第一章
「玄秋(げんしゅう)叔父さん、宵の様子がおかしいの。また熱が出たかもしれない」
涼風は浅い息を繰り返す妹の宵を背負い、裏山の斜面を駆け下りた。
庭で作業をしていた叔父の玄秋は、すぐに診療所の戸を開きふたりを中に入れた。
額に汗を浮かべた涼風は息を切らしながら、玄秋にこれまでの経過を説明した。
「裏庭に行ったのは半刻ほど前。元気にいつも通り薬草を探してた。ふっと匂いが変って宵を見るともう具合が悪そうだったの」
「そうか」
玄秋は涼風の話を聞きながら宵の腰ひもを緩めて診察を始めている。
「でもいつもの熱のときと違う気がする。匂いが違う」
涼風の言葉に、玄秋の顔色が変わる。
「具体的にどう違う?」
「……呼吸? 普通の熱の時と違う。後、右腕」
そこまで口にすると、玄秋は宵の着物の腕をめくった。
「これは……」
宵の腕の一部が赤く腫れあがっている。
「何かにかぶれたみたいだな」
「そんな! 気を付けていたのに」
「宵はもともと体が弱いから過剰に反応するんだろうな。心配するなすぐによくなる」
玄秋は薬の引き出しに向かうと、すり鉢の中に薬草を放り込んでいく。
「心配なら患部を洗い流せ、少しはましになるだろう」
「はい」
涼風は玄秋の指示通りに、たらいの水で患部を洗い流す。
「ごめんね。私がちゃんと見ていなかったから。守ってあげるって約束したのに」
宵は私ほど草花の知識がない。触れたらいけないものの判断もまだできない。わかっていたはずなのに。
まだ呼吸が荒くて苦しそうだ。少しでも早くよくなるように丁寧に水で洗い流し拭いた。
「これを煎じてこい」
「はい」
渡された薬草をもって、かまどに向かう。そこでは叔母の千草が夕食の用意をしていた。
「騒がしいわね。何があったの?」
「宵が何かにかぶれたみたいで」
「そう……大変ね。それ煎じるのね?」
涼風がうなずくとすぐに煎じられるように場所を開けてくれた。
薬を煎じながらも宵の様子が気になる。
宵は妹と言っているが、正確には家族の中で涼風だけ血が繋がっていない。
両親を亡くした涼風を叔父夫婦がひきとってくれたのだ。
だがそれを意識することは日常ではほとんどない。
医師として診療所を営む玄秋とその妻の千草。ふたりの娘の宵との生活は涼風にとって穏やかで楽しいものだ。
診療所の仕事や家事を手伝い、時間があれば宵と薬草を摘み山をかけまわった。
涼風にとっての幸せがこの小さな世界につまっていた。
考え事をしていたがふと薬湯の匂いの変化に気がついて、急いで火からおろした。
「うん、いい感じ」
お椀に出来上がった薬湯を淹れ、冷ましながら宵のところに持っていく。
涼風が診察室に入ると、患部に包帯を巻いた宵がうっすらと目をあけた。
「すずお姉……ちゃん」
掠れた声で呼ばれて駆け寄った。
「お薬作ったよ。飲もう」
涼風が声をかけると、玄秋が宵を起こした後薬湯の匂いを嗅いだ。
「よくできてる」
玄秋に褒められてほっとする。すぐに受け取って宵に飲ませた。
「口を開けて。苦いけど頑張ろう」
宵は小さく口を開けた。匙で流し込むと顔をしかめた。我慢して飲み込む姿がかわいそうだが、これを飲まなければ症状は治まらない。宵自身もわかっているので頑張っているのだ。
「ごめんね、もっと気を付けていればよかった」
宵は小さく首を振った。
「また連れていってくれる?」
目を潤ませる宵を抱きしめた。
「もちろん。だって私は宵のお姉ちゃんなんだから」
まだ熱っぽい宵に薬を飲ませて、涼風はその日宵と同じ布団で眠った。
どこに行くにも何をするにもふたりは一緒だった。
その中でもお互いが一番楽しみにしていたのは練り香作りだった。
けっして裕福ではなかった。玄秋は診察にお金をとらないことがほとんどだったし、千草は以前は宮仕えをしていたようだが今は私たち家族の生活を支えてくれている。
それでも涼風と宵を愛してくれているということは、誰が見ても明らかだった。玄秋と千草はいつだって自分たちの事より、涼風と宵を優先した。
練り香作りはその最たるものだ。
農村で暮すものにとっては、贅沢そのものだ。食べるのもやっとなのに、香など贅沢の極みだ。
それでもふたりは子どもたちが、香づくりをするのを禁止しなかった。むしろよりよいものができるようにふたりに助言すらした。
