写真部という部活に入ったきっかけは何だったか……。
中学の時の友達と一緒に写真部の見学に行ったが、結局入部したのは俺一人だった……。
俺、古谷音にとって、今となっては学校に来る理由が写真部だった。
1年の夏休みに必死にバイトをして買った中古のフィルムカメラは、宝物だ。
自分で、切り取りたいと思ったものを切り取って、それを自分の手でこの世に呼び起こす。写真のその仮定が大好きだった。部費で購入した白黒のフィルムは、一年間で一人6個まで。36枚の写真が撮れるが、実際に現像するものは、数枚程度だ。
勿論、コンテストの時期は印刷する枚数も増やすが、全部を現像するには、時間もお金もかかりすぎる。
そんな楽しい楽しい部活が終わり、後輩たちにカギ閉めを頼む。暗室のある教室は旧校舎にしかなく、玄関へ向かうには一度新校舎を抜けなければならない。新校舎と旧校舎を繋ぐ廊下を渡りきると、どこからか微かにピアノの旋律が聞こえて来た。
時刻は夜の7時。
こんな時間に、子どもが小さい音楽の先生が残っているはずも無いので、誰か別の人物がピアノを弾いているのは明らかだった。いつもの自分ならば、「誰か弾いてるな」で素通りするが、今日の自分はそうではないらしい。音楽室に行くために、階段とは逆方向の右に曲がった。音楽室に近づけば近づくほど音は大きくなる。残念ながら曲名までは分からないが、聞いたことがある曲だった。誰がこの曲を弾いているのか、そのことに胸を高鳴らせながら音楽室の前で止まる。すると、俺の足音が聞こえたのか、ピアノの音も止んでしまった。それをそこか残念に思いながら、ドアを引いた。
「——あれ、高梨⁉」
「……古谷か」
音楽室のピアノの前に座っていたのは、同じクラスの高梨だった。
てっきり女子生徒が弾いているのかと思っていたが、見知った人物だったので、思わず大きな声が出た。
高梨奏、同じクラスの男子。俺らの学年では一番イケメンだと言われているのは知っている。けれど、それを鼻にかけるでも無く、本人はとても穏やかだ。そして、勉強もできる。今日は、ピアノが弾けるという項目も追加されたので、神さまというのは、お気に入りにはいくつでも要素を足すのかと感心した。
「高梨って、ピアノ弾けたんだな?」
「……まぁ、少しだけ」
歯切れの悪い返事をしながら、そっとピアノの蓋を閉じる高梨に首を傾げる。
「あれ、もう弾かないの?」
「こんな時間だし、誰も聞いてないと思ってた。誰かいるなら、弾かないよ」
そう笑った顔がどこか寂し気で、その表情に釣られるように音楽室に足を踏み入れた。
「ごめん!」
咄嗟にそう謝る。素通りしておけば、高梨にこんな顔させる事無かったのに、という後悔が溢れてくる。
「部活終わって、帰ってたんだけど、ピアノの音が聞こえてきて。いつもだったら、それで終わるんだけど、何て言うか…」
説明しながら先ほどの自分の中の衝動に目を向ける。
「……音色が、凄く優しくて。俺、この音好きだなって思って……。思わず、誰が弾いてるのか気になって、それ以上何も考えずに来ちゃった。でも、邪魔したよね。俺もう帰るから、俺が消えたら続き弾いて……」
早口でそう捲し立てる。静かに聞いていた高梨の表情が、段々と驚きに染まっていくのが見えた。何に対して驚いているのかは分からないけど、俺はただただ申し訳なくて、もう一度ごめんと謝罪を口にした。
正直に言えば、あのピアノの音を二度と聞けないと思うと悲しかったけれど、人が嫌がることはしたくない。
「じゃあ、また明日、教室で……」
無理やり笑って手を振る。そして、高梨に背を向けた……。
「待って!」
高梨の大きな声が、音楽室に響き渡る。驚いて振り返れば、長い足を生かして、速足で近づいて来る高梨と目が合った。目の前で止まった高梨を見上げると、うっすらと耳の先が赤くなっているのが見えた。
「ごめん、さっきの、もう一回言ってほしい」
「え、何を……?」
高梨が、少し上ずった声で続ける。
「好きって……」
直接的な二文字の言葉にドキリとしたが、さっき俺が言ったんだったと思い直す。高梨を見上げながら、望まれるままもう一度……
「好きだよ。高梨のピアノの音、優しくて、すげぇ好き」
