――十数年前。
公女の話し相手として王宮に通っていた雪玲が、息苦しい礼儀作法から逃げ出した先。
罪を犯した妃が幽閉されるという、内宮の最奥にある『冷宮』の荒れ庭だった。
降りしきる冷たい雨の中、粗末な衣をまとい、泥にまみれてうずくまる黒髪の少年がいた。
鉄砂国から送られた人質だと、噂には聞いていた。
ろくな食事も与えられず、冷宮の片隅でただ生かされているだけの存在。
見咎めた幼い雪玲が恐る恐る近づくと、少年は雨に濡れた顔を上げ、傷ついた獣のような鋭い瞳で彼女を睨みつけた。
『あなたひとり?』
問いかけても、少年は何も答えない。
ひび割れた唇を固く結び、威嚇するように睨み返してくるだけだった。
しかし、その頬はひどく痩せこけ、泥に汚れた手足は寒さと飢えで小刻みに震えている。
『……もしかして、お腹すいてるの?』
警戒を崩さない少年に、雪玲は自分の差していた傘をその場に押し付けるように置いた。
『ちょっと待ってて!』
水たまりを跳ね上げながら走り、宮の台所番の目を盗んで、見よう見まねで不格好な握り飯を作った。
熱い飯を無理やり握ったせいで手のひらが赤くヒリヒリとしたが、そんなことより、あの雨の中で震える少年のことが気掛かりだった。
息を切らして戻ると、少年は押し付けられた傘の下で、少しだけ目を丸くして雪玲を見た。
差し出されたいびつな形の握り飯を、彼は奪い取るようにして口に押し込んだ。
泥だらけの手で、一粒残さず、必死に。
それが、二人の秘密の始まりだった。
それから雪玲は、務めを抜け出しては、隙を見て冷宮へ食べ物を運んだ。
少年は相変わらず無口だったが、差し出した飯を食べる瞳の奥には、確かに微かな温度が宿るようになっていた。
だがある朝、いつものように握り飯を隠し持って庭の片隅へ向かうと、そこには雨の音と冷たい静寂しかなかった。
昨日まで確かにそこにいたはずの彼の気配が、幻のように消え去っていたのだ。
一言の別れも、なく。
彼に何かあったのではないかと泣きながら探し回ったが、人質の少年が消えたことなど、我欲に溺れる腐敗した王宮の大人たちは誰一人気にも留めなかった。
――私だけが、あの子を失った朝に取り残された。
「……っ」
騒々しい荷車の車輪の音に、雪玲は現実に引き戻された。
見上げれば、自分を庇うように抱き寄せる燎芳の、氷のように整った横顔がある。
あの雨の庭で震えていた少年の弱さは、今の彼には微塵もない。
まるで泡沫の夢だったかと思うほどあっさりと消え去り、十数年の時を経て、雪玲からすべてを奪う征服者として戻ってきた男。
「……離して、ください」
雪玲は堪えきれず、その温かい腕を弱々しく押し返した。
突き飛ばすことなどできず、ただ縋るように彼の外套を握りしめ、震える声で問いを零してしまう。
混乱と悲痛が入り混じった雪玲の瞳が、燎芳を捕らえる。
「なぜ、あなたが、こんな……」
涙で滲みそうになるのを必死に堪える雪玲を、燎芳はただ静かに見下ろしていた。
「戻るぞ」
静かな声が一つ落ちただけ。
あまりにも彼との心が遠く、隔絶されたものであることを突きつけられる。
どこまでも分厚い氷に覆われたかのような無表情の奥で、彼の瞳がどんな色を浮かべていたのか、今の雪玲には読み取ることはできなかった。



