エリーゼはわたしのために

 エリーゼ。足を一歩進めるごとにほんのり上下する視界の中で、一字ずつ思い浮かべる。今日は少し遅くなってしまった。急がなきゃ、と思うのに、ひとりになるとどうしても。

 エリーゼ。今日も、まだ覚えてる。日の暮れ始めた薄青色の空気の中を走りながら、ふわりと浮いたセーラー服の襟を押さえた。気を逸らすように唱えてみる。あり、をり、はべり、いまそかり。けれど、あなたの名前が風に飛ばされていってしまいそうで息が詰まった。

 エリーゼ。過ぎてゆく景色の中で、にやりと笑ったかぼちゃの飾りがぼんやりと光っていた。角を曲がると、市民会館の白い壁が顔を覗かせる。窓の向こうには、書架の間に折り紙製の蜘蛛の巣が見えた。まだあなたといられたころは、こんな日、お菓子を分け合って笑えたのかしら。わたしはぎゅっと、通学鞄を掴む手に力を入れた。

 エリーゼ。今日も思い出せなくてごめんなさい。あなたのこと、これ以上忘れないでいさせて。駐車場をまっすぐ突っ切って、白いタイルの階段を三段上がる。

 エリーゼ。そう唱えながら、厚いガラス戸を押した。ずっしりして穏やかな沈黙の中に、わたしの呼吸音だけが聞こえる。あなたはここに、いないのに——。

 
  ◇

 
 わたしはまだ弾んでいる息を整えながら、緑色のエプロンを首から通した。硬い生地と本の匂いが喉に触れる。胸の部分の白い文字がするりと頭を通っていった。

 ——市民会館、だんらん図書館。ハロウィーンの今日は魔女の帽子のピンを、ポケットに留める。

 ここに通い始めると決めたとき、ずいぶんお堅いアルバイトなのね、と母は言った。ちょっぴり珍しい制度のおかげで、わたしのような学生でも図書館に置いていただけている。ちょっとお手伝いをしているだけなのにお金をいただいてしまうなんて、なんだか申し訳ないくらい。

 大きく息を吐いて、頬に少し冷たくなった手を当てた。白い床から黄緑色をした絨毯へ、少し早足に踏み出す。エリーゼ、と唱えかけて、飲み込んだ。

 まっすぐに並んだ書架と、色褪せた本の背表紙が白い光に照らされている。その中央、円形に囲まれたカウンター。そこに赤いチェック柄をしたショールの彼女がひとり、背筋を伸ばして座っていた。

「……薫子さん。遅くなってしまってごめんなさい、お待たせしました」

「あらあ、瑠々ちゃん」

 彼女は白くなった髪を光らせて、ゆっくりと振り返る。丁寧にまとめられた髪の上で、夏におそろいにした黒のリボンが揺れた。

「心配したわ。今日もお友達とお勉強? 今度は何をお願いされたの」

 誰もいない図書館に、声量を抑えたささやき。傾げられた小首は、微笑みをはらんでいた。

「ありがとうございます——今日は、数学。なかなか上手に伝えられなくて」

 優しい表情にほっと息をついて、薫子さんの隣のパイプ椅子に腰を下ろす。座面と背もたれに張られた深緑の布は、いつも少しざらざらしていた。

「そう。だけどえらいのねえ、先生でもないのに教えられるなんて。私は学生時代、数学なんてちっともだったわ」

 ふふふ、と薫子さんはショールのかかった腕を持ち上げ、口元に手を添える。それから「あら」と言ってわたしのほうへ手を伸ばした。

「髪がちょっと解けているわ。走ってきてくれたのね。直してあげる」

 綺麗にお化粧された目尻に、優しく小じわが寄る。薫子さんは席を立って、慣れた手つきでわたしのリボンを解いてくれた。少しくすぐったく、編み込みが整えられていく。夏、暑いでしょうと結っていただいて以来、わたしたちはリボンも髪型もおそろいである。