それはひとえに涼風のその調香の才能のためだ。わずかな香りの違いにも敏感に反応する。たぐいまれなるその才を玄秋はつぶさず大切に伸ばしていた。
「宵、これは私たちふたりだけの香ね。誰にも使わせないでね」
「うん、絶対約束する。ねぇ、すずお姉ちゃん」
「ん?」
「ずっと一緒にいてくれる? 私、すずお姉ちゃんとずっと一緒にいたい」
その真剣なまなざしに、うれしさとともにこの子を裏切れないという気持ちが湧き上がってくる。
「私もそう思っているわ。この命のある限りずっと一緒に」
涼風の言葉に宵は真剣な顔をして頷いている。
「この香りが、ふたりの約束ね」
乳鉢には月見草と白檀と月見草を合わせたものが入っている。それらを丁寧に混ぜ合わせ涼風が少しずつ調整を重ねる。最後に蜂蜜を加え完成させた。
「いい匂い」
「宵もそう思う? 私もこれまでで一番いい出来だと思う」
出来上がったものを半分ずつ分けた。姉妹が楽しむ姿を玄秋と千草はほほ笑ましく見ていた。
まずしくても穏やかな日々。
宵はあいかわらず体が弱く熱をよく出していたが、それでも徐々に体力がついてきていた。ともに家事を手伝い野山をかけまわった。
そんな日が続いて行くと思っていたある日。
「玄秋叔父さん、なんだかすごく嫌な臭いがする」
その日は朝から嫌な臭いがやけに鼻につく日だった。それとともに妙な胸騒ぎがする。玄秋も涼風の言葉を聞いて気のせいだとは言わなかった。涼風のこの手の嫌な予感は必ず当たると知っているからだ。
玄秋も朝から診察に来る人たちに注意した。真面目に聞く人もいれば、笑って「嘘つきだ」とバカにする人もいた。
涼風はそれを聞いて玄秋が悪く言われているようで胸が痛くなる。玄秋は「何もなければそのほうがいい」と言って涼風を」信じてくれる。
診療の合間に匂いのもとをたどるが、子どもの足では原因の特定が難しい。夢中になって山の奥まで歩いていた。
そのときひときわ匂いがきつくなった。
「油の匂い?」
なぜこんな山の中で油の匂いがするのか? 疑問に思ったが原因が分かった。其れと同じくして目の前に火の手があがった。
冬の乾燥した空気の中で、あたりはあっという間に火の海になった。
「玄秋叔父さん、千草叔母さん逃げて! 宵、宵はどこ?」
火の手は診療所のすぐ近くまで迫っている。袖で口もとを覆いながら必死になって村中に危険を知らせて歩く。
「みんな逃げてー!」
もっと早く走らなければ、みんなを守れない。でもこの小さな体は思うように動いてくれなかった。
「涼風っ! こっちだ」
玄秋が駆け寄ってきて、涼風を抱きかかえた。
「宵は? 宵はどこ?」
彼女は今日体調が悪くて寝ていたはずだ。
「千草が一緒にいる」
それを聞いた涼風はほっとして、そのまま意識を手放した。
頬に水滴が落ちてきて目覚めた。
「うっ」
焦げ臭い匂いに思わずえずく。
「涼風、気が付いたのねっ」
涙でぐしゃぐしゃの顔の千草が目に入り、驚いて体を起こした。さっと周囲に視線を彷徨わせる。
これまで自分たちが暮らしてきた村が見るも無残な姿になっているのを見て、涼風は絶望した。
そしてその時になって宵がいないのに気が付いた。
「千草叔母さん、宵は?」
涼風の問いかけに、千草はぼろぼろと大粒の涙を流した。その様子を見て恐怖を覚える。
「ねぇ、宵は? 宵はどこなの? ずっとそばにいるって約束したのに」
恐怖で声が震える。千草の涙が何を意味しているのか想像すらしたくない。
涼風はよろよろと立ち上がって、まだ煙の残る焼け野原になった村に向かって走り出そうとした。
「ダメよ、危ないわ」
千草が止めるのも聞かずに走り出すと、村の中から玄秋が出てきた。そして涼風を見るなり、首を左右に振った。
絶望が体中を駆け抜けた涼風は、そのままその場で膝をついた。
「宵、宵……うわぁあああああああ」
どこからも宵の匂いがしない。あのふたりだけの匂い、白檀と月見草のあの香りがしない。
それは宵の存在がもうないということだ。
泣き叫ぶ涼風を玄秋と千草が抱きしめる。お互いが悲しみを埋め合うために強くすがりついた。
「どうして宵が? 私が宵の代わりになればよかった」
そうすれば玄秋と千草が我が子を失うつらさを知らずに済んだのに。
「涼風、そんなこと言ってはだめだ。それだけは言ってはいけないよ」
玄秋の慰めの言葉も、宵を失ってしまった悲しみに打ちひしがれる涼風には届かなかった。
