香りは愛を隠せない―月見草の香る後宮で―



第二章

「涼風、早くこっちを手伝って」
「はい、すぐに」
 涼風は医官の後ろを荷物を持って必死についていく。立派な廊下をばたばたと走るわけにはいかず、涼風はできる限りの優雅さを保ちながら追い掛ける。
 立派な朱色の建物、御簾の豪華な飾り紐は風で揺れていたのが印象に残っている。はじめてここに来た時はその豪華さに身がすくんだ。田舎育ちの涼風にとってはそのきらびやかさは、恐怖を覚えるようなものだった。
 ここにきて半年、やっと慣れて本来の仕事に集中できるようになった。
 女官に案内されてやってきたのは、この国のお妃様のひとりだ。
 ここ最近体調不良が続き、医官が呼び出されたのだ。
 顔色を確認し、脈診をする。その間体調の悪いはずの妃は期待の籠ったまなざしで医官の様子を伺っていた。
「どうですか? 懐妊の兆しはありますか?」
 必死なその様子に、医官は困った顔をする。その様子を見てそこにいる全員が診断の結果を悟った。だが本人は諦めきれないようだ。
「残念ながら……」
「そんなはずないわっ、だって月の者も遅れているし。昨日からずっと吐き気がするもの」
 医官は首を振るばかり。側仕えたちも残念そうに肩を落としている。
「そんな、嘘よ。ねぇ、あなたも脈診ができるのでしょう? 診てくれない?」
「い、いえ。私は……」
 玄秋から医術についても教えてもらっていた。女性の医官はこの国にいないから、将来身を助けるだろうという考えからだった。
 その考えが見事に的中して、今こうやって出仕している。
 涼風は診察を断った。それをする立場にないからだ。
 それに……妊娠していないことは匂いからしてわかりきっていた。
 期待している人にそれを告げるのはしのびない。
「いいから、診なさい」
 命令されると断れない。一応医官の方を見ると、どうしようもなかったのだろう、疲れ切った様子で頷いた。
 涼風は妃の腕を取り脈を診る。
 体が少し弱っているのか少し乱れている。だがけして妊娠の脈ではない。おそらく今回のこの症状は月経前の不調によるものだろう。
「数日後に月のものがくるでしょう」
 その言葉を聞いた妃が、声を上げて泣き出した。
「お、お妃様。あの……月のものがきちんとくるのは懐妊するために大切なことなのです。気持ちを前向きに持てばやがて健やかな御子を授かるはずです」
 そう告げると、涙をぬぐってこちらを見た。
「本当に?」
「はい。ですから体を冷やさず養生してください」
 必ず授かるとはいえない。だが悲観的になる必要はない。
 涼風の言葉に涙をぬぐって妃はなんとか落ち着いたようだ。
 医官と妃の前を辞する。
 しばらく歩いて渡殿を渡った後に、やっと口を開いた。
「医官殿、ちょっとよろしいでしょうか?」
「ん? どうかした?」
「変じゃなかったですか? あの部屋で炊かれていた香」
「そうか?」
 医官は気が付いていないようだが、涼風は部屋に入ってすぐに気がついた。
「わずかながら麝香が香りました。どれいくらい女性の体に影響があるかどうかわからないのですが取り除いたほうがいいです」
「麝香?」
 どうやらそのあたりの認識をあらためたほうがよさそうだ。
「後宮で使用するものに関して、もう一度点検した方がよさそうです」
「わかった、伝えておこう。しかしお前は変ったことに気が付くな」
「そうでしょうか?」
 思い当たるふしがなくて首をかしげた。
「そうだろ、穀物が痛んでいるのをみつけたのもお前だろう?」
「あぁ、それは近くを通た時にですねたまたまです」
 あれは穀物を保存している倉庫の近くを通ったときだった。つーんと鼻につく匂いが漂ってきたのだ。場所はすぐにわかり担当のものに指摘したが、なかなか信じてもらえなかった。
