──あぁ、もうすぐ九年間患い続けた恋が終わるのだ。
紫紺の外套をはためかせ、目の前を歩いていく皇帝慶炎を瑠樹は、暗い眼差しで見つめた。
暗いといっても、別に恨みを込めた、という意味ではない。ただ、単に……報われなかったなぁと思っただけだ。
男盛りの雄々しい彼は、この国の最高位慶炎皇帝陛下。昨年の冬に父である前皇帝を亡くし、今年の春に帝位についた。二十歳になる若き皇帝である。
彼が手を差し伸べたのは、美しく気高い瑠樹の姉だった。姉の瑠華は、彼の手をとり、華やかに微笑む。その笑みで、彼女に魅了されない男など、この世にいるのだろうかと瑠樹は、羨ましく彼女を見つめた。
瑠華の髪は天から降り注ぐ光を浴びてキラキラと光る銀糸、飾り結いが小さな頭の上で可愛らしいお団子を二つつくり、そこから垂れた三つ編みが背中にまで届く長い髪。風に揺れてさらさらと軽やかに弾む様に揺れている。
彼女の横顔は秀でた額と、涼やかな瞳、高い鼻梁、決して人を悪く言わない柔らかな唇。そう、彼女は女神のごとく美しかった。皇帝の横に並ぶと、まるで対の神のように、神々しかった。
なんてお似合いの二人なのだろうと瑠樹はうつ向く。
自分のこの秘めたる恋は永遠に報われないことなど、分かっていたことだが、あまりにも似合いすぎると、少し嫉妬もわく。
──分かっているのに……どうしてこんなに苦しいの。
そもそも、皇帝である慶炎の許嫁は、姉だった。瑠樹が勝手に、いつの間にか彼に恋をし想いを寄せていただけなのだ。
物語の主人公のような二人は、微笑み合いながら、手を取り合って花が咲き乱れる野道を歩いていく。
時折、瑠樹を振り向き、早くおいでと笑う。まさか妹がこんな複雑な心境でついてきているなんて想像もしていない。もちろん慶炎の笑顔は、姉へ向けるものとは違って、幼い妹を心配するような家族愛の、他意のない、温かな眼差しだった。瑠樹はもう幼くもないし、十六の立派な淑女なのだけれど。
その少しも熱の籠らない眼差しで見られるたび、どれだけ心が張り裂けそうになるか慶炎は知らない。彼がそのような目で婚約者の妹を見るのは至極当然のことなのに。
瑠樹は想いを断ち切るように、足を止めた。
「お義兄様も、お姉様も歩くの速いわ……二人ともお元気なんですもの、わたくし疲れてしまって、少しあちらの木陰で慶月と休んでいますわ、ね、慶月いきましょう」
今日は宮中から出て、湖に遊びに来ていた。もうすぐ輿入れをする姉を労う最後の思い出作りに。皇后になればもうこんな風に出歩くことは叶わなくなる。宮から程近い湖でさえ見納めなんて、決まりごととは時に理不尽だ。
瑠樹は、皇帝の弟で、瑠樹の三つ年下の弟宮の慶月の手を掴んだ。慶月は、仕方ないなという訳知り顔で頷く。
「兄様、瑠樹のお守りは私に任せて、姉君と夕暮れに飛ぶ金の蜻蛉を探してきて下さい、この先にある湖にいるみたいですよ」
「ほぉ、それは雅だな、どれ、瑠華、探しに行こうか」
「ええ、ならばどちらが先に見つけるか競争しましょう」
姉の瑠華が走り出す。それを追いかけて彼も行ってしまった。淑女然とした姉は割とお転婆なのだ。そんなところも義兄は気に入っているのだろう。高貴な姫が走るなんて、お姉様だから許される。瑠樹がやったらすぐに侍女にはしたないと窘められることだろう。それにしても、日に何度も思う、美男美女の二人はなんて、お似合いなのだろう。また同じ嫉妬を繰り返し自分に嫌気がさす。口から重いため息がもれた。
「はぁ……お二人は昔から本当に仲良しね」
「なにをお前はそんなにへこんでいるんだよ? あの二人が仲良しで、相思相愛で結婚をするなんてずっと前から分かってたことだろう?」
慶月が、さも呆れたような声を出した。皇帝の弟という尊い身分であるものの、幼馴染みの気安さで、慶月と瑠樹の間にはお互いに遠慮はない。
若草色の清々しい出で立ちの彼は、三つも年下の癖になんだか最近妙に大人びた口をきくようになった。皇帝の弟なのだから、もっと敬わねばならないのだけれど、小さな頃から知っているとついぞんざいな扱いをしてしまう。
なにを今さらへこむのかって、それはそうだと瑠樹は思った。姉が十、瑠樹が七の歳に、姉と慶炎の婚約は決まった。それから九年間ずっと二人をそばで見てきたのだから。
「分かってるわよ、別にへこんでないし」
「よくいうよ、そんな泣きそうな顔してさ……お前には慶雪兄さんがいるだろ、明日帰って来るんだし」
「慶雪……ね、そうね、そんなのが居たわね」
「そんなのって、ひどいな、あなたの許嫁だろ」
「だってあの人、私のこと嫌いじゃない」
「そんなことは……」
慶月は、ガシガシと頭をかいてそっぽを向いた。この子の悪い癖、都合が悪くなるとすぐ聞こえないふりをして別の話題を探そうとするんだから、と瑠樹は大仰なため息を吐いた。知らないのならば、教えておいてあげようと思ったのだ。
「私たちの縁談は、慶雪が帰ってきたら破談になるらしいわよ」
「え? なんで」
「知らないの? 留学先のお姫様といい仲になったらしいわよ、もっぱらの噂」
「そんな本当かどうか分からない話を信じるなよ」
「なんでよ、本当かもしれないじゃない、ちょうど良いのよ……私はお兄様への恋心を胸に抱いて、尼になろうと思っているのだもの」
目の前の小石を思いっきり蹴っ飛ばした。自棄で言っている訳じゃない、本当にそうしたいのだ。
きっとこの心の中から慶炎への想いは消えない。
ならば、今まで集めた彼との楽しい思い出を胸に抱いてひっそりと生きたいだけ。
「もう良いのよ、本当に」
「それ、慶雪兄さんに言ったら怒られると思うよ」
「怒っても良いわよ、関係ないじゃない、あの人はあの人で幸せになれば良いわよ、ついでに慶雪の幸せも祈ってあげる、あ、もちろん慶月の幸せも祈ってあげるわ、きっとわたくしの祈りは天に届くはずよ、だってこんなに清らかな心を持っているのだから」
ふくよかと言うには程遠い、薄っぺらな胸をポンと叩いた。慶月は、困ったように少し声の質を落とした。
「だったら……側妃になるとかさ、もし、本気で兄様のことが好きなんだったら」
「馬鹿ね、そんなことできるわけない、あの二人がお似合いだって、幸せになってほしいって心の底から思ってるのよ、波風なんて立てるくらいなら死んだほうがまし」
「死ぬくらいなら、慶雪兄を好きになればいいだろ」
