず聞こえないほどかすかな声。
 それでも沙和にははっきりとわかった。
 聞き覚えがあったからだ。

(これは獣なんかじゃないわ)

 腋(わき)に嫌な汗が浮かぶ。ほとんど確信に近い強さで思う。これは貴行の声だ。
 思い出すのは夫婦になるより前、貴行が沙和の目の前で倒れ、悶え苦しんだときのこと。
 あのときの、心臓をつかまれた気分までよみがえる。
 動悸がいよいよ激しさを増したとき、沙和は松林に隠れるようひっそりと立つ小さな堂を見つけた。
 障子窓がひとつあるきりの土壁に、申し訳程度に檜皮(ひわだ)を葺(ふ)いた薄い屋根。御在所とは思えないほど質素だった。
 貴行の声はそこから聞こえてくる。喉を引き絞るような声だった。
 なにを考えるまもなく、沙和は引き戸を開け放った。
 中は手燭すらない暗闇だった。貴行は畳にうずくまり、背を丸めてのたうっていた。

「貴行様!」

 沙和は放り投げるようにして履を脱いだ。
 とっさのことで、昔のように名前を呼んだのにも気づかない。
 畳に上がり、喉元を押さえて呻く貴行のそばに膝をつく。貴行の昏い目が沙和をとらえる。
 とたん、沙和は思いがけなく強い力で押しやられ尻もちをついた。
 貴行が顔を歪め背を向ける。沙和は手をつき這うようにして貴行に近づいた。手に当たったものをとっさに胸元に仕舞う。邪魔だった。

「貴行様」
「来る、な……」

 貴行が荒い息を吐き、手で沙和を払おうとする。沙和は声を震わせた。

「では、人を呼びます! それまで少しだけ耐えてくださいませ」

 しかし立ちあがりかけた沙和の裾を、貴行が引いた。

「呼ぶな……初ではない、か……っ、う、あ、あ」

 額に脂汗をにじませ、貴行がすがるように言う。しかし途中から、獣じみた呻き声だけが漏れる。
 沙和はためらったが、初ではないならつまりこれは、昔とおなじ症状なのだ。
 沙和は呻き続ける貴行のそばに座り、彼の頭を膝上に乗せた。
 弱々しく抵抗する貴行の手を退け、片腕で彼の頭を抱え肩をさする。貴行の体には生気がなく、ぞくりとするほど冷たかった。
 沙和は額や頬、首、とぬくもりを分け与えるようにもう一方の手を押し当てる。

「体が冷えきってらっしゃいます。こんなところに籠もっていらしては、病になるのも当然ですわ」
「やめろ、誰が触れていいと言った……」

 貴行は沙和を撥ねつけた。しかし、声も視線も普段の様子からは想像もつかないほど弱々しい。
 沙和はかまわず貴行に触れ、さすり、あたため続ける。
 やがて、貴行の顔から苦悶の表情が消えていった。
 呼吸も落ち着いてきたらしい。
 沙和がよかったと胸を撫で下ろすと、伸びてきた手が額に置いていた沙和の手を取り払った。

「君は早く戻れ……仕事は終わったのか……?」
「まあ、まだそんなことをおっしゃるのですか? 呆れましたわ。戻るなら、遠矢様も一緒にですよ」
「すぐ戻らないと……君が職務を放棄していると女官長に報告するぞ、出ろ」

 脅しのつもりらしいが、そんな弱々しい声で言われてもなんの効果もない。
 まして貴行は苦悶が続いた反動か、今にも意識が途切れそうですらある。ひとりにしてはおけない。

「よけいなことは考えず、少し眠ってくださいな。わたしはここにおりますから」
「駄目だ。君は……」

 貴行の瞼が落ちる。

「君にこれ以上……俺を救わせたくない」
「それはどういう意味ですの? ……貴行様?」

 貴行は眠りに落ちたあとだった。




 二、三時間は経っていただろうか。貴行の容体が落ち着くまで、沙和は薄暗い堂で彼のそばにいた。
 また苦しむようなら人を呼ぶつもりだったけれど、さいわい貴行の呼吸はだいぶ楽になったようだ。深く寝入る姿は安らいでいた。
 その後、貴行が目を覚ますのとほぼ同時に武官長がやってきて、あとを引き取ってくれた。
 手慣れた様子の武官長に尋ねたいことは山ほどあったが、まずは貴行が先だ。沙和はなにも聞けないまま帰ってきたのだった。
 女官長には、遅い戻りをしこたま怒られた。
 罰として、沙和は全員が入浴したあとの風呂場をひとりで清掃するはめになり、夜遅く自分の房に戻った。
 あ、と口をついたのは、就寝の支度をしていたときだ。帯を解いた拍子に、畳になにかが落ちた。かんざしだった。