 だが日に日に匂いがきつくなる。これでは倉庫の中身が全部だめになってしまうと思い、毎日しつこく調べてほしいと伝えた。
 五日間訴えかけて、やっとしぶしぶ調べてくれた。すると倉庫の奥からカビの生えた穀物がでてきたのだ。
 幸い被害はそこまで大きくなかった。御膳場の者には大変感謝され、特別にとなつめの砂糖菓子と椿餅をもらい同じ部屋で寝起きする子たちと分け合って食べた。
「たまたまか。まぁ何でもいいけどな。私はお前のその能力を高く評価しているからな。ことに後宮にいたっては同性のお前がいてくれると妃たちの気持ちが幾分やわらぐようだ」
 医官は小さなため息をついた。この後宮において妃たちの懐妊ほど神経を使うものはない。
 この国の後宮において、最初に皇子を出産した妃が皇后となるのだ。
 実家の期待を背負って入宮した妃たちにとっては、皇子を産めるかどうかで人生が大きく変わっていく。
 後宮で順調に生活するためには、実家の後ろ盾が必要だ。それがなければこの厳しい女の園で生きていくのは厳しい。
 現在の天皇の元には今は皇女様しかいない。だからこそ必死になってみんな皇子を望んでいるのだ。
 現在の東宮は天皇の甥である煌月(こうげつ)がつとめている。なかなか皇子が誕生しないので、呼び寄せられたそうだ。
 ほぼ後宮にいる涼風は内裏をうろつくことはめったにない。いつもいるのは医官や薬師たちがいる典薬寮(てんやくりょう)ぐらいだ。普段はそこで治療にあたったり薬の管理をしたり下働きと一緒に洗濯や掃除をしている。
 医官と一緒に典薬寮に戻ると早速仕事を言いつけられた。
「おい、お前。薬の補充と洗濯をしておけ」
「はい」
 断るなんてことはもちろんできない。涼風はここで一番下っ端だ。誰に何を言われても 「はい」と答える以外ない。
 幸い今日は天気がいい。先に洗濯をしたほうがいいだろう。
 汚れものが入った籠を手に、典薬寮の裏側にある洗濯場に向かう。感染対策から内裏から出る洗濯物とは別の洗い場が作られている。近くにあって便利だから洗濯もそこまで苦ではない。
 むしろ女性たちのおしゃべりの輪の中に入って行けるので少し楽しみでもある。
 涼風が洗濯場に到着したところ、すでに何人かが仕事をしていた。
「すずちゃん、今日は遅かったね」
「うん。ちょっと別の仕事していたから」
 タスキをかけて井戸から水を汲み、さっそく洗濯にとりかかる。だんだん水が冷たくなくなってきた。もう少ししたら洗濯がつらい時期になるだろう。
「涼風、もう少ししたら手荒れのお薬作ってくれない?」
「うん、医官様に余った材料を分けてもらえるか聞いてみるね」
 本来は許されるものではないが、優しい医官がめこぼししてくれる。昨年作った手荒れの薬はみんな重宝してくれた。
 みんな必死に手を動かしながらも、噂話に花が咲く。
「この間やっと、東宮様を拝見することができたの!」
 侍女が東宮について少々興奮気味に話をしている。頬が赤いのは気のせいではないはずだ。
「なんだかもう、この世の者とは思えなかった。あやかしよ、あやかし」
「そんなおおげさな」
 さすがに言いすぎだろうと思ったが、侍女の顔は本気だ。
「そんなにすごいんだ」
 ちょっと興味が出てきた。だが、できれば偉い人にはあまり近付きたくない。千草さんに礼儀作法を習ったけれど、それでも何が失礼になるかわからない。
「後宮のお妃様たちなんて目じゃないんだから」
「ちょっと、それ不敬だから」
 涼風はひと差し指を口元にあてて静かにするようにと伝える。あわてて確認した周囲に人がいなくてよかった。
「でも美しいせいか誰も近寄れないみたい。本人も氷のように冷たいらしいの。縁談も片っ端から断わっているらしいわ」
 孤高の存在なのだろうかと想像する。そこでおしゃべりな侍女がわずかに声を潜めた。

