瑞鳳の雪は鉄砂の王に溶かされる

地下牢の冷たい石床を覚悟していた雪玲が案内されたのは、皮肉にも後宮で最も豪奢な場所だった。
かつての皇后の居所であり、奥まった場所に位置する玉瞬宮。
手入れの行き届いた庭園を望むその部屋には、月光を吸って鈍く光る上質な絹の寝具と、精緻な細工が施された美しい調度が整えられていた。

「……戦利品の置き場にしては、随分と上等な檻ね」

案内役を務めた烏月という男に向かって、雪玲は警戒を隠さずに言い放った。
先刻、大広間でただ一人笑いを噛み殺していたこの男は、どこか飄々とした足取りで室内の燭台に火を灯していく。
ふわりと、甘すぎるほどの香が立ち上った。

「お気に召しませんか? すべて殿下のご指示でして」

軽い口調で応じる烏月だったが、長く伸びた前髪の隙間から覗く双眸は、恐ろしいほど鋭く周囲の気配を読んでいる。
彼は瑞鳳国を蹂躙した敵国、鉄砂の第三王子である燎芳の忠実なる影であり、この優雅な軟禁が厳重な監視下にあることを物語っていた。

夜が更け、食膳が運ばれてきても、雪玲は決して手を出そうとはしなかった。
ただ窓辺に座り、いまだ王宮を焼いているであろう煙の匂いが残る夜空を睨みつけている。

「毒見なら、とうに済ませてありますよ」

扉の影から呆れたように言う烏月に、雪玲は冷たい視線を返した。

「食欲なんてわかないわ……」

そう言い返しながらも、雪玲の視線は無意識のうちに、食膳の片隅に添えられた小鉢に引き寄せられていた。
そこには、獣肉や香辛料をふんだんに使う鉄砂国の料理には似つかわしくない、ふんわりと卵を落とした薄味の粥から、微かな湯気が上がっていた。
炎と煙の中を逃げ回ったせいで、雪玲の喉は砂を噛んだようにぴりぴりと焼け付いている。

結局ひとつも手を付けなかった食膳が下げられた後、今度は名も知らぬ女官が翡翠でできた小さな薬壺を持ってきた。
逃げ遅れた年少の女官たちを庇った際、雪玲の右手の甲には、皮膚が爛れるほどのひどい火傷ができていた。
着物の袖口に隠し、誰にも見せていないはずの傷だ。

「誰からのものですか」

「わ、私は……命じられただけですので」

怯えたように逃げるように去っていく女官の背中を見送り、雪玲は薬壺を卓に冷たく突き返した。
敵からの施しなど受けない。
そう強がったものの、深夜になると火傷の痛みは心臓の鼓動に合わせて鋭く脈打ち、焼けた鉄を押し当てられているような熱を帯びて彼女から眠りを奪ってゆく。
痛みに耐えかね、雪玲は夜の闇に隠れるようにして、こっそりとその軟膏を肌にすり込んだ。

――ひやり。

雪の結晶を乗せたような冷たい薬効が、異様なほどの早さで焼け付く痛みを散らしていく、空虚の中にぽつりと沁みる安堵に罪悪感を覚え、人知れず涙をこらえようとするも、一度零してしまった雫はとめどなく頬を伝い落ちる。
両手で口元を覆い、かろうじて這い上がってくる声を殺そうとすると、ひくつく胸は、みっともなく上下する。

外の混乱とは真逆で、残酷なほどに静かな幽寂の中、ふいに重い扉が開く音がした。

顔を上げた雪玲は息を呑む。
冷ややかな月明かりを背負って部屋に入ってきたのは、夜着を羽織った燎芳だった。
足音すら立てない、誰何さえもない深夜の訪問。
雪玲は咄嗟に薬の匂いが残る火傷の手を背後に隠し、警戒も露わに彼を睨み据えた。

「何の御用ですか。……それとも、戦利品の品定めでしょうか」

「君が大人しくしているか、見に来たまでだ」

燎芳の声は酷薄で、人の持つ体温や抑揚というものが一切抜け落ちていた。
雪玲は彼に一歩歩み寄り、ずっと胸を締め付けていた問いをぶつけた。

「私の……父は、どこにいるのですか。もう打ち捨てましたか」

監察長官である父の安否。
それが分からなければ、この美しい牢獄で息をすることすら罪に思えた。
しかし、燎芳は極寒の夜空のような凍てつく双眸で雪玲を見下ろしただけだった。

「捕虜の問いに答える義理はない」

「答えて! 父上は……あなたは、あの雨の庭で震えていたあの子(・・・)ではないの?」

悲痛な声が玉瞬宮に響く。
国を奪われ、それでも信じたいと縋るような雪玲の叫びに、燎芳の氷のような瞳の奥が、ほんの一瞬だけ、ひび割れたように痛ましげに揺らいだ。
だが、それは瞬きをする間に消え去り、再び分厚い無表情の鎧が彼を覆い尽くす。

「――あの子(・・・)はもう、どこにもいない」

吐き捨てるように告げると、彼は雪玲を見切るように冷たく背を向けた。
その去り際、燎芳の指先がわずかに持ち上がる。
だが何かに耐えるように空を切るように止まり、やがて力なく下ろされた。

再び部屋に鼓膜が痛いほどの静寂が落ちる。

一人残された雪玲は、薬の匂いが染み付いた震える両手で顔を覆った。
憎まなければならない。
彼は祖国を踏みにじり、父を奪った冷酷な征服者なのだから。