(貴……遠矢様の元に駆け寄ったとき)

 手に触れたものを、とっさに胸元へ仕舞ったのだ。沙和のものではない。

(明日にでも、お返ししなくちゃね。盗んだのかと、難癖つけられても困るもの)

 かんざしを拾いあげた沙和は、信じられない思いで目を見開いた。

「どうして、これが」

 七宝で白や薄紅色の撫子の花をあしらった、可憐で愛らしい、それでいて凛とした芯も感じるかんざし。
 求婚の際に贈られ、離縁のときに沙和が貴行に返したものだった。



 
 日々、宮中では大小様々の儀式が行われる。
 しかし、ひとまず大祓という大きな儀式が無事に終わり、各部署にも平穏な日々が戻ってきていた。
 宝物局を含む、一部の部署を除いては。
 儀式から数日が経つが、沙和たちは祭具の返却対応か、はたまた破損や摩耗などの点検、修復対応などに追われていた。
 この日、沙和は紺地の布に包んだ冊子の束を抱え、図書(ずしょ)局から戻るところだった。
 夏の気配は宮中の随所で沙和を待ち構えており、少し歩くだけで汗がにじむ。紙の束は思いのほか重く、それが何冊もあるとなるとなおさらだ。中には仰々しく桐箱に収められたものもある。
 包みの結び目が解けてきたのも気になっていると、ひょいと包みを取りあげられた。

「一度に運べる量も把握できなかったのか?」
「まあ、遠矢様。助けてくださってありがとうございます」

 貴行が難しい顔で押し黙り、包みを手に早足で歩き出す。沙和が口元をほころばせて小走りで追いつくと、貴行は歩調をゆるめた。

「お加減はいかがですか? このところお見かけしませんでしたので、気になっておりました」
「くだらないことを気にする暇があるなら、宝物局に仕事を増やすよう言っておこう」
「まあ、お元気そうですね。顔色もよくなられたみたいで、安心しましたわ」

 ほっとした沙和は、あれ、と思った。いつもなら、貴行からさらに毒のひと吐きが来そうなものだけれども。

(どうされたのかしら。勢いがない?)

 先日の発作めいた症状が、まだ回復していないのだろうか。と、貴行がためらいがちに切り出した。

「君こそ……よくその態度でいられるな。あのようなものを見て、気味が悪かったはずだが」
「まあ。三年前、いえ求婚いただく前ですから四年前でしたわね。あのときと、お返事は変わりませんわ。心配のほうが勝ちましたので、そんなふうに考える余裕もございませんでした」

 求婚されるより前、貴行が倒れたのを介抱したときも似たことを言われた。
 そのときは皮肉めいた口調はなく、気味悪がらせたことを謝罪されたのだけれども。

(このやりとり、懐かしいわ)

 今もあのときと同様、沙和の返事を聞いた貴行は驚きと困惑がないまぜになった様子で顔を歪めている。
 だけどそこには、かすかな苛立ちもまじっているように見える。
 それゆえに気がかりだった。

「あの症状、今も続いてらっしゃるのですね。お医者様にはかかられましたか?」

 貴行は返事を探すように押し黙り、しかし返事はせずに「ところで」と話を変えた。

「君はあのとき……堂の中で、なにか見かけなかったか?」
「なにかとは、遠矢様以外にですか? いえ、なにも……」

 答えたあとで、沙和ははたと思い出した。見かけたというか、拾ったものならある。あの、美しいかんざし。
 貴行に渡そうと思いつつ、どこまで尋ねてよいのか迷ううち渡しそびれていたのだ。
 沙和は胸元からかんざしを取り出しかけたとき、貴行を呼ぶ声がして沙和もふり返った。武官長だ。