馬鹿ねと、もう一度呟いた。そんな簡単に心が変わるなら苦しんだりしないのだと、まだ恋を知らない慶月を羨ましく思った。
──たった一人を愛してしまったら……もう、刻印みたいに心から消えないのよ。
「子供にはわからないわ」
「三つしか違わないだろ、偉そうに」
「じゃぁ、あなたは誰かを想って苦しむような恋をしているっていうの?」
「それは……まだわからないけど」
「ふ」
鼻で笑うと、慶月は思いっきり眉をひそめた。
次の日、本当に慶月が留学先から帰国した。一応まだ許嫁である瑠樹は、姉と共にお祝いの品を持って宮中へ訪れた。
姉も結婚すればこの宮に入ることになる。
「お姉様はもうじき、ここで暮らすのね……寂しいわ」
「瑠樹だって、慶雪様と結婚をしたらここで暮らすじゃない」
「だから、しませんって。たまたま許嫁になってるだけなんだから、だいたい私にあんな派手な人向かないわ、皇弟なのに政務をほっぽって、隣国へ遊びに行くような人」
「遊びに行ったんじゃないのよ、かの国へは勉強にいったのよ、立派なことだわ」
「お姉様ってば、昔から慶雪に甘いんだから」
プイッと顔を背けると、姉は困ったように微笑む。
「おや、それは本当かな?」
突然背後から声がして、振り向く。なんと慶雪が腕を組んで立っていた。真っ赤な派手な衣装に身を包み、長い黒髪は結いもせず、ざんばらで海賊の王のような出で立ちだ。
「呆れた、慶雪……もう帰ってきたの」
「もうって、一年間だと言ったじゃないか、君は俺と離れて清々したって顔してるの? 口惜しいな」
つんと、顎に指先で触れられ、腹が立つ。瑠樹は、咄嗟に慶雪の手を払い退けた。
「触らないでよ」
「おや、怖い……俺を甘やかしてくれるのは瑠華姉さんだけだ。姉さん、結婚おめでとう、来月には皇后だね」
「ありがとうございます、慶雪様。隣国はどうでした?」
「積もる話は、部屋でしましょう、さぁこちらに、兄が来るまで土産に買ってきたお菓子でも一緒に食べましょう」
「ふふ、そうね」
慶雪の後ろ姿を睨みつつ、歩く。また背が伸びたのではないだろうか、この男は会うたびに華やかになっていく、と胡乱な目で彼の背中を見つめた。きっと本当に隣国の姫君とよろしくやってきたんだろう。なんだか、ムカムカするのは……彼の奔放な恋に比べ、自分の恋は秘められたまま消さなくてはならないことが悔しかったからだろうか。
「軽薄」
ぽそりと呟く。
聞こえるはずもないのに、慶雪は視線をこちらに向け、クスッと笑った。もっと大きな声で言ってやれば良かったと瑠樹はさらに目を細めた。
正殿を通りすぎ内殿の横の側殿の部屋へ入る。ここへは瑠樹達以外のものが出入りしない。小さな頃から使ってきた秘密の隠れ家のような処。
「陛下はここにくるの? 慶雪様が帰ったお祝いの日なのに正殿できちんと会わなくて良かったのかしら」
「いーんだよ、俺が帰るのは実は明後日の話だから、兄さんが皆で会うならここが良いってさ」
暗殺者に狙われないように、予定をあえてずらして行動するのは皇室では良くあることだ。慶炎は、この国の若き皇帝なのに、たまにこうした茶目っ気を出す。そういうところが可愛く思えて、ひっそり唇を噛む。
「困った皇帝ね、いつまでも子供みたいに」
姉が口許を押さえて笑う。あぁ、好きが溢れるみたいな笑顔だ。あの人の茶目っ気を心から愛おしく思ってるのだと当たり前のことを思う。
私も同じだよと、心の中で同意して、スッと瑠樹は真顔になる。
すると、手に持っていた慶雪への祝いの品を、慶雪が突然奪った。
「これ、瑠樹が選んでくれたの?」
「ちょ、突然取らないでよ……そうよ」
「ふーん、綺麗な柘榴石だね」
彼は紫がかった赤い宝石をつまみ上げて、光にかざした。見立て通り、彼によく似合っていた。
「あんた、昔から赤が好きだもんね、その石加工して何か装飾品にしようとおもうのだけど、何が良いか聞こうとおもって持ってきたのよ」
「そうだな……首飾りがいい」
「似たようなのいっぱい持ってなかった?」
「似て非なるものだよ、なんたって我が愛しの許嫁殿からのプレゼントなんだから」
おどけて、許嫁などと言うものだから、瑠樹は心底この男が憎たらしいと思った。
「はいはい、それもいつまでの話かしら」
「そうだね」
はっきり肯定した彼の言葉。ほらねと、心配そうな顔をしている姉と慶月に目配せをする。
得意気な顔をしていたら、慶雪は瑠樹を見て、にやりと笑った。その不敵な笑みに、なにやら企みが透けて見えて眉をひそめる。
「なによ?」
「結婚をしたら、許嫁じゃなくなるって意味だよ瑠樹」
「は? だって、あんたは……他に想う人がいるでしょ?」
「それは俺が、なの?」
その一言に、口を噤んだ。
──それは、私が、だ。
一応慶雪には、隠していたつもりだったが、聡い男だ。気づいていたらしい。
気まずい空気が流れた時、皇帝である慶炎が部屋へ入ってきた。
「やぁ、瑠華、瑠樹いらっしゃい、弟の為に集まってくれてありがとう」
「陛下、慶雪様から隣国のお話を聞こうとしていたところだったのよ」
姉がそっと慶炎の腕に手を置く、その慣れた仕草に二人の親密さが伺える。姉と慶炎は……もう接吻くらいしたのかしらと口にはできない疑問がわいた。
「時に、瑠樹は本を良く読むだろう?」
「はい」
「お前に謎を解く手伝いをして欲しいんだ」
慶炎の思いがけない言葉に、先ほどまでの邪な妄想は消し飛んだ。
「何ですか、謎って?」
謎とはなんぞ、瑠樹は首を傾げ、慶炎を見つめた。慶炎は、瑠樹の不審そうな顔つきをみて軽快に笑った。
「なんですか? お兄様」
「私の寝所の庭に橙の木が植えてあるのだが、その木に橙の実が十なっていたのだ、しかしふとみると昨日は九つ、今日は八つになっていたのだよ」
「下に落ちたのではなくてですか?」
「もちろん、見たさ、しかし地面には何もなかったし、手入れをしている庭師にも聞いたが知らないと言うんだ」
慶雪が、瑠華に差し出された饅頭を食べながら、顔をこちらにむけた。いかにも興味津々といった顔つきをしている。
「へぇ、面白いですね、獣の類いかな」
「そう思うが、鳥は隣の小さな実を食べていて、あのように大きな実には手を出さない」
「なるほど……」
兄二人が考えているところへ、末の弟も混ざり込む。
「では、下男が勝手にとって食べているんですよ」
「それはないわよ、皇帝の庭になったものを勝手に取ったり食べたりしたら罪になるわ」