聞こえて来た音に感じた高揚感がそのまま伝われば良いなと、心を込めて言葉にしたそれは、どうやら真っすぐ高梨に届いたらしい。
最後まで聞き終えた高梨の表情が、ゆっくりと変化していく。
整っていると言われる、切れ長な二重の目は優しく弓を描き、左右対称な両端の口角が上に上がって、恐ろしく綺麗な笑顔が誕生した……。
その顔を見た瞬間、背筋がゾクっと震え、心臓がバクバクと大きな音を立て始めた。右手の人差し指が、ピクリと反応する。熱くなった頬と耳に気づかないフリをした。
撮りたいと思った。今、高梨が浮かべているその笑顔を切り取って、自分の手で、現実に起こしたいと強く思った。ここまで強烈に誰かを撮りたいと思ったのは、カメラを手にしてから初めての事だった……。
「ありがとう、古谷。そう言ってくれたのは、人生で古谷が二人目だ……」
「二人目…?」
その言葉が気になったが、自分の欲望を押さえつけるのに必死で、それどころでは無かった。
すると突然、高梨が俺の右手を両手で強く握った。そんな行動に白黒させた俺は、「どういたしまして」と返し、高梨の笑みが更に深くなったのを見た。
「あの、高梨、手を……」放してほしいと言外に伝えれば、「ああ」と言った高梨はそのまま俺の手を引いて、ピアノの前まで誘導した。
「古谷、弾いてほしい曲あったら弾くけど」
「…えっ、良いの?あ、ごめん……」
「うん、良いよ」
ピアノの前でやっと離された手には、高梨の熱が残っていてそれを誤魔化す様に、ギュっと握りしめる。
高梨は、閉めた蓋を開けながら椅子に座った。
「あ、でも俺、曲あんまり知らなくて。……ごめん」
音楽の授業もっと真剣に聞いてれば良かったと後悔しながら、せっかくの申し出にあいまいに返事を返す。
「じゃあ、さっきの曲をもう一回弾くね」
そんな俺に、優しく提案してくれる高梨は、ずっと笑顔を浮かべている
高梨の、細く節だった長い指が滑らかに動いて音を奏で始める。その美しい音を奏でる手が、先ほどまで俺の手を握っていたのかと思うと、冷めた熱がぶり返してくる。
「これはね、ショパンの曲で、夜想曲第2番変ホ長調。有名な曲だから聞いたことあると思う」
「うん、聞いたことある」
迷うことなく指を動かしながら、俺の方を見て話す高梨に、「少し弾ける」というレベルを優に超えている事は分かる。
「これ、好き?」
「うん。好き」
「そっか……」
笑う高梨に釣られ、俺も笑う。
緩やかなリズムに優しい音色の曲は、5分ほどで終わった。音が止んで、突然静かになった。聞くのに夢中になっていた俺は、ワンテンポ遅れて拍手をした。
「高梨、凄い!めっちゃ上手い!」
「そんな事無いよ、普通だよ」
そう謙遜する顔に、最初の悲しそうな色は見えない。その事に安堵しつつ、手放しでほめ続ける。
「俺クラシックとか普段聞かないけど、楽譜見ないで、1曲弾き終わるって凄い事なのは、分かるよ」
「間違ったところもあるよ」
「大丈夫、俺はどこが間違ったのか分かんなかった」
「それは、良かった」
椅子から立ち上がった高梨が、床に置いていたリュックを手に取る。「帰ろう」と声をかけられて、ついて行く形で音楽室を後にする。
「てか、俺たちってクラスは同じだけど、あんまり話したこと無いよな」
「そうだな、席も近くないし」
「さすがに、名前くらいは知ってるけど」
「まぁ、そのくらいだな」
それから、お互いに電車通学だと知った俺たちは、一緒に帰る道すがら、お互いについて話した。
高梨は、幼いころから中学に上がるまでピアノをやっていて、今では趣味程度なこと。兄がいること。休みの日は、家から出ない事。
俺は、妹がこの学校の中等部に通っていて、今の学校を選んだ事。部活は写真部で、映画を観る事が好きなこと。去年バイト代貯めて、一眼レフのフィルムカメラを購入した事。
そんなどうでもいい話をした。そして、連絡先を交換した。
「また弾いてくれる?」
帰り際にそう尋ねれば、先ほどと同じ笑顔で、「古谷になら良いよ」と約束までもらってしまった。
その日は、眠りにつくまでずっと、高梨に弾いてもらったノクターンを、配信で聞きながら過ごした。誰が弾いているかは分からなかったけれど、俺はやっぱり、高梨の音の方が好きだと思った……。
そしていつか、あの笑顔を撮りたいと願いながら、眠りについた……。
