「はぁっ……はぁっ……」
息を切らしながら壁にもたれかかる。
さっき起きた出来事が、頭の中で何度も繰り返される。
「絶対目立ってたじゃん」
思わず漏れた独り言は、静かな廊下に虚しく消えた。
心臓がうるさい。
走ったせいだけじゃない。
転んだことでもない。
"神代東真"
学年中の注目を集める、あの王子様みたいな男が、自分なんかを心配していた。
それがどうしても信じられなくて、頭から離れない。
「いやいやいや」
ぶんぶんと首を振る。考えるな。関わるな。
ああいう人は住む世界が違う。
俺みたいな地味な人間とは、一生接点なんてないはずなんだから。
「こんな出来事、みんな二日もしたら忘れるだろ……」
「何一人で喋ってんだよ」
突然、耳元で声がした。
「うわっ!?」
思わず飛び上がる。
振り返ると、高木が腹を抱えて笑っていた。
「びっくりしすぎだろ」
「まじでやめろ!」
「初日からあんだけ目立てば、友達もできるんじゃね?」
「できたところで、一生そのことネタにされそう」
「まぁまぁ、そういじけんなって」
高木は笑いながら俺の肩を叩いた。
「ほら、早く教室行かねーと」
そう言って俺の腕を引っ張り、そのまま歩き出す。
気づけば、教室の前だった。
ドアの横に貼られたクラス札が目に入る。
2年3組。
(ここが今日から俺の戦場となるのか)
ごくり、と唾を飲み込み、深呼吸を一つ。
覚悟を決めようとした、その瞬間。
「はい、頑張れ」
「え?」
高木に背中を勢いよく押された。
「うわっ、ちょっと!」
たたらを踏みながら教室へ入る。
一瞬だけ教室中の視線がこちらへ向いた気がした。
俺は慌てて身を縮め、そのまま座席表へ逃げ込む。
「えっと、俺は……」
指で名前を辿る。
そして、自分の席を見つけた。
窓際の一番後ろ。
「おっ」
思わず声が漏れる。
高校に入ってから、一度も座ったことのない特等席。
少しだけ気分が上がった。
(端の席ってどんな感じなんだろ)
そんな期待を抱きながら席へ向かう。
窓の外には青空が広がり、春の風がカーテンを揺らしていた。
教室全体も見渡せる。
思っていた以上に居心地がいい。
(めちゃくちゃいいじゃん)
自然と頬が緩む。
これなら案外、悪くない一年になるかもしれない。
(端っこだから目立たないし)
そんなことを考えていた時だった。
隣の席の椅子が引かれる音がした。
ガタッ。
誰かが座る気配。
なぜだろう。
妙な既視感がある。
今日だけで何度も感じたような、妙な圧というか存在感というか。
恐る恐る横を見る。
そこにいたのは、ついさっき掲示板の前で見た横顔。
「神代だ」
驚きのあまり、心の声がそのまま口から飛び出した。
「あ」
しまった。
そう思った時にはもう遅い。
神代がこちらを向く。
「何?」
低く落ち着いた声。
「えっ、あっ、その…」
頭が真っ白になる。
まさか隣の席だなんて。
(どうしよう。何か言わなきゃ)
必死に言葉を探していると、神代がふっと口元を緩めた。
「また会ったな」
その一言で、俺の心臓はさっきよりも大きく跳ねた。
「怪我、大丈夫か?」
「あ、うん。大丈夫!」
慌てて頷く。
「俺、体丈夫だから」
できるだけ明るく言って、満面の笑みを浮かべる。
この話はここで終わり。
そういう空気を全力で出したつもりだった。
「そっか」
神代は小さく頷く。
(よし、終わった)
そう思ったのも束の間。
「でも、手見せて」
「えっ」
返事をする間もなかった。
神代は席を立つと、俺の右手をそっと掴む。
「ちょ…」
長い指が手首に触れる。
近い。
近すぎる。
俺の抗議なんて聞こえていないかのように、神代はじっと手のひらを見つめていた。
さっき床についた部分を親指で軽くなぞる。
「赤くなってる」
「本当大丈夫だよ……?」
むしろ大丈夫じゃないのは俺の心臓の方だ。
さっきから暴れっぱなしである。
神代はそんな俺の言葉を聞きながらも、どこか納得していないようだった。
ほんの少し眉を寄せて、心配そうな目を向けてくる。
いや、、、気のせいだ。
きっと気のせい。
学年一の王子様が、俺なんかをそんな顔で見るわけない。
そう自分に言い聞かせていると、
「東真ー!」と明るい声が教室に響いた。
「って、あれ?」
上野が俺を見つけて目を丸くする。
「君ってさっき倒れちゃった子?」
「あ、はい」
「ごめんねー」
上野は両手を合わせて、申し訳なさそうな顔を作る。
「まさかあんなに女の子たちが集まってくると思わなくてさ」
そう言いながら、ごめんのポーズまでしてみせた。その仕草ひとつとっても絵になる。
(眩しい。さすがキラキラ王子)
神代だけでも十分すぎるほど目立つのに。
そこへ上野まで加わると、破壊力は二倍どころじゃない。
二人が並んでいるだけで、教室の空気が華やぐ。
まるで漫画の表紙から飛び出してきたみたいだ。
そして、その神々しい二人に挟まれている自分に気づき、さらに居心地が悪くなった。
周りを見ると、案の定だった。
教室中の視線が、こちらに集まっている。
「……」
(今すぐ窓から飛び立ちたい)
「それで、なんで二人は手繋いでるの?」
上野の何気ない一言が教室に響いた。
「えっ!!」
自分でも聞いたことがないような声が飛び出す。
慌てて視線を落とすと、そこには神代に掴まれたままの自分の手。
反射的に手を引っ込め、椅子ごと少し後ろへ下がった。
顔が熱い。たぶん真っ赤。
そんな俺とは対照的に、神代は驚くほど落ち着いていた。
「怪我してないか見てただけ」
涼しい顔でそう答える。
「へぇー」
上野は意味ありげに笑った。
「東真がそこまで心配するなんて珍しいじゃん」
「そうか?」
「そうだよ」
上野は即答する。
その言葉に神代は特に反論もせず、ただ俺の方へ視線を向けた。
「で、本当に痛くないのか?」
「いたっ……くないです」
(危ない。一瞬詰まった)
さっきから神代に見られるたびに心臓がおかしくなる。
「顔真っ赤だけど」
「これは違う!」
「何が?」
神代が首を傾げる。
その仕草が妙に自然で、余計に困る。
「な、なんでもない!」
俺が叫ぶと、上野はついに吹き出した。
「あはは!面白いな」
「面白くないです」
「いや、面白いって」
教室のあちこちからも小さな笑い声が聞こえる。
もう終わりだ。
入学以来守り続けてきた“目立たない生活”が、音を立てて崩れていく気がした。
そんな俺を見ながら、神代だけは小さく笑った。
本当にわずかだったけれど
その笑顔は、どこか嬉しそうに見えた。