「そりゃそうだ」
瑠樹の指摘に、慶月はあっさりと頷く。瑠華が、皇帝に茶をさしだした。白磁の器に緑の濃いお茶は、清涼な香りを漂わせている。ありがとうと、受け取った皇帝を見つめつつ、瑠華ははんなりとその清らかな頬に手をあてた。
「不思議なお話ですわね、でもやはり……どなたかが、取られているのではないかしら、だって橙の実は大きいし人の手でもないと取れないわ」
「だろうな、だがしかし、誰がなんのためにと思ってな」
確かに……と五人は押し黙る。
「書物に詳しい瑠樹ならと思ったが、思い当たらぬか」
「そうでございますね、橙の木は、子孫繁栄を願って植えられているものですから、きっとお姉様が皇后になられたらまた実を沢山つけるのではないでしょうか、失われた実など気になさらないほうがいいですよ」
皇帝の子孫繁栄を願って植えられた木の実が消えるのはやや不吉で、安心させる目的でおどけてみたら、瑠華が顔を赤らめ、もぅと小さく抗議した。
慶炎は、そんな瑠華の手を握り、自分の膝の上に座らせた。
「ふむ、実にそうに違いないな」
「陛下ったら」
「私たちの子ならきっと可愛いだろうな」
「ふふ……そうね」
仕向けたわけではなかったが、甘い雰囲気を漂わせ始めた二人に、若干気まずく、目の前のお茶をすする。しかし、なぜ橙は消えたのだろう。
「今から見にいこうか?」
唐突に慶雪が、瑠樹の手首を掴んだ。
「へ?」
「そうだね! 行こう、瑠樹早く」
すぐ同意したのは、下の弟慶月。好奇心丸出しのキラキラした目で、今にも走り出しそうだ。慶炎はそんな弟たちを面白そうに見つめた。
「なら行っておいで、私と瑠華はここで待っているよ」
慶炎と、瑠華を部屋に残し、瑠樹、慶雪、慶月の三人は慶炎の寝所の前にやってきた。大きな実を付けている橙の木を見つけると、近くまで下を見ながら歩く。草は綺麗に刈り取られ、さすがに地面に落ちていたら気づくと思われた。
「下にはやっぱりありませんね」
慶月が首を捻る。橙の木の下までくると、慶雪がふいにしゃがんだ。じっと、地面を見ている。
何を見ているのだろうと、瑠樹が覗き込むと、地面には丸い跡がついていた。
「あら、これ、落ちた時についたのかしら?」
「ならやはり、橙の実は地面に落ちたというわけだ」
橙は、何らかの形で地面に落ちた。しかしその先が分からない。少し歩き回り離れた所にある小川を覗くと、魚がゆらゆらと泳いでいる。
昔、皆でここで魚を釣って遊んだものだ。
「懐かしいね、瑠樹、ここに落ちたよね」
「あなたが押したんでしょ」
ぎろりと、隣に立つ男を睨むと、睨まれた慶雪はふふっと笑った。
「だって君が俺の嫌いな蟹を見せようとするから」
「ぷっ、あんた蟹が苦手だったものね……あ!」
唐突に瑠樹は橙を見てそして、川を見た。遥か昔、偶然目にしたことを思い出したのだ。
「私……わかったわ」
「え?」
「蟹よ、蟹の仕業だったのよ、川に落ちたとき見たの、蟹が橙を川のなかに落として……それを魚たちがボール遊びするみたいにつついて川下へ運んでいったの、あの時は気にも留めなかったけど、橙は川下にあるわ」
「川下っていうと、湖?」
ここから先にあるのは湖だ。ふいに慶雪に手首を掴まれた。驚いて見上げると、慶雪は慶月に向かって叫んだ。
「慶月、兄上たちに理由がわかったから湖に来るように言ってきてくれ、俺たちは先に行く」
「え? ちょ、雪兄上っ、ずるいよ」
「すまん、頼む」
言うなり、腕をひっぱられ歩き出す。
「ちょっと慶雪、今から湖にいくの?」
「そうだよ」
「陛下たちは無理じゃないかしら」
「なら、君と二人だけで良いよ。むしろ……大歓迎だ」
また軽口を叩いてと、睨み付けたけど、慶雪の赤い瞳は瑠樹を愛おしそうに見つめていた。そんな瞳で見られたこと……いや、何度かあった。ただ、気付かないふりをしていただけだった。
「私……お義兄様が好きなのよ」
「知ってるよ」
「じゃぁ、そんな目で見ないでよ」
「仕方ないだろ。君が誰を想っていようと、俺は君が好きなんだから」
瑠樹を抱き上げ馬に乗せ、その背後に慶雪も優雅にまたがった。密着した背中が熱い。妙に居心地の悪さを感じながら、瑠樹は馬の鬣を握っていた。慶雪に手綱を持たれた馬がゆっくりと進む。
こんな風に二人で馬に乗ったのはいつぶりだろうか。五人はそれぞれこの宮中に自分の馬を持っていたし、誰かを乗せるなんて本当にまだ子供の頃。体格も変わらなかった幼き慶雪の後ろに抱きつくようにして乗ったことがあった。
今は、簡単に抱き上げられ、その両腕にすっぽりと収まる。体格はすでにもう瑠樹と差が開いて……大人の男になっていた。
「隣国の姫様と恋仲だって聞いたわ」
「噂は噂でしかないよ……確かに隣国の姫様とお会いしたことはあるけど、挨拶をしただけだ。俺が毎日会ってたのは、その兄の方、彼らは双子なんだ、よく似てた」
「そうなの……?」
意外な返答に、瑠樹はとまどった。慶雪が、瑠樹の薄水色の髪に触れた。
「少しは、嫉妬をしてくれた?」
「……」
嫉妬をと言われ、確かにもしかしたら自分は嫉妬をしていたのだろうかと瑠樹は首を傾げた。さらりと髪が流れ、慶雪の指先からも逃げそうになったとき、真赤の衣に包み込まれた。
「俺が好きなのはずっと瑠樹だけだよ、他の姫なんて目に入らない」
「あなた、もっと遊んでるのかと思ってた」
「瑠樹のそばにいるために、そう振る舞ってただけだよ。どんなに君を好きでも、君が目で追っているのは兄だったから。俺がせまったって真面目にごめんと言われ距離をとられるのが分かっていたから。そばにいられなくなるくらいなら、軽薄だと思われてもそばにいたかった」
慶雪のいじらしい告白に、瑠樹は頬を染めた。
「本当に慶雪なの? 隣国から帰ってきて……性格が誰かと入れ替わったみたい」
「一度離れてみたからこそ、やっぱり君が欲しいと思ったんだ。君以外要らないと気づいた」
馬はようやく、湖の畔に着き、慶雪は先に降りるとまた瑠樹を抱き降ろそうと、瑠樹の腰に手をあて、持ち上げ、しかし慶雪は瑠樹を持ち上げたまま、すぐに降ろしてはくれなかった。
「ちょっと、何してるのよ、降ろしてよ」
「瑠樹、軽くてびっくりしてる。昔はこんなことできなかったから」
「それは、貴方が子供だったからでしょ、今は大人になったから」
「うん。簡単に瑠樹を攫えちゃうね、こんな風に抱き上げたまま……君が嫌だと暴れても有無を言わさず」