「御二方、真昼間から逢瀬か? ほかの女官に見られたら、大騒ぎ間違いなしだぞ」

 にやにやと口の端を上げる武官長に、貴行がげんなりした顔をする。
 貴行が気安い態度を見せるのは珍しい。武官長とは、上官と部下という関係を超えた仲なのだろう。

「彼女の荷を運んでいただけですよ。放っておくと通行の邪魔になりそうでしたので」
「嫁の前だとひねくれてやがる。あ、元嫁か」
「まあ、武官長様もご存知でしたのね」

 貴行が自分の前ではひねくれている、とは面白くない。しかし沙和はその気分を顔には出さずにおいた。
 沙和たちの関係を知っているということは、やはり武官長と貴行は親しいようだ。

「やはりあんたがそうだったか。遠矢の秘められた一輪花さんよ」

 したり顔をした武官長が、だしぬけに沙和の肩を叩いた。

「きゃっ」
「っ、危ない」

 沙和がよろめくのを、貴行の手がすかさず腰を支えた。おかげで沙和は転ばずにすんだが、貴行に助けられたのが意外で胸がこそばゆい。
 と思ったのはつかのまで、貴行が反対の手で武官長の腕を捻りあげると、沙和はぎょっとした。

「よりによってお上の御在所で、女官に軽々しく触れないでいただきたい」
「目、目が怖いぞ遠矢。ほかの女官だったら視界にも入れないだろうが。落ち着け、まずは穏便に話し合おう」
「では彼女に謝罪を、武官長」

 貴行が目をさらに眇(すが)めると、武官長が降参を示すように両手を上げて沙和に向き直った。

「すまんかった。こんな器量よしの嫁を手放す遠矢のやつが、あまりに阿呆でつい」
「まあ、そこは同意いたしますわ。遠矢様は人を見る目がないのですもの」

 沙和の意趣返しにぎょっとした貴行が、気まずそうに手を離した。
 貴行が言い返してこないので、沙和は戸惑った。やりこめたいわけではなかったのに。

(わたしの中には、あの離縁がまだくすぶっているのだわ)

 沙和は無意識に女官服の上からかんざしを握りこんだ。

「ただ」
「ただ? なんかあったかい、元嫁」
「これはちょっと……いえ、大変困っております。どうしましょう」 

 沙和は武官長と貴行を交互に見てから、地面に目を落とす。
 結び目が解けた包みから、中の冊子が地面に散らばっていた。



 
 宮中の文書は、いうまでもなくどれもが貴重なもの。内容もさることながら、装丁だけでも相当の価値がある。
 それはたとえば所蔵品の目録を記した台帳であっても変わらない。普段から、虫の混入やカビには細心の注意を払っている。
 青い顔で冊子を拾い集め頭を繰り返し下げる武官長と貴行をとりなし、沙和はなんとか冊子を厳重に包み直して宝物蔵に持ち帰ったのだった。
 ちなみに冊子はいずれも、宮中の文書類を管理する図書局から借り受けたものである。
 大祓の儀式で持ち出された宝物蔵の祭具類の詳細を、図書局所管の関連する文書にも記してはどうかと申し出たところ、逆に宝物局で書き記すようにと台帳を渡されたのだ。
 だから本来ならば、大祓に関連する箇所だけを確認すればよかったのだが。

「念のため、すべての頁を確認するべきだね。砂埃が入った可能性もある」

 沙和がおなじ宝物局の女官である恭子(きょうこ)に顛末を報告すると、ぴしりと指摘された。
 恭子は沙和より年下の十七歳だが、出仕した時期でいうと先輩である。しかも、宝物蔵の所蔵品なら隅から隅まで覚えているというから驚きだ。
 いつもは気配を消し黙々と作業している彼女だが、話すと意外にも凛々しい。
 手伝おうかという申し出を大した作業ではないからと断り、沙和は作業台にさっそく冊子を広げた。埃を刷毛で慎重に払っていく。
 しかし、そのうちの宮中祭祀に関する一冊の中ほどに差し掛かったときだった。

(穢れと……御影守?)