「玄秋(げんしゅう)叔父さん、宵の様子がおかしいの。また熱が出たかもしれない」
涼風は浅い息を繰り返す妹の宵を背負い、裏山の斜面を駆け下りた。
庭で作業をしていた叔父の玄秋は、すぐに診療所の戸を開きふたりを中に入れた。
額に汗を浮かべた涼風は息を切らしながら、玄秋にこれまでの経過を説明した。
「裏庭に行ったのは半刻ほど前。元気にいつも通り薬草を探してた。ふっと匂いが変って宵を見るともう具合が悪そうだったの」
「そうか」
玄秋は涼風の話を聞きながら宵の腰ひもを緩めて診察を始めている。
「でもいつもの熱のときと違う気がする。匂いが違う」
涼風の言葉に、玄秋の顔色が変わる。
「具体的にどう違う?」
「……呼吸? 普通の熱の時と違う。後、右腕」
そこまで口にすると、玄秋は宵の着物の腕をめくった。
「これは……」
宵の腕の一部が赤く腫れあがっている。
「何かにかぶれたみたいだな」
「そんな! 気を付けていたのに」
「宵はもともと体が弱いから過剰に反応するんだろうな。心配するなすぐによくなる」
玄秋は薬の引き出しに向かうと、すり鉢の中に薬草を放り込んでいく。
「心配なら患部を洗い流せ、少しはましになるだろう」
「はい」
涼風は玄秋の指示通りに、たらいの水で患部を洗い流す。
「ごめんね。私がちゃんと見ていなかったから。守ってあげるって約束したのに」
宵は私ほど草花の知識がない。触れたらいけないものの判断もまだできない。わかっていたはずなのに。
まだ呼吸が荒くて苦しそうだ。少しでも早くよくなるように丁寧に水で洗い流し拭いた。
「これを煎じてこい」
「はい」
渡された薬草をもって、かまどに向かう。そこでは叔母の千草が夕食の用意をしていた。
「騒がしいわね。何があったの?」
「宵が何かにかぶれたみたいで」
「そう……大変ね。それ煎じるのね?」
涼風がうなずくとすぐに煎じられるように場所を開けてくれた。
薬を煎じながらも宵の様子が気になる。
宵は妹と言っているが、正確には家族の中で涼風だけ血が繋がっていない。
両親を亡くした涼風を叔父夫婦がひきとってくれたのだ。
だがそれを意識することは日常ではほとんどない。
医師として診療所を営む玄秋とその妻の千草。ふたりの娘の宵との生活は涼風にとって穏やかで楽しいものだ。
診療所の仕事や家事を手伝い、時間があれば宵と薬草を摘み山をかけまわった。
涼風にとっての幸せがこの小さな世界につまっていた。
考え事をしていたがふと薬湯の匂いの変化に気がついて、急いで火からおろした。
「うん、いい感じ」
お椀に出来上がった薬湯を淹れ、冷ましながら宵のところに持っていく。
涼風が診察室に入ると、患部に包帯を巻いた宵がうっすらと目をあけた。
「すずお姉……ちゃん」
掠れた声で呼ばれて駆け寄った。
「お薬作ったよ。飲もう」
涼風が声をかけると、玄秋が宵を起こした後薬湯の匂いを嗅いだ。
「よくできてる」
玄秋に褒められてほっとする。すぐに受け取って宵に飲ませた。
「口を開けて。苦いけど頑張ろう」
宵は小さく口を開けた。匙で流し込むと顔をしかめた。我慢して飲み込む姿がかわいそうだが、これを飲まなければ症状は治まらない。宵自身もわかっているので頑張っているのだ。
「ごめんね、もっと気を付けていればよかった」
宵は小さく首を振った。
「また連れていってくれる?」
目を潤ませる宵を抱きしめた。
「もちろん。だって私は宵のお姉ちゃんなんだから」
まだ熱っぽい宵に薬を飲ませて、涼風はその日宵と同じ布団で眠った。
どこに行くにも何をするにもふたりは一緒だった。
その中でもお互いが一番楽しみにしていたのは練り香作りだった。
けっして裕福ではなかった。玄秋は診察にお金をとらないことがほとんどだったし、千草は以前は宮仕えをしていたようだが今は私たち家族の生活を支えてくれている。
それでも涼風と宵を愛してくれているということは、誰が見ても明らかだった。玄秋と千草はいつだって自分たちの事より、涼風と宵を優先した。
練り香作りはその最たるものだ。
農村で暮すものにとっては、贅沢そのものだ。食べるのもやっとなのに、香など贅沢の極みだ。
それでもふたりは子どもたちが、香づくりをするのを禁止しなかった。むしろよりよいものができるようにふたりに助言すらした。