慶雪の瞳が妙に真剣で、瑠樹は少し怖くなった。本当にこのまま何処かへ拐われてしまいそうで、瑠樹はぶんぶんと首を振った。
「お義兄様とお姉様が結婚するのを見届けたいからどこにも行かないわ」
「そりゃそうだ、君は強いね」
ストンとその場に降ろされる。そそそそっと瑠樹は慶雪から距離をとった。
「おいおい、そんな警戒しないでくれよ、なにもしやしない、ほら、橙を見に行こう」
慶雪が瑠樹に向かって手を差し出す。瑠樹は渋々その手をとった。慶雪は、指先をそっと掴むと歩き出した。川と湖の合流地点へ到着すると、湖の中を覗き込んだ。
「あ! あったわ! ほら、あそこ、ほとんど食べられてるけどまだある」
湖の中に崩れた橙が沈んでいた。その周りには、魚やヤゴなどが群がっていた。
すると、一匹のヤゴが湖から突き出る様に生えている葦に登りだした。
「あの子なにをしたいのかしら、水から上がったら鳥に食べられてしまわない?」
「羽化するんだよ」
「羽化?」
やがてヤゴはじっと動かなくなり、そして背中が少しずつ割れ始めた。瑠樹と慶雪は辛抱強く彼が羽化するのを待った。
夕日が黄金色に輝いて、水面を照らす頃、ようやく、ヤゴは古い服を脱ぎ捨てた。
羽根を広げ上下に揺らす、その姿は黄金に輝いていた。
「黄金の蜻蛉だわ、本当にいたのね」
「橙を餌にしていた蜻蛉だけがこの色になるのかも、神秘的だな」
一匹に続くように、湖からヤゴたちが次々と羽化をしていく。その様子を二人は言葉を交わさすに見つめていた。
不思議と瑠樹は、この新しい命が産まれ美しい世界へ飛び立つ景色を慶雪とともに見れて良かったと思っていた。ヤゴが飛び立って行くように、自分の心から慶炎への想いが飛んでいくように感じていた。もう良いのだと。
「あんたと見れて良かったわ」
ぼそりと呟くと、慶雪はまた優しい瞳で瑠樹を見つめていた。
どれくらいの時間そうしていたのか、川上の向こうから慶月が馬で近づいてきた。
「おーい、慶雪兄上っ、ここにおられましたか」
「慶炎兄上は? 来られなかったか」
「ええ、これから御公務がおありで、瑠華姉さんとともに仕事にいきました」
「そっか、残念」
「で? 橙はありましたか」
ひょいっと、馬から降りて近づいてきた慶月は、湖の中を覗き込む。
「うーんん、暗くてよく見えないなぁ」
「また明日見に来たらいいわよ、さ、帰りましょ」
「ええ~っ、せっかく見に来たのに、どこら辺ですか?よく見れば見えるかも」
ねばる慶月の腕を引っ張る。
「もう諦めなさいってば、それよりもう一度寝所へ戻りましょうよ」
「へ? なんで」
「まだもう一つの謎が解けてないじゃない」
そういうと、慶雪がぽんと手を叩いた。
「なぜ、橙が落ちたか? だね」
「そうそう」
「熟れて勝手に落ちたんじゃないですか?」
慶月はそうぼやくが、瑠樹には思い当たることが一つあった。
「まぁ、行ってみてからのお楽しみね。この時間、いつも兄様は御公務がおありで、橙の様子を見たことがないんじゃないかしら、その間の犯行なのよ」
「なるほど! 早くいかなくちゃ」
三人は急いで来た道を戻り、寝所へバタバタと向かった。すれ違う従者達が何事かと振り向き、理由を聞きたそうな顔をしていたが、今はそれどころではない。
普通なら皇帝の寝所へ入るなど許されないが、この三人は特別許されてしまう。
まぁ、瑠樹に関してはそろそろ禁止と言われるだろうが。
寝所についた三人は、部屋の中で息を潜めるようにして座った。もうすっかり日が落ちて辺りは暗くなり始めていた。
灯りをつけに従者が来たが、今日は慶炎が戻ってきてからつけるように言付けて、しんと静まった部屋に三人はいた。
夏の終わりの虫の音が寝所を覆っている。三人は一言もしゃべらずに座っていた。
帰りが遅いことを瑠樹の従者は心配しているたろうか、それとも宮中にいるのになにも起こりはしないと安心しているたろうか。
庭先に一羽の小さな鳥が来た。まだ雛なのかチィチィと鳴きながら低空飛行している。
そして、雛たちは、橙の実にとまった。
闇夜に浮かぶような金色の実は、いい目印になったのたのだろう。飛んでは止まり、飛んでは止まりを繰り返すうちに、一つの実が揺れ落ちた。雛はそれを面白がるように羽根をパタパタとはためかせ、騒いでいる。
「落ちた」
慶月が、嬉しそうな声を密やかにこぼす。
落ちた橙か少し割れたのか、そこから香る甘酸っぱい匂いに誘われるように川から蟹が這い出て、橙の周りにあつまっていく。まるでおとぎ話を見ているような風景だ。
蟹たちは、力を合わせてころころと橙を運び、とうとう川へそれを落とした。
「凄い! 早く教えてあげなきゃ」
「きっと慶炎兄さまは、知ってたのよ」
「え?」
慶月が驚いた顔をする。
「なんだ、はばれたが」
そこへ、慶炎本人と、瑠華が足を忍ばせてするりと入ってきた。
慶炎はどしりと、慶月の横に座った。
「お前たちとこうして夜に会うのはこれが最後だ」
月光が庭を照らし、風が涼やかにふいていく。いい頃合いというものがある。
五人は大人になり、けじめをつけねばならない時期だった。
もう子供のように、庭で駆け回ることも、夜に寝所にあつまって長話することも、できないのだと誰もが分かっていた。
さみしいなと、瑠樹は瞳を伏せた。もう瑠樹でさえも、慶炎を間近で見ることは許されない。
そっと、慶雪が瑠樹の手を握った。瑠樹ははっとしたが、微動だにしなかった。慶雪の方を見てしまえば、皆が気づくと思ったからだ。
だが、瑠樹ははぁと、一つのため息をはき、意を決したように、慶雪を見つめた。
小さな首の動きなのに、ここにいる皆が彼女をみた。瑠樹と慶雪は見つめ会い、互いに手を握り、ふふっと笑った。
橙は落ちて実は朽ちるだけだと思っていた。だけれど、その実はやがて川にながされ、湖にたどり着き、魚やヤゴたちの餌になる。そして黄金の羽根を持ちとびたつのだ。
長い人生もそんなものなのかもしれないと瑠樹は思うのだった。
淡い恋は落ちた。だけれど、時にながされ、やがて瑠樹の栄養となり、新しい恋を育んでいく。
「後悔はさせない」
慶雪が真摯な瞳で呟くと、瑠樹は朗らかに笑って、期待しているわと答えた。
新しい恋へ向かって羽ばたいた瑠樹を姉は暖かい眼差しで見守っていた。
かくして、宮中ではめでたくも二組の慶事が続き、栄えることは限りなく……末長く栄華を極めていくのだった。
