最後の読者:書いたはずのない登場人物が、原稿を読んでいた

 小説の書き出しに二週間かかっていた。

 篤のデビュー作は去年の秋に出た。
 文芸誌の新人賞で、選評に「静謐な才能」と書かれた。
 本人は、その言葉の意味が今も分からない。
 静謐な才能、というのは売れない、の言い換えかもしれないと思っていた。
 実際、初版の八割が戻ってきた。

 二作目の締め切りは、三か月後だった。

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 ミカというのは、篤が書いている小説の登場人物だ。

 二十代の女で、誰かの遺品を整理する仕事をしている。
 依頼があると、段ボールと手袋を持って死者の部屋に入る。
 感情を持て余していて、それを誰にも見せない。

 最初にミカを部屋で見たのは、三月の夜だった。

 篤は机に向かっていた。
 画面に向かって、一行も書けないまま一時間が過ぎていた。
 何かの気配がして振り向くと、窓の前に女が立っていた。

 鍵はかかっていた。
 四階だった。

 女は篤を見ていた。
 驚いていないように見えた。
 視線が、篤の顎のあたりに合っていた。目ではなく、そこを見ていた。
 ただ静かに、こちらを見ていた。

 篤が声を出す前に、女は消えた。
 そこには何もなかった。
 カーテンが、少し揺れていた。

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 翌朝、その場面を書いた。

 ミカが、誰かの部屋に入る場面だった。
 書きながら、昨夜見た女の顔を思い出した。
 顔立ちに細部があった。
 鼻の形。まつ毛の長さ。
 今まで自分が作った人物には、そういう細部がなかった。

 書き終えてから、最初の一段落を読み返した。
 鼻の形、と書いてあった。
 まつ毛の長さ、とも書いてあった。
 どちらも、書いた記憶がなかった。

 その日の夜、またミカが来た。

 今度は廊下に立っていた。
 電気はついていた。
 篤は少しの間、ミカを見た。
 ミカは篤の少し後ろを見ていた。

 消えた。

 篤はその日書いた原稿を読み返した。
 ミカが室内を歩く場面があった。
 廊下、と書いていた。

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 一週間で、篤は三十枚書いた。

 ミカは毎晩来るようになった。
 来る場所は、その夜の原稿と一致した。

 ハルが気づいたのは、その頃だった。

 黒い猫で、額に白い三角形があった。
 近所の空き地に住みついていて、週に二度ほど勝手に上がり込んでくる。
 扉の開け方を知っていた。

 その夜、ハルは廊下の中ほどで止まった。
 何かを見るように、首だけを動かした。
 篤には何も見えなかった。
 ハルはしばらくそうして、それから向きを変えて部屋を出ていった。

 その夜の原稿には、ミカが誰かの気配を感じる場面があった。
 気配の主には、名前がなかった。

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 四月に入って、順序が逆になった。

 気づくと、昼と夜の区別がなくなっていた。
 食べた記憶のない日があった。

 ある夜、ミカが机の引き出しを見ていた。
 翌朝、篤はミカが何かを探す場面を書いた。
 書き終えてから、少しの間、画面を見た。

 次の夜、試した。
 まだ書いていない場面を、頭の中だけで考えた。
 ミカが階段を下りる。
 書かなかった。
 ただ、想像した。

 翌朝起きると、玄関の靴が二足分あった。
 篤のものではない靴が、一足、並んでいた。
 女物でも、男物でも、判断できないサイズだった。
 篤は少しの間、それを見た。
 触らなかった。

 その日、ミカが窓を割る場面を書いた。
 書き終えてから、台所の窓を確認した。
 ひびが入っていた。
 書く前はなかった。

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 ある朝、昨夜書いた原稿を開いたら、最終行の下に一行あった。

 篤は書いた覚えがなかった。
 フォントも余白も同じだった。
 その一行を、篤は最後まで読んだ。
 それから、画面を閉じた。
 削除はしなかった。

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 担当編集者の番号を押して、切った。
 喉が、動かなかった。

 ハルが来た。

 玄関から入ってきて、直接台所に行き、水を飲んだ。
 それから廊下の突き当たりに行って、また止まった。
 鳴かなかった。
 低く、喉の奥で何かを鳴らした。

 篤は廊下を見た。
 何もなかった。

 ハルは動かなかった。
 三分くらい、そこにいた。
 それから、玄関に戻って出ていった。

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 五月に入る直前、篤は小説の中でミカを死なせようと思った。

 ミカを長く書きすぎた。
 ミカは動かなくなっていた。
 次の場面が書けなかった。

 その夜、ミカは机の横に立っていた。

 今まで、ミカは遠くにいた。
 廊下、窓の前、部屋の隅。
 机の横に来たのは初めてだった。

 篤の視線と、ミカの視線が合った。

 ミカが、一歩動いた。

 ミカは篤を見ていた。
 正確に、篤を見ていた。
 今度は顎ではなく、目だった。焦点が合っていた。
 気配を感じているのではなく、篤を見ていた。

 消えなかった。

 一分が過ぎた。
 二分が過ぎた。

 ミカは動かなかった。
 篤も動けなかった。

 それから、ミカは机の上を見た。
 原稿が開いていた。
 ミカは原稿を見て、また篤を見た。

 消えた。

 その夜、篤は何も書かなかった。

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 翌朝、篤は原稿を読み返した。

 一時間後、篤は椅子の背にもたれた。

 ミカは遺品整理をする人物として書いた。
 死んだ人間の部屋を片づける。
 残されたものを、適切な場所へ運ぶ。
 それがミカの仕事だった。
 段ボールに物を入れる場面を書いたことがあった。
 ミカは手袋をはめたまま、ためらわずに入れていた。

 ミカについて書いたのは、篤だけだった。
 ミカを読んだのも、今のところ、篤だけだった。

 物語の最後に、ミカは初めて自分の仕事の依頼を受けることになっていた。
 依頼人の名前は、まだ書いていなかった。

 篤はメモ帳を開いた。

 最後のページに、何かが書いてあった。

 篤の字ではなかった。

 整った、細い文字で、一行だけ。

 *この物語の、最後の依頼人の名前は、宮下篤という*

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 篤の本名だった。

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 それから篤は書き続けた。

 どちらか分からなかった。

 ミカは来なくなった。
 来る必要がなくなったのかもしれない。

 締め切りの一週間前、篤は書き終えた。
 最後の場面は、ミカが新しい部屋に入るところで終わった。
 誰の部屋か、書かなかった。
 読者が決めればいい、と書いた。

 その夜、ハルが来た。

 珍しく、篤の膝に乗ってきた。
 重かった。
 温かかった。
 額の白い三角形が、蛍光灯の光で少し光った。

 ハルはしばらくそこにいて、それから降りて、出ていった。
 玄関で一度だけ止まって、それから外に出た。

 翌朝、玄関の靴は一足だった。

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 あなたが読んでいるこの文章も、誰かの原稿の一部だ。