天才プログラマーは今日も俺に用がない

 第1章 出会い

 普段なら、終業のチャイムが鳴った瞬間に教室を飛び出していくような連中が、今日はベニヤ板を抱えて廊下を走り回っている。
 文化祭前のこの時期は、学校全体が異様な熱気に包まれる。

「赤のペンキ、どこ?」
「そこにあるけど、絶対足んねぇわ」
「マジかよ。誰か買ってこいって!」

 野太い声が飛び交い、電動ドリルのけたたましい音が響く。廊下の真ん中では、積み上げられた段ボールが誰かの肩にぶつかって崩れ落ち、頭に直撃した奴が「いってぇ!」と叫んだ。それを見た連中が、腹を抱えて笑っている。

 そんな祭り騒ぎから少し離れた、科学室の前。

 俺は、ドアに耳をぴたりと押し当てていた。

 ……無音。

 物音ひとつしない。

 爆発音もなければ、怪しげな独り言も聞こえない。

 いや、待て。

 これは逆に怖いんじゃないだろうか。

 嵐の前の静けさ、というやつかもしれない。

 何しろ、この扉の向こうには、マッドサイエンティストがいるのだ。

 白衣を着て、怪しげな薬品を調合している。完成した薬を闇ルートで流通させている。もしかしたら、人体実験にまで手を出しているかもしれない。

 ……いや、さすがに最後のはないか。

 でも、天才っていうのは、常人には理解できないことを平気でやるものだ。

 そういうことにしておこう。

 俺はドアノブに手をかけた。

「お、水月じゃん」

 不意に背後から声がした。

 肩がびくりと跳ねる。振り向くと、段ボールを抱えた同級生が、俺を不思議そうに眺めていた。

「なにやってんの? 暇ならウチのクラス手伝ってくれよ」

「しーっ!」

 俺は反射的に人差し指を唇に当てた。

「静かにしろ。今、大事なところなんだ」

「は? 何が?」

「いいから、あっち行けって。俺は今から、強大な敵と対峙するところなんだ」

 同級生は一瞬きょとんとしたあと、俺と科学室のドアを交互に見た。

「……お前、また変なもん頼まれたの?」

「またって何だよ。今回はマジでヤバいんだって」

「はいはい。頑張れよー」

 完全に面倒くさがられた。

 段ボールを抱え直した同級生は、さっさと廊下の向こうへ行ってしまう。

 俺はひとつ深呼吸をして、改めてドアに向き直った。

 念のため、ドアの隙間に鼻を近づけてみる。

 くん、くん。

 怪しい匂いはしない。

 薬品の刺激臭も、焦げたような匂いもない。少なくとも、何かを爆発させた直後というわけではなさそうだ。

 よし。

 頼む。せめて、会話が成立する奴であってくれ。

「失礼しまーす……」

 ドアを十センチほど開け、隙間から中をうかがう。

 煙で視界が塞がれている、なんてことはなかった。

 もう少しだけ開けて、そっと頭を突っ込む。

 シーン。

 そんな擬音がそのまま聞こえてきそうなくらい、科学室は静まり返っていた。

 窓際の実験台には、使われていないビーカーや試験管が並んでいる。

 黒板には前の授業で書かれたらしい数式が残っていたが、少なくとも、怪しげな実験が進行している様子はない。

 そして、いちばん奥の机に、ひとりだけ男子が座っていた。

 背が高い。

 座っているのに、そう思った。机の下では長い脚が窮屈そうに折り曲げられている。

 黒い前髪は目元にかかるほど長く、縁のないメガネの奥に、視線が隠れていた。

 手元には、薄い文庫本が一冊。

 ……普通だ。

 どこからどう見ても、普通の男子だった。むしろ、地味といってもいい。

 白衣も着ていなければ、机の上に怪しげな薬品が並んでいるわけでもない。闇取引どころか、今のところ犯罪の気配すらなかった。

 俺が想像していたマッドサイエンティストとは、ずいぶん違う。

 いや、油断するな。天才は見た目じゃわからない。

 俺がドアの陰から観察を続けていると、男子の指がページの端をつまんだ。

 紙が擦れる、小さな音。

 その指が止まった。

 ようやく、こちらに気づいたらしい。

 彼は文庫本に栞を挟むと、ゆっくり顔を上げた。

 メガネの奥の目が、まっすぐ俺を捉える。

 警戒しているようにも、驚いているようにも見えなかった。ただ、そこに人がいたことを今初めて認識したような、拍子抜けするほど自然な眼差しだった。

「あの……千葉君、だっけ?」

 俺が声をかけると、彼は小さく頷いた。

「はい。そうです」

 低くて、落ち着いた声だった。

「水月先輩ですよね」

「えっ。あ、うん。そう。」

 
 俺はドアに半分体を挟んだまま、ようやく本題を切り出すために息を吸った。

 ――さて、どうしてこんなことになったのか。

 話は、二週間前にさかのぼる。