紫紺の外套をはためかせ、目の前を歩いていく皇帝慶炎を瑠樹は、暗い眼差しで見つめた。
暗いといっても、別に恨みを込めた、という意味ではない。ただ、単に……報われなかったなぁと思っただけだ。
男盛りの雄々しい彼は、この国の最高位慶炎皇帝陛下。昨年の冬に父である前皇帝を亡くし、今年の春に帝位についた。二十歳になる若き皇帝である。
彼が手を差し伸べたのは、美しく気高い瑠樹の姉だった。姉の瑠華は、彼の手をとり、華やかに微笑む。その笑みで、彼女に魅了されない男など、この世にいるのだろうかと瑠樹は、羨ましく彼女を見つめた。
瑠華の髪は天から降り注ぐ光を浴びてキラキラと光る銀糸、飾り結いが小さな頭の上で可愛らしいお団子を二つつくり、そこから垂れた三つ編みが背中にまで届く長い髪。風に揺れてさらさらと軽やかに弾む様に揺れている。
彼女の横顔は秀でた額と、涼やかな瞳、高い鼻梁、決して人を悪く言わない柔らかな唇。そう、彼女は女神のごとく美しかった。皇帝の横に並ぶと、まるで対の神のように、神々しかった。
なんてお似合いの二人なのだろうと瑠樹はうつ向く。
自分のこの秘めたる恋は永遠に報われないことなど、分かっていたことだが、あまりにも似合いすぎると、少し嫉妬もわく。
──分かっているのに……どうしてこんなに苦しいの。
そもそも、皇帝である慶炎の許嫁は、姉だった。瑠樹が勝手に、いつの間にか彼に恋をし想いを寄せていただけなのだ。
物語の主人公のような二人は、微笑み合いながら、手を取り合って花が咲き乱れる野道を歩いていく。
時折、瑠樹を振り向き、早くおいでと笑う。まさか妹がこんな複雑な心境でついてきているなんて想像もしていない。もちろん慶炎の笑顔は、姉へ向けるものとは違って、幼い妹を心配するような家族愛の、他意のない、温かな眼差しだった。瑠樹はもう幼くもないし、十六の立派な淑女なのだけれど。
その少しも熱の籠らない眼差しで見られるたび、どれだけ心が張り裂けそうになるか慶炎は知らない。彼がそのような目で婚約者の妹を見るのは至極当然のことなのに。
瑠樹は想いを断ち切るように、足を止めた。
「お義兄様も、お姉様も歩くの速いわ……二人ともお元気なんですもの、わたくし疲れてしまって、少しあちらの木陰で慶月と休んでいますわ、ね、慶月いきましょう」
今日は宮中から出て、湖に遊びに来ていた。もうすぐ輿入れをする姉を労う最後の思い出作りに。皇后になればもうこんな風に出歩くことは叶わなくなる。宮から程近い湖でさえ見納めなんて、決まりごととは時に理不尽だ。
瑠樹は、皇帝の弟で、瑠樹の三つ年下の弟宮の慶月の手を掴んだ。慶月は、仕方ないなという訳知り顔で頷く。
「兄様、瑠樹のお守りは私に任せて、姉君と夕暮れに飛ぶ金の蜻蛉を探してきて下さい、この先にある湖にいるみたいですよ」
「ほぉ、それは雅だな、どれ、瑠華、探しに行こうか」
「ええ、ならばどちらが先に見つけるか競争しましょう」
姉の瑠華が走り出す。それを追いかけて彼も行ってしまった。淑女然とした姉は割とお転婆なのだ。そんなところも義兄は気に入っているのだろう。高貴な姫が走るなんて、お姉様だから許される。瑠樹がやったらすぐに侍女にはしたないと窘められることだろう。それにしても、日に何度も思う、美男美女の二人はなんて、お似合いなのだろう。また同じ嫉妬を繰り返し自分に嫌気がさす。口から重いため息がもれた。
「はぁ……お二人は昔から本当に仲良しね」
「なにをお前はそんなにへこんでいるんだよ? あの二人が仲良しで、相思相愛で結婚をするなんてずっと前から分かってたことだろう?」
慶月が、さも呆れたような声を出した。皇帝の弟という尊い身分であるものの、幼馴染みの気安さで、慶月と瑠樹の間にはお互いに遠慮はない。
若草色の清々しい出で立ちの彼は、三つも年下の癖になんだか最近妙に大人びた口をきくようになった。皇帝の弟なのだから、もっと敬わねばならないのだけれど、小さな頃から知っているとついぞんざいな扱いをしてしまう。
なにを今さらへこむのかって、それはそうだと瑠樹は思った。姉が十、瑠樹が七の歳に、姉と慶炎の婚約は決まった。それから九年間ずっと二人をそばで見てきたのだから。
「分かってるわよ、別にへこんでないし」
「よくいうよ、そんな泣きそうな顔してさ……お前には慶雪兄さんがいるだろ、明日帰って来るんだし」
「慶雪……ね、そうね、そんなのが居たわね」
「そんなのって、ひどいな、あなたの許嫁だろ」
「だってあの人、私のこと嫌いじゃない」
「そんなことは……」
慶月は、ガシガシと頭をかいてそっぽを向いた。この子の悪い癖、都合が悪くなるとすぐ聞こえないふりをして別の話題を探そうとするんだから、と瑠樹は大仰なため息を吐いた。知らないのならば、教えておいてあげようと思ったのだ。
「私たちの縁談は、慶雪が帰ってきたら破談になるらしいわよ」
「え? なんで」
「知らないの? 留学先のお姫様といい仲になったらしいわよ、もっぱらの噂」
「そんな本当かどうか分からない話を信じるなよ」
「なんでよ、本当かもしれないじゃない、ちょうど良いのよ……私はお兄様への恋心を胸に抱いて、尼になろうと思っているのだもの」
目の前の小石を思いっきり蹴っ飛ばした。自棄で言っている訳じゃない、本当にそうしたいのだ。
きっとこの心の中から慶炎への想いは消えない。
ならば、今まで集めた彼との楽しい思い出を胸に抱いてひっそりと生きたいだけ。
「もう良いのよ、本当に」
「それ、慶雪兄さんに言ったら怒られると思うよ」
「怒っても良いわよ、関係ないじゃない、あの人はあの人で幸せになれば良いわよ、ついでに慶雪の幸せも祈ってあげる、あ、もちろん慶月の幸せも祈ってあげるわ、きっとわたくしの祈りは天に届くはずよ、だってこんなに清らかな心を持っているのだから」
ふくよかと言うには程遠い、薄っぺらな胸をポンと叩いた。慶月は、困ったように少し声の質を落とした。
「だったら……側妃になるとかさ、もし、本気で兄様のことが好きなんだったら」
「馬鹿ね、そんなことできるわけない、あの二人がお似合いだって、幸せになってほしいって心の底から思ってるのよ、波風なんて立てるくらいなら死んだほうがまし」
「死ぬくらいなら、慶雪兄を好きになればいいだろ」
馬鹿ねと、もう一度呟いた。そんな簡単に心が変わるなら苦しんだりしないのだと、まだ恋を知らない慶月を羨ましく思った。