 沙和は思わず頁を繰る手を止めた。
 帝が穢れを祓うのは、宮中祭祀としては重要かつありふれた儀式でもある。先日の大祓がいい例だ。
 だけど、それと御影守——貴行がなぜ関係あるのか。
 沙和は無意識に胸元からかんざしを取り出し、握りしめた。読み進めるにつれ、自分の顔が青ざめていく。

「沙和さん、手を止めないで。作業は山積みだよ」

 はっと顔を上げると、いつのまにか恭子がすぐ横に立っている。

「すみません。関係のない冊子がまじっていたようです。……恭子さん? なにか」
「ああいや、なんでもない」

 恭子は沙和の手元から目を逸らす。沙和はかんざしを握ったままなのを思い出して胸元に仕舞うと、冊子を閉じて腰を上げた。

「これから、図書局に返してまいりますわ」
「どれ、私も確認しよう」

 恭子の手が伸びてくるのを、沙和は内心焦りつつやんわりと断った。

「いえ、明らかに別物でしたわ。返すのは早いに越したことはないと思いますので、行ってまいります」

 沙和は冊子を慎重に布で包むと、そそくさと宝物蔵をあとにした。



 
 胸に抱えるようにして冊子を持ち出した沙和は、図書局のあるほうへ向かいながら思案した。
 図書局に返してくるとは言ったが、まだ御影守に関する記述をきちんと読み終えていないうちに、返すわけにはいかない。

(貴行様のなさっていることを知りたい)

 一方的に離縁を告げられ、沙和は貴行に抱いていた感情をすべて胸の奥底に沈めて蓋をした。
 再会した彼は沙和への態度をさらに硬化させていたから、沙和も封じた感情をそのまま沈めておくのは難しくなかった。だから知ろうともしなかった。
 それが変わったのは、貴行の小さな笑いを耳にしたときからだ。飾らない笑い声。
 あのとき、かすかに昔の——求婚前の面影を感じたのだ。
 沙和は包みを片手で抱え直し、胸元からかんざしを取り出す。

(そうだわ)

 沙和はふと思いついて横道に逸れた。内池の向こうの、貴行が倒れていた堂に足を踏み入れる。
 堂は相変わらず薄暗く、ひんやりとしていた。あのときは気づかなかったけれど、すえたような異臭がわずかに鼻をつく。
 ここでひとり悶絶していた貴行を思い出す。胸がぎゅっと締めつけられるのをこらえ、沙和は中央に腰を下ろして包みを解いた。
 膝に置いた書物を手繰っていく。

(思えば、最初から不自然だったわ)

 結婚前も、結婚後も、貴行は一度も自身の職について語らなかった。沙和が水を向けても「お上にお仕えしている」と言うだけだった。
 宮中に上がってからも、御影守という役職は女官長から一度聞いたに過ぎない。しかもそれについて貴行に尋ねても返事はなかった。
 沙和は、御影守について書かれた箇所をふたたび慎重に読み進める。
 その手はしだいに震え始め、唇からは血の気が失われていった。
 文書には簡単にいうと、次のように書かれていた。

 ——帝は、穢れを祓う祭祀を司る者である。
 しかし帝だけでは穢れを祓うことはできず、別の者が必要である。
 その者は、穢れを己の身のうちに封じて事をなす。
 ゆえにその血脈は決して絶やすことなく、帝のためにあり続けなければならない。
 その存在を「御影守」と呼ぶ。




 気がつけば沙和は包みを抱えて松林をさまよい、内池の脇に植えこまれた躑躅(つつじ)の低木のそばに膝をついていた。

「図書局の皆様は、こんな重要文書を軽率に渡してはいけないと思いますわ」

 沙和はつとめて明るくつぶやいたが、声は震えていた。
 ようやく貴行の態度の一端が腑に落ちた。
 役目について話せば、帝には穢れを祓えないという事実にどこからたどり着かれるかわからない。
 貴行にできた最善は、口をつぐむことに違いなかった。

「それにしたって、貴行様も水臭いわ。一時はわたし、あなたの妻でしたのに」

 女官長をはじめ宮中の人々は、帝の御影を守ることをすなわち護衛だと思っている。はるか昔から、そのように流布されてきたのだろう。

(でも貴行様は、ご自身の体に穢れを……)

 沙和は堂をふり返った。貴行があの中でひとり悶え、のたうっていたのは大祓直前の出来事だ。沙和にはあれが無関係とは思えなかった。
 もしもあれが、穢れをその身に封じた結果なら。

(穢れを封じるたび、貴行様はひとりであのように苦しむの?)