「でもね、東宮様って……ダメらしいの」
「ダメって何が?」
 侍女が涼風を手招きした。屈んだままじりじりと近寄って内緒話ができる距離になる。
「実は男性が好きらしいの。噂ではいつも近くにいる護衛と怪しいって」
「ひっ……まさか」
 その手の話には疎い涼風だったが、入宮後はあちこちからいろんな話が耳にはいってくるようになった。
 しかし……まさか東宮様が。
 このまま現在の天皇に皇子が生まれなければ、現在の東宮、煌月が即位することになる。そうばればまた直径の子孫が絶えることになってしまう。
 そりゃ天皇も后たちも必死になって、皇子を授かりたいとやっきになるわけだ。
 妙に納得してしまった。
「残念よね。あんなに素敵なのに。東宮妃候補たちも片っ端から断わっているらしいよ」
 天王に直径の皇子が生まれれば、廃されることが決まっているので入宮したがらないのかと思っていたが、実際のところは東宮側が断っているとは。
 朝廷の有力な家と親戚になっていれば何かあったときに味方になってくれるとおもうのだろうけれど……。
 まぁ、私が考えても仕方ないか。
 思考に集中力を奪われていて洗濯物を踏んでいる足が止まっていた。こんなことでは薬の補充が終わらずに叱られてしまそうだ。
 じゃぶじゃぶと音をたてながら、洗濯ものを踏む。
 綺麗になったようなので、すすいで絞る。
 できあがった洗濯物を干す前に、乾いたものを先に取り込む。
 まっさらになったさらしや包帯を見ているとすっきりした気持ちになる。
 そのときいたずらな風が吹いて、さらしをさらっていった。風に乗った晒は、そのまま近くの木の枝にひっかかってしまった。
「あぁ……どうするの?」
 内裏の物品は数が厳しく管理されている。たった一枚でも紛失は許されない。
 侍女とふたりで顔を見合わせる。すでに泣きそうになっている彼女に無理は言えそうにない。
 その彼女の顔に宵の顔がかさなった。気が付けば涼風は「大丈夫」と告げて腕まくりをしていた。
「どうするの?」
「登って取るわ。大丈夫、あのくらいの高さならよく登っていたから」
 裏山が遊び場だった涼風にとって、このくらいは朝飯前だ。
 心配そうな顔でこちらを見つめる侍女に安心させるべく笑顔を見せて、低い枝に飛びついて軽々と昇っていく。
 幸い勘は鈍っていなかった。目的のさらしは枝の先で揺れておりすぐに手が届きそうではない。幹にしっかり掴まって手を伸ばす。あと少し、だが風で揺れて上手くつかめない。
 木の下で待つ侍女もやきもきしながらその様子を見ていた。
「もう……ちょっと」
 手をほんの少し先にのばした。そのとき……。
「そこで何をしているんだ」
 木の下から声が聞こえて、びっくりして視線を下に移すと上等な袍(ほう)を身にまとった男性がこちらを見上げていた。
「えっ、わぁ!」
 突然現れた男性に注意をもっていかれた涼風は、幹に巻き付けていた手をうっかり放してしまう。その瞬間体がぐらっと傾き体が宙に浮く。
 視界の端にさらしが見えた。とっさに手を伸ばすし見事回収した。
 しかし涼風の体はすでに投げ出され落下している。
「危ないっ」
 男性の声が響く。
 涼風は次に来るであろう衝撃に備えてぎゅっと目をつむる。
 ……しかし襲ってくるはずの痛みはなく、代わりにとても高貴な香りに包まれた。
 ぎゅっとつむっていた目を開く。太陽の光がまぶしくて視界がぼやけた。
 なんだろう、このなつかしい匂い。
「おい、大丈夫か?」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返し、やっと顔が認識できた。目の前にあるその顔の美しさに固まってしまった。
「そなた、返事をせぬか。いつまでこうしているつもりだ」