──たった一人を愛してしまったら……もう、刻印みたいに心から消えないのよ。
「子供にはわからないわ」
「三つしか違わないだろ、偉そうに」
「じゃぁ、あなたは誰かを想って苦しむような恋をしているっていうの?」
「それは……まだわからないけど」
「ふ」
鼻で笑うと、慶月は思いっきり眉をひそめた。
次の日、本当に慶月が留学先から帰国した。一応まだ許嫁である瑠樹は、姉と共にお祝いの品を持って宮中へ訪れた。
姉も結婚すればこの宮に入ることになる。
「お姉様はもうじき、ここで暮らすのね……寂しいわ」
「瑠樹だって、慶雪様と結婚をしたらここで暮らすじゃない」
「だから、しませんって。たまたま許嫁になってるだけなんだから、だいたい私にあんな派手な人向かないわ、皇弟なのに政務をほっぽって、隣国へ遊びに行くような人」
「遊びに行ったんじゃないのよ、かの国へは勉強にいったのよ、立派なことだわ」
「お姉様ってば、昔から慶雪に甘いんだから」
プイッと顔を背けると、姉は困ったように微笑む。
「おや、それは本当かな?」
突然背後から声がして、振り向く。なんと慶雪が腕を組んで立っていた。真っ赤な派手な衣装に身を包み、長い黒髪は結いもせず、ざんばらで海賊の王のような出で立ちだ。
「呆れた、慶雪……もう帰ってきたの」
「もうって、一年間だと言ったじゃないか、君は俺と離れて清々したって顔してるの? 口惜しいな」
つんと、顎に指先で触れられ、腹が立つ。瑠樹は、咄嗟に慶雪の手を払い退けた。
「触らないでよ」
「おや、怖い……俺を甘やかしてくれるのは瑠華姉さんだけだ。姉さん、結婚おめでとう、来月には皇后だね」
「ありがとうございます、慶雪様。隣国はどうでした?」
「積もる話は、部屋でしましょう、さぁこちらに、兄が来るまで土産に買ってきたお菓子でも一緒に食べましょう」
「ふふ、そうね」
慶雪の後ろ姿を睨みつつ、歩く。また背が伸びたのではないだろうか、この男は会うたびに華やかになっていく、と胡乱な目で彼の背中を見つめた。きっと本当に隣国の姫君とよろしくやってきたんだろう。なんだか、ムカムカするのは……彼の奔放な恋に比べ、自分の恋は秘められたまま消さなくてはならないことが悔しかったからだろうか。
「軽薄」
ぽそりと呟く。
聞こえるはずもないのに、慶雪は視線をこちらに向け、クスッと笑った。もっと大きな声で言ってやれば良かったと瑠樹はさらに目を細めた。
正殿を通りすぎ内殿の横の側殿の部屋へ入る。ここへは瑠樹達以外のものが出入りしない。小さな頃から使ってきた秘密の隠れ家のような処。
「陛下はここにくるの? 慶雪様が帰ったお祝いの日なのに正殿できちんと会わなくて良かったのかしら」
「いーんだよ、俺が帰るのは実は明後日の話だから、兄さんが皆で会うならここが良いってさ」
暗殺者に狙われないように、予定をあえてずらして行動するのは皇室では良くあることだ。慶炎は、この国の若き皇帝なのに、たまにこうした茶目っ気を出す。そういうところが可愛く思えて、ひっそり唇を噛む。
「困った皇帝ね、いつまでも子供みたいに」
姉が口許を押さえて笑う。あぁ、好きが溢れるみたいな笑顔だ。あの人の茶目っ気を心から愛おしく思ってるのだと当たり前のことを思う。
私も同じだよと、心の中で同意して、スッと瑠樹は真顔になる。
すると、手に持っていた慶雪への祝いの品を、慶雪が突然奪った。
「これ、瑠樹が選んでくれたの?」
「ちょ、突然取らないでよ……そうよ」
「ふーん、綺麗な柘榴石だね」
彼は紫がかった赤い宝石をつまみ上げて、光にかざした。見立て通り、彼によく似合っていた。
「あんた、昔から赤が好きだもんね、その石加工して何か装飾品にしようとおもうのだけど、何が良いか聞こうとおもって持ってきたのよ」
「そうだな……首飾りがいい」
「似たようなのいっぱい持ってなかった?」
「似て非なるものだよ、なんたって我が愛しの許嫁殿からのプレゼントなんだから」
おどけて、許嫁などと言うものだから、瑠樹は心底この男が憎たらしいと思った。
「はいはい、それもいつまでの話かしら」
「そうだね」
はっきり肯定した彼の言葉。ほらねと、心配そうな顔をしている姉と慶月に目配せをする。
得意気な顔をしていたら、慶雪は瑠樹を見て、にやりと笑った。その不敵な笑みに、なにやら企みが透けて見えて眉をひそめる。
「なによ?」
「結婚をしたら、許嫁じゃなくなるって意味だよ瑠樹」
「は? だって、あんたは……他に想う人がいるでしょ?」
「それは俺が、なの?」
その一言に、口を噤んだ。
──それは、私が、だ。
一応慶雪には、隠していたつもりだったが、聡い男だ。気づいていたらしい。
気まずい空気が流れた時、皇帝である慶炎が部屋へ入ってきた。
「やぁ、瑠華、瑠樹いらっしゃい、弟の為に集まってくれてありがとう」
「陛下、慶雪様から隣国のお話を聞こうとしていたところだったのよ」
姉がそっと慶炎の腕に手を置く、その慣れた仕草に二人の親密さが伺える。姉と慶炎は……もう接吻くらいしたのかしらと口にはできない疑問がわいた。
「時に、瑠樹は本を良く読むだろう?」
「はい」
「お前に謎を解く手伝いをして欲しいんだ」
慶炎の思いがけない言葉に、先ほどまでの邪な妄想は消し飛んだ。
「何ですか、謎って?」
謎とはなんぞ、瑠樹は首を傾げ、慶炎を見つめた。慶炎は、瑠樹の不審そうな顔つきをみて軽快に笑った。
「なんですか? お兄様」
「私の寝所の庭に橙の木が植えてあるのだが、その木に橙の実が十なっていたのだ、しかしふとみると昨日は九つ、今日は八つになっていたのだよ」
「下に落ちたのではなくてですか?」
「もちろん、見たさ、しかし地面には何もなかったし、手入れをしている庭師にも聞いたが知らないと言うんだ」
慶雪が、瑠華に差し出された饅頭を食べながら、顔をこちらにむけた。いかにも興味津々といった顔つきをしている。
「へぇ、面白いですね、獣の類いかな」
「そう思うが、鳥は隣の小さな実を食べていて、あのように大きな実には手を出さない」
「なるほど……」
兄二人が考えているところへ、末の弟も混ざり込む。
「では、下男が勝手にとって食べているんですよ」
「それはないわよ、皇帝の庭になったものを勝手に取ったり食べたりしたら罪になるわ」
「そりゃそうだ」