 胸が軋んで、かすかな身じろぎにも嫌な音を立てる。
 だけど知ったところで、どうなるというのだろう。
 沙和は、貴行にとってはけっきょくのところ可もなく不可もない、という程度の妻だったのだと思う。まして、初夜にしてお役御免を言い渡された身でもある。再会後にいたっては、煙たがられてさえいるほどだ。
 沙和が思わず、植え込みの陰で胸元を押さえたときだった。
 人の気配がして顔を上げると、貴行が辺りをうかがうようにしてこちらへやってくるところだった。沙和はとっさに頭を引っこめた。
 植え込みの隙間からそっとうかがう。少し歩いては視線をめぐらせる様子から、貴行は探し物をしているようだった。
 と、そこに武官長がやってきた。これではますます出ていけない。沙和は息をひそめた。

「また探してんのか。そこは前にも探したんだろ?」
「そうですが、見落としがあるかもしれないと思いまして。大祓のときからなかったので、落とすならこの辺りしかありません」

 植え込みの陰からでは、ふたりの表情は見えない。しかし耳をそばだてていた沙和は、あっ、とかんざしを取り出した。

「あれからもう何日経ったとないなら、誰かがとっくに拾ってんだろうよ。もう何日経ったと思ってるんだ。諦めるこった」
「武官長は相変わらず容赦がない……私の元にはもう、あれしか残っていないのに」

 諦めながらなにかを乞うているような、切なそうな声だった。
 手の中のかんざしが、急になにか重大な意味を持ったものに思えてくる。沙和は動悸がする胸を押さえ、植え込みから顔を上げた。
 貴行の表情は、堂の中で沙和を突き放したときとおなじだった。むき出しの感情が宿っていた。
 さらに言えば、初夜のときともおなじだったのだ。

(そうよ。わたしは、あの顔を知っていたのに)

 たった一日、ほんとうの意味で貴行の妻だったあの夜。
 貴行は冷たく離縁を申し出ながら、切実な光を目に宿して沙和を見つめていたのだ。
 まるで、沙和を乞うように。



 
 貴行たちがひととおり探して去っても、沙和は放心していた。
 さきほどの貴行の表情が、頭から離れない。

(三年前のわたしが見逃したものがあった?)

 考えても答えは見つからない。
 わかっているのは、かんざしを返すことと、胸にくすぶり続けていた気持ちを解放したいということだけだ。

(貴行様は、あのときなにを考えていらっしゃったの)

 沙和はたまらず貴行を追いかけようとした。
 と、表宮の方向から女官長が険しい顔でやってくる。後方には宮中警察の者もふたり、控えていた。物々しい雰囲気だ。
 沙和がけげんに思うまもなく、警官のひとりが前に進み出た。

「葛木女官ですね。宝物蔵の収蔵品を窃盗したかどで連行します」



 
 あれよあれよというまだった。
 沙和は宮中警察の警備所に連れていかれ、別室で警官の監視の下、女官長によって身体検査を受けさせられた。

「女官長様、信じてください。わたしは収蔵品を盗んでおりませんわ」
「そうね、私にもなんのことだかさっぱり。ただ、警官によると、あなたが収蔵品をくすねるのを見たと言う女官がいるそうよ」
「まあ。わたしがしてもいないことを見たとおっしゃるの? それは妙ではありませんか」

 なぜ疑われているのかすら不明だった。沙和は検査のあいだも無実を訴え続けたが、女官服の胸元も入念に確認されていく。やましいところはなく、沙和は例のかんざしを取り出してみせた。
 とたん沙和は警官に別室から出された。警備所の玄関ホールまで引っ立てられる。
 石造りの床に、履の音が冷たく響く。華族の屋敷ほどもある玄関ホールには、いつのまにか女官たちが集まっていた。
 警官はその集まりに沙和を突き出すと、沙和が握りしめていたかんざしを取りあげて全員に見えるようにした。

「葛木(かつらぎ)女官の検査をしたところ、このかんざしが見つかった。盗品に相違ないか」

 ひとりの女官が勝気な声を張りあげた。

「それだよ! そのかんざしは宝物蔵のものだ。妙にいそいそと隠していたから、おかしいと思ったんだ」
「恭子さん」

 仰天して沙和が目をみはるのと、恭子が女官の集団をかき分けて沙和の前まで進み出るのは同時だった。恭子は警官が手にしていたかんざしを受け取り、しげしげと見つめる。

「やっぱりそうだよ、東宮殿下に献上された装飾品のひとつだ。なぜ女性の装飾品が東宮殿下に献上されたのか、ふしぎに思ったから覚えている」
「でも、これは違います」

 沙和は否定したが、所蔵品に詳しい恭子の言葉だからだろう。女官たちは沙和へ疑惑の目を向ける。目撃証言も恭子がしたのだろう。

「誓って申しあげますが、これは献上品ではございませんわ。落とし物を拾ったのです」
「よくそんなお粗末な言い逃れを堂々と言えるものだ。窃盗および虚偽の申し立てにより、六年の重禁錮および女官の身分剥奪だ」
「ほんとうに盗んでおりません。献上品は宝物蔵にあるはずです、どうぞお調べください!」