 大きな声で呼びかけられて、ハッと我に返った。
「は、はい! 大変失礼しました」
 慌てて手足をばたつかせ、麗しの君の腕から降りる。
「ご無礼いたしました」
 涼風は深々と頭を下げる。身なりからは判断してかなり上の身分の人だろう。
「なぜあんな場所にいたのだ?」
 涼風は頭を下げたまま答える。
「はい。こ、このさらしが風で飛んで木の枝にひっかかってしまったのです」
「それでそなたが、木の登ったのか?」
「はい」
 侍女以外誰もいないと思っていたのに、まさかこんなところに高貴な身分な方が現れるとは。
 何よりも気になるのが彼のまとう匂いだ。高価な伽羅(きゃら)の香りがするがほんのわずかに白檀と月見草の香がする。
 白檀と月見草。
 よくある香りだ。けれど昔作ったあの香と全く同じなのはなぜだろう。
 涼風の鼻はほんの少しの違いもみつけるほど正確だ。たまたまというのはありえるのだろうか。五年間、自分以外の誰からも嗅いだことのない香りだ。
 どんな懲罰が下されるかわからない、絶体絶命の場面なのに、気になるのは目の前の人物から香ってくる匂いのことだけだ。
「聞いているのか?」
「いえ、匂いが」
 考えていたことが口からぽろっと零れ落ちた。はっとして口を手て覆う。
「匂い?」
「いえ、何でもありません」
 自分の鼻のことはあまり公にしないようがいいと、玄秋と千草に言われた。目立てば余計なトラブルを招くからだ。
「どんな匂いがしたんだ」
「えっ」
 思わず顔を上げてしまい、あわてて下げた。直接顔を見るなんて不敬にあたる。だらだらと嫌や汗をかいていると「まぁいい」といって貴人が去って行った。
 人の気配がなくなったのを隠しにしてから顔を上げた。
「はぁ、怖かった」
 額にかいた汗を腕で拭い、その場に座り込んだ。
「すずちゃん、大丈夫?」
 侍女が焦った様子でこちらにかけよってきて、背中をなでてくれた。
「うん、平気」
 なんとか立ち上がって服についた泥を払う。
「まさかこんなところに東宮様がいらっしゃるなんてね」
 侍女の言葉に驚いた。
「あの方が東宮様なのね」
 ちらっとしか見ていないけれど、あやかしと噂された意味が理解できた。
「わ、私……東宮様の上に落ちちゃったの⁉」
 涼風は今更事の重大さに気が付き、青い顔でおちつきなくその場で足ふみする。
「これって死罪にならない?」
 やっていることだけ見たら、むしろその場で切り捨てられなかっただけでもありがたいのかもしれない。
「まぁいいと言っていたから大丈夫なんじゃないのかな」
「本当に? 本当にそう思う?」
 侍女の肩を掴んでゆすった。彼女はうんうんと激しく首をたてにふっている。
「しばらくは目立たない方がいいと思うけど、それに東宮様がいつまでも覚えているとは思えないのだけれど。罰されるならすでにされているはずよ」
 侍女の言葉に勇気づけられて、なんとか洗濯を終わらせて典薬寮に戻ると「遅い」と叱られた。結局その日は食事の時間に間に合わずにひもじい思いをした。
 お腹を鳴らしながら水だけを飲み、布団にもぐりこんだ。
 暗い布団の中で考えるのは昼間のことだ。当分の間はいつ処分が言い渡されるかドキドキしながら過ごさないといけないがそれよりもっと気になるのはあの白檀と月見草の香りのことだ。
 なぜ宵の香が東宮様から香ったのか。あの配合は涼風しかできないものだ。だがたまたま同じものが出来上がる可能性はゼロではない。ただこの八年間一度も出あわなかっただけだ。
 宵と同じ匂いの人が、まさか東宮様だなんて。
 小さくてひ弱でかわいらしい宵。美しいけれど他人を寄せ付けない東宮様。
 まったく違うふたりから同じ匂いがするなんて。
 恐ろしい思いをした。けれどそのことよりもずっと強烈に意識に残っているのはあの思い出の香りだった。