瑠樹の指摘に、慶月はあっさりと頷く。瑠華が、皇帝に茶をさしだした。白磁の器に緑の濃いお茶は、清涼な香りを漂わせている。ありがとうと、受け取った皇帝を見つめつつ、瑠華ははんなりとその清らかな頬に手をあてた。
「不思議なお話ですわね、でもやはり……どなたかが、取られているのではないかしら、だって橙の実は大きいし人の手でもないと取れないわ」
「だろうな、だがしかし、誰がなんのためにと思ってな」
確かに……と五人は押し黙る。
「書物に詳しい瑠樹ならと思ったが、思い当たらぬか」
「そうでございますね、橙の木は、子孫繁栄を願って植えられているものですから、きっとお姉様が皇后になられたらまた実を沢山つけるのではないでしょうか、失われた実など気になさらないほうがいいですよ」
皇帝の子孫繁栄を願って植えられた木の実が消えるのはやや不吉で、安心させる目的でおどけてみたら、瑠華が顔を赤らめ、もぅと小さく抗議した。
慶炎は、そんな瑠華の手を握り、自分の膝の上に座らせた。
「ふむ、実にそうに違いないな」
「陛下ったら」
「私たちの子ならきっと可愛いだろうな」
「ふふ……そうね」
仕向けたわけではなかったが、甘い雰囲気を漂わせ始めた二人に、若干気まずく、目の前のお茶をすする。しかし、なぜ橙は消えたのだろう。
「今から見にいこうか?」
唐突に慶雪が、瑠樹の手首を掴んだ。
「へ?」
「そうだね! 行こう、瑠樹早く」
すぐ同意したのは、下の弟慶月。好奇心丸出しのキラキラした目で、今にも走り出しそうだ。慶炎はそんな弟たちを面白そうに見つめた。
「なら行っておいで、私と瑠華はここで待っているよ」
慶炎と、瑠華を部屋に残し、瑠樹、慶雪、慶月の三人は慶炎の寝所の前にやってきた。大きな実を付けている橙の木を見つけると、近くまで下を見ながら歩く。草は綺麗に刈り取られ、さすがに地面に落ちていたら気づくと思われた。
「下にはやっぱりありませんね」
慶月が首を捻る。橙の木の下までくると、慶雪がふいにしゃがんだ。じっと、地面を見ている。
何を見ているのだろうと、瑠樹が覗き込むと、地面には丸い跡がついていた。
「あら、これ、落ちた時についたのかしら?」
「ならやはり、橙の実は地面に落ちたというわけだ」
橙は、何らかの形で地面に落ちた。しかしその先が分からない。少し歩き回り離れた所にある小川を覗くと、魚がゆらゆらと泳いでいる。
昔、皆でここで魚を釣って遊んだものだ。
「懐かしいね、瑠樹、ここに落ちたよね」
「あなたが押したんでしょ」
ぎろりと、隣に立つ男を睨むと、睨まれた慶雪はふふっと笑った。
「だって君が俺の嫌いな蟹を見せようとするから」
「ぷっ、あんた蟹が苦手だったものね……あ!」
唐突に瑠樹は橙を見てそして、川を見た。遥か昔、偶然目にしたことを思い出したのだ。
「私……わかったわ」
「え?」
「蟹よ、蟹の仕業だったのよ、川に落ちたとき見たの、蟹が橙を川のなかに落として……それを魚たちがボール遊びするみたいにつついて川下へ運んでいったの、あの時は気にも留めなかったけど、橙は川下にあるわ」
「川下っていうと、湖?」
ここから先にあるのは湖だ。ふいに慶雪に手首を掴まれた。驚いて見上げると、慶雪は慶月に向かって叫んだ。
「慶月、兄上たちに理由がわかったから湖に来るように言ってきてくれ、俺たちは先に行く」
「え? ちょ、雪兄上っ、ずるいよ」
「すまん、頼む」
言うなり、腕をひっぱられ歩き出す。
「ちょっと慶雪、今から湖にいくの?」
「そうだよ」
「陛下たちは無理じゃないかしら」
「なら、君と二人だけで良いよ。むしろ……大歓迎だ」
また軽口を叩いてと、睨み付けたけど、慶雪の赤い瞳は瑠樹を愛おしそうに見つめていた。そんな瞳で見られたこと……いや、何度かあった。ただ、気付かないふりをしていただけだった。
「私……お義兄様が好きなのよ」
「知ってるよ」
「じゃぁ、そんな目で見ないでよ」
「仕方ないだろ。君が誰を想っていようと、俺は君が好きなんだから」
瑠樹を抱き上げ馬に乗せ、その背後に慶雪も優雅にまたがった。密着した背中が熱い。妙に居心地の悪さを感じながら、瑠樹は馬の鬣を握っていた。慶雪に手綱を持たれた馬がゆっくりと進む。
こんな風に二人で馬に乗ったのはいつぶりだろうか。五人はそれぞれこの宮中に自分の馬を持っていたし、誰かを乗せるなんて本当にまだ子供の頃。体格も変わらなかった幼き慶雪の後ろに抱きつくようにして乗ったことがあった。
今は、簡単に抱き上げられ、その両腕にすっぽりと収まる。体格はすでにもう瑠樹と差が開いて……大人の男になっていた。
「隣国の姫様と恋仲だって聞いたわ」
「噂は噂でしかないよ……確かに隣国の姫様とお会いしたことはあるけど、挨拶をしただけだ。俺が毎日会ってたのは、その兄の方、彼らは双子なんだ、よく似てた」
「そうなの……?」
意外な返答に、瑠樹はとまどった。慶雪が、瑠樹の薄水色の髪に触れた。
「少しは、嫉妬をしてくれた?」
「……」
嫉妬をと言われ、確かにもしかしたら自分は嫉妬をしていたのだろうかと瑠樹は首を傾げた。さらりと髪が流れ、慶雪の指先からも逃げそうになったとき、真赤の衣に包み込まれた。
「俺が好きなのはずっと瑠樹だけだよ、他の姫なんて目に入らない」
「あなた、もっと遊んでるのかと思ってた」
「瑠樹のそばにいるために、そう振る舞ってただけだよ。どんなに君を好きでも、君が目で追っているのは兄だったから。俺がせまったって真面目にごめんと言われ距離をとられるのが分かっていたから。そばにいられなくなるくらいなら、軽薄だと思われてもそばにいたかった」
慶雪のいじらしい告白に、瑠樹は頬を染めた。
「本当に慶雪なの? 隣国から帰ってきて……性格が誰かと入れ替わったみたい」
「一度離れてみたからこそ、やっぱり君が欲しいと思ったんだ。君以外要らないと気づいた」
馬はようやく、湖の畔に着き、慶雪は先に降りるとまた瑠樹を抱き降ろそうと、瑠樹の腰に手をあて、持ち上げ、しかし慶雪は瑠樹を持ち上げたまま、すぐに降ろしてはくれなかった。
「ちょっと、何してるのよ、降ろしてよ」
「瑠樹、軽くてびっくりしてる。昔はこんなことできなかったから」
「それは、貴方が子供だったからでしょ、今は大人になったから」
「うん。簡単に瑠樹を攫えちゃうね、こんな風に抱き上げたまま……君が嫌だと暴れても有無を言わさず」