 辺りは蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
 驚きと好奇の目、蔑みや困惑。そして沙和を擁護し心配する声。どれも沙和の耳を上滑りしていく。禁錮刑など、とうてい受け入れられるはずもない。
 しかし訴えもむなしく後ろ手へ縄をかけられ、沙和は顔色を失った。必死でかぶりを振るが、両脇を警官に固められる。どこに連れていかれるのか――と愕然としたときだった。

「お待ちください。そのかんざしは私が彼女に贈ったものです。彼女を離してください」
「た……遠矢様!」 

 足音も荒々しく警備所に踏みこんできたのは、貴行だった。
 誰もが驚きで言葉を失った。貴行はつかつかと間を詰めるなり、警官を引き離す。
 われに返った警官が警棒を握ったときには、すでに沙和の縄は貴行の剣によって斬られていた。またたくまの出来事だった。

「遠矢武官、問答無用で力を行使するやり方はいかがなものか」
「その言葉、そっくり貴殿らにお返しする。誤認逮捕も甚だしい。宮中警察の了見を疑う」

 貴行が沙和の肩を引き寄せる。
 まだ事態がのみこめずにいる沙和に、貴行が呆れた声で耳打ちした。

「しっかりしろ。君に冤罪を被る趣味があるとは初耳だ」
「まあ。……大変珍しい趣味ですけど、わたしも美術品を愛でる趣味だけで手一杯ですわ」

 相変わらずの皮肉に、沙和はなぜかほっとした。縄をかけられた恐怖から解放され、ようやく落ち着きが戻ってくる。
 しかし「遠矢武官」と威圧感のこもった声がホールを打った。
 いつのまに応援を呼んだのか、沙和たちや女官も含め警官に取り囲まれていた。 

「貴殿がそこの女官と結託している可能性もある。これが真に貴殿から女官への贈りものだというのであれば、確たる証拠を見せよ」

 女官から妙に甲高い悲鳴が上がった。浮ついた噂のない貴行が、沙和にかんざしを贈ったというのだ。
 彼女らが騒ぎだすのも無理はなかったが、沙和はたまったものではない。女官たちの敵意のこもった視線が飛んでくるのである。
 しかし貴行は女官たちの動揺など気にも留めず、恭子の手のかんざしを見やった。

「君、かんざしを早く葛木女官に返すんだ」
「これは献上品だよ。献上されたとき私が台帳に記したんだ、間違いのあるはずがない」
「いいから早く返せ。さもないと、そろそろ……」
「さもないと? ――きゃああああ」

 黒々とした炎が、恭子の手から勢いよく上がった。いや違う、かんざしからだ。
 かんざしが燃えていた。それも、およそこの世に存在する色の炎ではない。
 まるで、どろりとした粘液が広がるように、影よりも濃い色をした炎が恭子の腕を包んでいた。
 屋内なのに風が起こり、獣の咆哮じみた音がする。
 女官たちが一転して、今度は恐怖から悲鳴を上げて逃げ回った。

(いったいこれは、なに)

 恭子がその場に膝をつき、黒い炎の塊と化した腕を床に繰り返し打ちつける。炎は消えず、恭子はさらにその場を転がり暴れ回った。

「離れない! ねえこれ離れないよ、誰か助けて! 熱いよ、助けて……!」
「恭子さん」

 美しいかんざしから、さらに炎が噴き出す。蛇が鎌首をもたげるように、炎が床から這い上ってくる。ただの炎ではなかった。
 本能的な恐怖がせり上がり、沙和は両肩を抱いた。しかし、あとずさりそうになるのを沙和はとっさに踏みとどまった。なぜそうしたのか、自分でも説明がつかなかったが。
 震える足を叱咤し、沙和は恭子を助けようと一歩前に出る。
 しかし貴行が沙和を押しとどめ、代わりに恭子のそばに膝をついた。貴行は、沙和が止めるまもなく炎に包まれた彼女の腕をつかんだ。