それはひとえに涼風のその調香の才能のためだ。わずかな香りの違いにも敏感に反応する。たぐいまれなるその才を玄秋はつぶさず大切に伸ばしていた。
「宵、これは私たちふたりだけの香ね。誰にも使わせないでね」
「うん、絶対約束する。ねぇ、すずお姉ちゃん」
「ん?」
「ずっと一緒にいてくれる? 私、すずお姉ちゃんとずっと一緒にいたい」
その真剣なまなざしに、うれしさとともにこの子を裏切れないという気持ちが湧き上がってくる。
「私もそう思っているわ。この命のある限りずっと一緒に」
涼風の言葉に宵は真剣な顔をして頷いている。
「この香りが、ふたりの約束ね」
乳鉢には月見草と白檀と月見草を合わせたものが入っている。それらを丁寧に混ぜ合わせ涼風が少しずつ調整を重ねる。最後に蜂蜜を加え完成させた。
「いい匂い」
「宵もそう思う? 私もこれまでで一番いい出来だと思う」
出来上がったものを半分ずつ分けた。姉妹が楽しむ姿を玄秋と千草はほほ笑ましく見ていた。
まずしくても穏やかな日々。
宵はあいかわらず体が弱く熱をよく出していたが、それでも徐々に体力がついてきていた。ともに家事を手伝い野山をかけまわった。
そんな日が続いて行くと思っていたある日。
「玄秋叔父さん、なんだかすごく嫌な臭いがする」
その日は朝から嫌な臭いがやけに鼻につく日だった。それとともに妙な胸騒ぎがする。玄秋も涼風の言葉を聞いて気のせいだとは言わなかった。涼風のこの手の嫌な予感は必ず当たると知っているからだ。
玄秋も朝から診察に来る人たちに注意した。真面目に聞く人もいれば、笑って「嘘つきだ」とバカにする人もいた。
涼風はそれを聞いて玄秋が悪く言われているようで胸が痛くなる。玄秋は「何もなければそのほうがいい」と言って涼風を」信じてくれる。
診療の合間に匂いのもとをたどるが、子どもの足では原因の特定が難しい。夢中になって山の奥まで歩いていた。
そのときひときわ匂いがきつくなった。
「油の匂い?」
なぜこんな山の中で油の匂いがするのか? 疑問に思ったが原因が分かった。其れと同じくして目の前に火の手があがった。
冬の乾燥した空気の中で、あたりはあっという間に火の海になった。
「玄秋叔父さん、千草叔母さん逃げて! 宵、宵はどこ?」
火の手は診療所のすぐ近くまで迫っている。袖で口もとを覆いながら必死になって村中に危険を知らせて歩く。
「みんな逃げてー!」
もっと早く走らなければ、みんなを守れない。でもこの小さな体は思うように動いてくれなかった。
「涼風っ! こっちだ」
玄秋が駆け寄ってきて、涼風を抱きかかえた。
「宵は? 宵はどこ?」
彼女は今日体調が悪くて寝ていたはずだ。
「千草が一緒にいる」
それを聞いた涼風はほっとして、そのまま意識を手放した。
頬に水滴が落ちてきて目覚めた。
「うっ」
焦げ臭い匂いに思わずえずく。
「涼風、気が付いたのねっ」
涙でぐしゃぐしゃの顔の千草が目に入り、驚いて体を起こした。さっと周囲に視線を彷徨わせる。
これまで自分たちが暮らしてきた村が見るも無残な姿になっているのを見て、涼風は絶望した。
そしてその時になって宵がいないのに気が付いた。
「千草叔母さん、宵は?」
涼風の問いかけに、千草はぼろぼろと大粒の涙を流した。その様子を見て恐怖を覚える。
「ねぇ、宵は? 宵はどこなの? ずっとそばにいるって約束したのに」
恐怖で声が震える。千草の涙が何を意味しているのか想像すらしたくない。
涼風はよろよろと立ち上がって、まだ煙の残る焼け野原になった村に向かって走り出そうとした。
「ダメよ、危ないわ」
千草が止めるのも聞かずに走り出すと、村の中から玄秋が出てきた。そして涼風を見るなり、首を左右に振った。
絶望が体中を駆け抜けた涼風は、そのままその場で膝をついた。
「宵、宵……うわぁあああああああ」
どこからも宵の匂いがしない。あのふたりだけの匂い、白檀と月見草のあの香りがしない。
それは宵の存在がもうないということだ。
泣き叫ぶ涼風を玄秋と千草が抱きしめる。お互いが悲しみを埋め合うために強くすがりついた。
「どうして宵が? 私が宵の代わりになればよかった」
そうすれば玄秋と千草が我が子を失うつらさを知らずに済んだのに。
「涼風、そんなこと言ってはだめだ。それだけは言ってはいけないよ」
玄秋の慰めの言葉も、宵を失ってしまった悲しみに打ちひしがれる涼風には届かなかった。