慶雪の瞳が妙に真剣で、瑠樹は少し怖くなった。本当にこのまま何処かへ拐われてしまいそうで、瑠樹はぶんぶんと首を振った。
「お義兄様とお姉様が結婚するのを見届けたいからどこにも行かないわ」
「そりゃそうだ、君は強いね」
ストンとその場に降ろされる。そそそそっと瑠樹は慶雪から距離をとった。
「おいおい、そんな警戒しないでくれよ、なにもしやしない、ほら、橙を見に行こう」
慶雪が瑠樹に向かって手を差し出す。瑠樹は渋々その手をとった。慶雪は、指先をそっと掴むと歩き出した。川と湖の合流地点へ到着すると、湖の中を覗き込んだ。
「あ! あったわ! ほら、あそこ、ほとんど食べられてるけどまだある」
湖の中に崩れた橙が沈んでいた。その周りには、魚やヤゴなどが群がっていた。
すると、一匹のヤゴが湖から突き出る様に生えている葦に登りだした。
「あの子なにをしたいのかしら、水から上がったら鳥に食べられてしまわない?」
「羽化するんだよ」
「羽化?」
やがてヤゴはじっと動かなくなり、そして背中が少しずつ割れ始めた。瑠樹と慶雪は辛抱強く彼が羽化するのを待った。
夕日が黄金色に輝いて、水面を照らす頃、ようやく、ヤゴは古い服を脱ぎ捨てた。
羽根を広げ上下に揺らす、その姿は黄金に輝いていた。
「黄金の蜻蛉だわ、本当にいたのね」
「橙を餌にしていた蜻蛉だけがこの色になるのかも、神秘的だな」
一匹に続くように、湖からヤゴたちが次々と羽化をしていく。その様子を二人は言葉を交わさすに見つめていた。
不思議と瑠樹は、この新しい命が産まれ美しい世界へ飛び立つ景色を慶雪とともに見れて良かったと思っていた。ヤゴが飛び立って行くように、自分の心から慶炎への想いが飛んでいくように感じていた。もう良いのだと。
「あんたと見れて良かったわ」
ぼそりと呟くと、慶雪はまた優しい瞳で瑠樹を見つめていた。
どれくらいの時間そうしていたのか、川上の向こうから慶月が馬で近づいてきた。
「おーい、慶雪兄上っ、ここにおられましたか」
「慶炎兄上は? 来られなかったか」
「ええ、これから御公務がおありで、瑠華姉さんとともに仕事にいきました」
「そっか、残念」
「で? 橙はありましたか」
ひょいっと、馬から降りて近づいてきた慶月は、湖の中を覗き込む。
「うーんん、暗くてよく見えないなぁ」
「また明日見に来たらいいわよ、さ、帰りましょ」
「ええ~っ、せっかく見に来たのに、どこら辺ですか?よく見れば見えるかも」
ねばる慶月の腕を引っ張る。
「もう諦めなさいってば、それよりもう一度寝所へ戻りましょうよ」
「へ? なんで」
「まだもう一つの謎が解けてないじゃない」
そういうと、慶雪がぽんと手を叩いた。
「なぜ、橙が落ちたか? だね」
「そうそう」
「熟れて勝手に落ちたんじゃないですか?」
慶月はそうぼやくが、瑠樹には思い当たることが一つあった。
「まぁ、行ってみてからのお楽しみね。この時間、いつも兄様は御公務がおありで、橙の様子を見たことがないんじゃないかしら、その間の犯行なのよ」
「なるほど! 早くいかなくちゃ」
三人は急いで来た道を戻り、寝所へバタバタと向かった。すれ違う従者達が何事かと振り向き、理由を聞きたそうな顔をしていたが、今はそれどころではない。
普通なら皇帝の寝所へ入るなど許されないが、この三人は特別許されてしまう。
まぁ、瑠樹に関してはそろそろ禁止と言われるだろうが。
寝所についた三人は、部屋の中で息を潜めるようにして座った。もうすっかり日が落ちて辺りは暗くなり始めていた。
灯りをつけに従者が来たが、今日は慶炎が戻ってきてからつけるように言付けて、しんと静まった部屋に三人はいた。
夏の終わりの虫の音が寝所を覆っている。三人は一言もしゃべらずに座っていた。
帰りが遅いことを瑠樹の従者は心配しているたろうか、それとも宮中にいるのになにも起こりはしないと安心しているたろうか。
庭先に一羽の小さな鳥が来た。まだ雛なのかチィチィと鳴きながら低空飛行している。
そして、雛たちは、橙の実にとまった。
闇夜に浮かぶような金色の実は、いい目印になったのたのだろう。飛んでは止まり、飛んでは止まりを繰り返すうちに、一つの実が揺れ落ちた。雛はそれを面白がるように羽根をパタパタとはためかせ、騒いでいる。
「落ちた」
慶月が、嬉しそうな声を密やかにこぼす。
落ちた橙か少し割れたのか、そこから香る甘酸っぱい匂いに誘われるように川から蟹が這い出て、橙の周りにあつまっていく。まるでおとぎ話を見ているような風景だ。
蟹たちは、力を合わせてころころと橙を運び、とうとう川へそれを落とした。
「凄い! 早く教えてあげなきゃ」
「きっと慶炎兄さまは、知ってたのよ」
「え?」
慶月が驚いた顔をする。
「なんだ、はばれたが」
そこへ、慶炎本人と、瑠華が足を忍ばせてするりと入ってきた。
慶炎はどしりと、慶月の横に座った。
「お前たちとこうして夜に会うのはこれが最後だ」
月光が庭を照らし、風が涼やかにふいていく。いい頃合いというものがある。
五人は大人になり、けじめをつけねばならない時期だった。
もう子供のように、庭で駆け回ることも、夜に寝所にあつまって長話することも、できないのだと誰もが分かっていた。
さみしいなと、瑠樹は瞳を伏せた。もう瑠樹でさえも、慶炎を間近で見ることは許されない。
そっと、慶雪が瑠樹の手を握った。瑠樹ははっとしたが、微動だにしなかった。慶雪の方を見てしまえば、皆が気づくと思ったからだ。
だが、瑠樹ははぁと、一つのため息をはき、意を決したように、慶雪を見つめた。
小さな首の動きなのに、ここにいる皆が彼女をみた。瑠樹と慶雪は見つめ会い、互いに手を握り、ふふっと笑った。
橙は落ちて実は朽ちるだけだと思っていた。だけれど、その実はやがて川にながされ、湖にたどり着き、魚やヤゴたちの餌になる。そして黄金の羽根を持ちとびたつのだ。
長い人生もそんなものなのかもしれないと瑠樹は思うのだった。
淡い恋は落ちた。だけれど、時にながされ、やがて瑠樹の栄養となり、新しい恋を育んでいく。
「後悔はさせない」
慶雪が真摯な瞳で呟くと、瑠樹は朗らかに笑って、期待しているわと答えた。
新しい恋へ向かって羽ばたいた瑠樹を姉は暖かい眼差しで見守っていた。
かくして、宮中ではめでたくも二組の慶事が続き、栄えることは限りなく……末長く栄華を極めていくのだった。