「貴行様!?」

 カラン、という音を立てて、かんざしが恭子の手から落ちた。
 とたん、どす黒く恭子の腕を舐めていた炎が跡形もなく消え去った。
 ホールが静まり返る。
 誰もが声を失う中、かんざしは今しがたの出来事が嘘のように美しい輝きを放っていた。
 貴行だけが平然とかんざしを拾いあげた。

「だから早く返せと言ったんだ。これには私の力をこめてある。一定の時間を超えて穢れに触れれば、このようなことになる」

 沙和が貴行の前に進み出ると、彼は一瞬だけ強烈で切実な感情を目にひらめかせて沙和を見つめた。しかしその光はすぐに消え去った。
 貴行は呆然自失していた警官に向かって言った。

「かつて私は東宮殿下に所望され、これとおなじかんざしを献上した。ゆえにおなじものを東宮殿下もお持ちだ。疑うなら東宮殿下にお尋ねなさればよい」

 だがひとつ付け加えておく、と貴行は続けた。

「私の力を込めてあるのは、こちらだけだ」

 貴行は説明を終えると、今しがたの出来事に時が止まったような女官たちを横切り警備所を出ていった。
 沙和のほうを、見ることもなく。




 恭子の右手は、打ちつけたために赤く腫れた箇所があったが、ほかに傷は見られなかった。しかし彼女は、炎が消えてからもあらぬ方向を見てはうわごとを繰り返した。
 沙和は女官長たちとともに、彼女を房まで連れ帰った。あとで医師が診にきてくれる手筈となっている。
 沙和はお咎めなしとなった。一方、虚偽証言をした恭子には追って処罰がなされるという。

「恭子さんは宝物局の仕事に自負を持っているわ。だからこそ、自分の立てた推測が正しいと思いこんでしまったのでしょうね」

 女官長が、布団で深く眠る恭子を心配そうに見やる。恭子は布団に入ってからもうわごとを繰り返しており、夕餉どきになってようやく眠りについたのだ。
 沙和は反対側で恭子を見守りながらも、複雑な気分だった。恭子に信じてもらえなかったのが、胸に影を残している。

(貴行様が来てくださらなかったら)

 沙和は釈明の余地も与えられないまま縄をかけられ、牢に入れられていただろう。

「それにしても、遠矢様のあのお力……気味が悪かったわね」
「いいえ。わたしは、あのお力に守っていただきました。わたしのほかにも、あのお力に守られているかたは多いはずですわ」

 御影守のほんとうの役目を言いかけてのみこみ、沙和は腰を上げた。
 あの炎によって、沙和の無実が示された。しかし守られたのは、そのことだけではない。貴行が人知れずその身に引き受けてきた穢れの中には、沙和や女官長たちのものもあったかもしれないのだ。

「あのお力は、尊いものですわ」
「沙和さんは普段おっとりしているのに、ときどきずいぶんと毅然とするのね」

 驚いたふうに見あげる女官長に小さく会釈だけして、沙和は「失礼します」と房をあとにした。



 
 外に出て気づいたときには、走り出していた。 
 砂利に足が取られ、女官服は足にまとわりつき、何度も転びそうになりながら、日の落ちた外で貴行を探す。
 沙和がこのかんざしを持ち歩いていたあいだ、炎は一度も出なかった。
 何度も触れ、ときにはじっと眺めてもいた。それでも炎は出なかった。
 つまり答えはずっとそこにあったのだ。

「貴行様! 貴行様……!」

 武官の詰め所の近くでようやく貴行の背中を見つけた沙和は、息を切らして貴行に追いついた。
 貴行が足を止めてふり返る。その手にはまだかんざしが握られていた。

「いつ君に名前を呼んでいいと言ったか、記憶がないのだが」
「まあ。わたしはいつあなたに名前を呼ばれてもかまいませんわ」
「〜〜君という女性は、なにを言っても響いている気がしない」

 貴行が額に手を当てて呆れる。
 沙和は微笑み、貴行に向かって手を出した。

「さきほどの熱烈な告白は、響きましたわ」
「君の耳は、ただの事実説明を浮ついた言葉に変換するようにできているらしい」

 貴行が話は終わりだと言わんばかりに歩き出す。沙和は手を引っ込めてついていく。

「事実。つまり、わたしを守ってくださっていたのでしょう? それをくださったときから。わたしが返さなければ、今でもずっと守ってくださるおつもりで」

「君の勝手な解釈を、私に強要しないでくれ。あの力は、人目にさらすものではなかった。おぞましいだけのものだ」
「いいえ、守ってくださいました。貴行様はあれを皆さんに見せることで、わたしの無実を証明してくださったでしょう。おぞましいものなどとおっしゃらないで」