「ありがとうございます、うれしい」
「瑠々ちゃんは私の、小さくてかわいいお友達だもの。私もうれしいわ」

 できた、と薫子さんはわたしの肩を小さく叩いた。そうしてまた隣の席へ戻る。

 ふと、二階からピアノの音が聞こえた。

「ふふ、わたし、小さいかしら」
「あら、たしかにそうねえ。瑠々ちゃんは背も大きいもの。だけど、年齢なら私の四分の一でしょう。小さいわ」

 ふたりで顔を見合わせる。それから、ふっと吹き出した。声を抑えた笑いが、内緒話みたいにくすくす響く。

 ちょっと笑いが収まると、薫子さんは肩からずれた赤のチェックをそっと直した。

「ショール。去年お気に入りだっておっしゃってたものですね」

 日付スタンプの位置を直して、わたしはにこりと笑みを作る。カウンターの脇へ積んでいた本をブックトラックへ移しながら、「そう、そう」と薫子さん。

「少し寒くなってきたし、ハロウィーンにもぴったりでしょう。瑠々ちゃんも寒かったら、毛布を持っていらっしゃいね」

 薫子さんが見た方へ視線をやると、入り口の近く、先週組んだハロウィーンの特集があった。わたしが描いたおばけの絵は、お仕事を終えてちょっぴりくたびれていた。

「ええ、ぴったり。ありがとうございます、来週持ってきます」

 それがいいわ、ストーブはまだ先だもの、と薫子さんはゆっくりとうなずく。

 二階でピアノの鍵盤が、またかすかに音を立てた。

「あらまあ、忘れてたわ」

 その音にはっとしたように、優しいしわの刻まれた手が口元へ行く。その手はそのままカウンターの下へ運ばれて、それからわたしに小さな袋を差し出した。

 ちょっとふくらんだクラフト紙で、リボンで口が止めてある。ふわっと甘い香りがした。

「カナデくんからよ。お教室で配っているハロウィーンのお菓子、私たちにもですって」
「わあ、ありがとうございます」

 受け取りながら、思わず口元がほころんでしまう。カナデ先生のお菓子はいつもおいしいのだ。

「さっきこっそりいただいたんだけど、おいしかったわ。ねこちゃんの形のクッキーよ」

 とっておきの知らせを伝えるみたいに、薫子さんはにっとした。

 去年の春のこと。初めてのアルバイトに来る途中、地図を片手にふらりふらりと歩いている方がいらしたので声をかけた。それが、カナデ先生。道に迷っているということだったので案内したのだけれど、ピアノ教室の先生だというのはなんだか腑に落ちた。長い指の、女性のように綺麗な手をした方なのである。

「素敵、食べるのとっても楽しみです。今度お礼を言わなくちゃ」

 ロッカーへしまおうと、袋をそっと持って立ち上がった。薫子さんは「そうねえ、たくさん言わなくちゃ」と笑う。

 カナデ先生は小さいころ、妹さんによくピアノを教えていたそうで、先生になられたのもそれが理由みたいだった。優しいひとだ、と思う。

 うなずいて引いた椅子をしまいながら、ふとカウンターの端へ視線がいった。黄色い厚紙で作られた直方体の箱に、「忘れもの入れ」と札がついている。そこに見慣れない、新しいものがあった。

 白いマーガレットの、押し花の栞。透明なシートでラミネートされて、緑色のリボンが結ばれている。よく乾かされた花弁は、やさしい黄色に色を変え始めていた。

「忘れ、もの……?」
「それ、瑠々ちゃんのでしょう」

 え、とわたしが首をかしげると、薫子さんは「ちがったかしら」と小さく笑った。わたしは、こくりとうなずく。初めて見るはずなのに、なんだか妙に気になった。薄い栞を手に取ってみる。華奢な花びらの一枚一枚から、なんだか目が離せなくなる。

「なんとなく、あなたのだって気がしたのよ。図書館司書歴四十七年の勘は、当たると思ったのだけど」

 触れたところがなんだかあたたかいような気がして、離すのが惜しいように思えた。薫子さんの声が、遠くに聞こえる。わたしは空気を、ごくんと飲み込んだ。重苦しく、溶けきっていない飴玉みたいに酸素が喉を通っていく。

 ——そうだ、エリーゼ。

 わたしは心の中で、その名前を繰り返した。エリーゼ、エリーゼ。

 
  ◇

 

 わたしたちは、花の多い町で育った。学校の花壇にも、通学路にも空き地にも、そして、わたしの住んでいた家の庭にも、どこにだって花が咲いていた。

「ねえ、瑠々!」

 よく晴れた日、秋の終わりのころ。あの子はわたしをくるりと振り返った。ピンク色の吊りスカートがひるがえって、ゆるくカールした茶色の髪がふわりと泳ぐ。きっと本当の名前が「えりちゃん」だったのだろう、わたしはその子を「エリーゼ」と呼んでいた。