 貴行なら、力ずくで恭子からかんざしを取り戻すこともできただろう。
 しかし、貴行はそうしなかった。黒い炎をあえて見せるほうを選んだ。
 そのほうが、言葉によるどんな説明よりも早く確実に、沙和を守れるから。
 おぞましいと——気味が悪いと思われることすら、覚悟した上で。

「あれは、穢れを貴行様自身の中に封じる力とおなじものですよね?」

 貴行がぎょっとしてふたたび足を止めた。なぜ知ったのかという疑問が珍しく顔に出ている。
 沙和が説明すると、貴行が観念したようにため息をついた。

「君は宮中に上がるべきではなかった。……俺を見るべきではなかったんだ」

 貴行は自分を「俺」と言った。その懐かしい響きに、これが貴行の本音だと誰に言われずとも察せられた。
 かつては沙和の前で飾らずに見せてくれた、再会してからは隠されていた、ほんとうの気持ち。

(貴行様は、わたしに……御自分の姿を見せたくなかったのだわ)

 沙和はふたたび手を出した。
 貴行がけげんそうにする。しかしあのように全力で守られたあとでは、どんな顔をされても平気だった。
 沙和はくすりと笑い「そのかんざし」と切り出した。

「誰かに差しあげる予定がなければ、もう一度わたしにいただけませんか?」
「断る」
「でも、貴行様が持ち歩いてもしようがないでしょう」
「君だって、もはやつけたいものではないだろう。かんざしにこの力をこめるなど、愚かなことをした」
「ではもう、守ってくださらない?」

 表面上はおどけたふうに、でも沙和は勇気を出したつもりだった。
 貴行はかんざしを握りしめたまま、沙和から目を逸らす。どんな感情がその目に宿ったのか、沙和には見えない。
 もう一度、目が合うのを沙和は祈る思いで待つ。だが、時間はやけにゆっくりとふたりのあいだで過ぎていく。
 沙和は手を引っこめた。

「……失礼しましたわ。今日は、ほんとうにありがとうございました。それから、かんざしを拾ってすぐお返ししなかったことをお詫びしますわ。では、おやすみなさいませ」

 房へ戻ろうと、沙和は会釈して背を向けた。
 その袖が、くっとうしろに引かれた。
 ふり向けば、貴行が困ったような、怒ったような、なんともいえない顔で沙和を見ていた。

「俺が君を守れればどんなによかったかと、情けない気持ちだった」
「貴行様……?」
「守れないのなら、手放すしかなかった。君が誰かに守られて、幸せになればいいと思った。……だが」

 貴行の目に、またいつか見た切実な光が灯る。沙和は息をのんだ。

「この身を厭わしく思いながら、君のそばにいることを……願わずにいられない」
「貴行様」

 力なく貴行の手が袖から離れるのを、沙和は思わずつかんだ。そのときだった。
 沙和の手の先から、花びらが舞いあがった。白く、雪片のように儚い花びらがはらはらと舞う。

「……!」

 それらは沙和の目の前で貴行の手を包む。声もなく見守る沙和の前で、やがて貴行の手に溶けていった。

「あの炎を見たあとだから、君にも見えるようになったのか」
「え? あの、今のは……」

 言葉もなく見入る沙和に、貴行がとめどなく優しさをたたえた目で手を離した。

「君には、御影守が封じた穢れを払う力があるんだ。俺はその力を欲さずにはいられない。君には、俺の搾取から逃れてほしかった」

 沙和は貴行の詰襟の制服の袖に手を伸ばした。かすかに避けようとする貴行を安心させようと、服越しに腕に触れる。
 貴行がびくりと体を強張らせた。

「君の力を俺が搾取すれば、君は子を産めなくなる」
「だから、なにも言わずにわたしを遠ざけられたのですか。わたしを……」

 沙和は一歩、間合いを詰めた。ほとんど貴行と触れそうな距離。
 貴行はまた体を強張らせたが、もう離れようとはしなかった。飾らない気持ちを、そのまま渡すように手を伸ばす。

「すまない」と小さな謝罪が聞こえる。
「君を愛してしまって」

 そのときにはもう、沙和は遠慮がちで優しい抱擁にからめ取られたあとだった。