「こっち向いてっ」

 にっと、大きな目が笑う。

 わたしの家だった場所、庭の隅で、その日わたしはどうしてだか泣いていたのだ。カーディガンの袖口が涙にぐっしょり濡れて、重たかったのを覚えている。

「これ、あげる」

 わたしときっかり同じ大きさだった手は、マーガレットの花かんむりを元気いっぱいに差し出した。花びらの白が、ひとつひらりと落ちる。

「いいの……?」
「いいの!」

 あの子は白い手で、わたしの頭にかんむりを被せる。

「瑠々の『瑠』はね、たからものって意味なのよ! 瑠々は、あたしのたからものなの」

 ぱっちりした目がこれ以上ないくらいに細められて、笑みが満面に広がる。そうしてあの子は、わたしをぎゅっと抱きしめた。

「たからものはね、泣いてたってかわいいけど、笑っていたらもっとかわいいのよ。——だから、いっぱい泣いて元気になろう」

 あの子の細い腕や、ブラウスに包まれた体や、スカートのひだ全部から伝わってきたのは優しさだった。秋の終わりの冷たい風が、わたしたちの頬を撫でる。重たい花かんむりを頭に感じながら、わたしはこくんとうなずいた。

「……うん。大好きよ」

 
  ◇

 
 栞を持ったわたしの手が、視界が、ぼんやりとかすむ。——こんなことを思い出したのは、いつ以来だっただろう。たったひとつになってしまった、エリーゼとの大切な記憶なのに。

 ぎゅっと力が入りそうになって、緩めた。大切な栞に傷がついてしまったら、持ち主の方はきっと悲しむ。マーガレットの花びらは、わたしからひらりと「忘れもの入れ」に吸い込まれていった。

「……瑠々ちゃん!」

 背中の向こうで、薫子さんが少し声を大きくしてわたしを呼んだ。はっと目の前が透明になる。振り返ると、薫子さんはブックトラックの前にしゃがみ込んでいた。

「どうなさったんですか」

 目を見開いて、わたしに手招き。駆け寄ると、薫子さんの手はいちばん下の段を示していた。まっすぐに背表紙を見せていたはずの本たちが倒れて、保護カバーのついた裏表紙がきらりと光っている。

「さっきここに置いたはずの本が、ないの。たしかに収めたはずなのよ……どこへいったのかしら」

 立ち上がって、あたりを見回す薫子さん。本の題をわたしに伝えて、カウンターの下を探った。

「あら、たいへん。ほかの段に入れてしまったとか——」

 トラックを覗き込むけれど、見つからない。わたしはひとまず、白い蛍光灯に照らされた裏表紙を起こした。

「ないわねえ、どこか紛れちゃったのかしら……」
「わたし、書架の方を見てきます。無意識に戻してしまったのかも」

 薫子さんは「ごめんなさい、ありがとう」と言って困り眉に笑う。

 それからわたしたちは、たくさんの場所を探した。該当の書架、特集の棚、読書スペース、雑誌の間、カウンターの隙間。毛の短い絨毯を歩くたび、ことんことんと音がする。窓ガラスの外はゆっくりと紺に近づいていって、わたしはそっとカーテンを引いた。

「見つかり、ませんね」

 近くの棚を探していた薫子さんが、顔を上げる。

「そうねえ……。私がほかの本と、勘違いしていたのかしら」

 ふたたび俯いて、ごめんなさいねと小さくささやく。緑色の絨毯に、灰色の影がゆらめいていた。

「そんな、わたしこそです。薫子さんは——」

 そのとき、遠くから鍵盤を叩く音がした。ぽろん、とこぼれるみたいな音。きっと、カナデ先生のピアノ教室からだ。わたしと薫子さんは思わず顔を上げる。

 やわらかく跳ねる旋律はおどろおどろしくて、夕闇の薄膜が本に包まれた静けさを満たした。けれどそれでいて優しくて、楽しいのだから、まるでシーツのおばけみたい。

「……そうだわ、今日、ハロウィーンでしたね」

 ええ、と、薫子さんは少し笑う。

「生徒さんたちを驚かせようと思って、カナデくんが弾いているんだわ」

 目を見合わせると、ふふふ、と笑いがこぼれた。

「きっと、クッキーを食べてしまったからだわ。お菓子をあげられなかったから、いたずらされてしまったんです」

 まあ、と薫子さんの淡い色をした瞳が丸くなる。ショールの端のふさ飾りが、ふわっとゆれた。

「そうね——ありがとう」

 にこり、と小首をかしげる薫子さんの頭で、細いリボンが空中を泳ぐ。一ヶ月経っても出てこなかったら、なにか手を打ちましょう。そう付け加えた彼女と、わたしは並んでカウンターへ戻った。

「そろそろ、閉館の準備ね」

 はい、とわたしは薫子さんの真似をして首を傾ける。
——そうしてゆっくりと、真っ白な市民会館から灯りが消えていった。