瑞鳳の中枢を舐め上げる業火は、雅を極めた王宮の空気を暴力的な熱へと変えていた。
「泣かないで。裏の通用門まで走るのよ」
火の粉が舞い、肺を焦がすような紫煙の中で、雪玲は引きつる喉から声を絞り出した。
身に纏う香が血の匂いと混ざり合い、ひどくむせ返る。
迷路のような回廊を駆ける足裏には、焼け焦げた木片の嫌な感触が刺さる。
城門が破られたという報せからどれほどの時が過ぎたか。
不正を憎み、国に忠義を尽くしてきた監察長官である父の安否を祈る心の余裕すら、一秒ごとに削り取られていく。
奇妙なことに、雪玲が選んだ裏道だけは、不自然なほど火の手が凪いでいた。
だが、熱気から逃れられたと安堵したのも束の間、焦げた血の風を切り裂くように、鉄砂国の黒い甲冑をまとった兵たちの重い足音が退路を完全に塞ぐ。
抜き身の刃が放つ冷たい光に直面した絶望の中、不意に十数年前の記憶が脳裏を掠めた。
冷たい雨が降る庭の片隅。
ひび割れた唇をし、膝を抱えてうずくまっていた、やせ細った人質の少年。
こっそりと半分に割った握り飯を差し出すと、雨水に濡れた警戒心の強い瞳が、ほんのわずかに温度を持った、あの——。
「捕らえろ!」
鼓膜を打つ怒声に、雪玲は咄嗟に両手を広げ、年少の女官たちを背にかばった。
抵抗する間もなく屈強な腕にねじ上げられ、体温を奪う冷たい石畳へと顔を押さえつけられる。
絶望が喉の奥で悲鳴に変わろうとした、その時だった。
「――手を離せ」
這いずるような、ひどく低く、声が落ちた。
押さえつけていた兵士たちが、後ずさる。
引き立てられた先は、かつて瑞鳳の帝が座した外朝の中央に位置する至鳳殿だった。
玉座の傍ら、逆光の奥に立つ長身の男。
周囲を固める将たちが、畏怖と狂熱を込めて彼を「燎芳殿下」と呼ぶたび、雪玲の全身から血のの気が引いていく。
揺らめく松明の暴虐な光が、侵略者の長たる男の輪郭を舐め上げた。
その瞬間、雪玲は息を止めた。
視界を圧迫するほどの広い肩幅。
黒金の甲冑越しにもわかる分厚い胸板。
他者を物理的に射抜くような、鋭く凪いだ双眸。
「……燎……芳……?」
渇ききった唇から、無意識にその名がこぼれ落ちた。
その刹那。
厚い黒衣に包まれた腕がかすかに揺れ――無造作に下ろされた長い指先が、わずか震える。
あの雨の中で震えていた少年の面影など欠片もない。
だが、氷のように整ったその目鼻立ちには、確かにかつての彼の名残が張り付いている。
男は足元に引き据えられた雪玲を見下ろしても、表情筋ひとつ動かさなかった。
路傍の石ころでも見るかのような、徹底して無機質な他者への視線。
静まり返る広間に、将の一人が進み出る。
「殿下、この女は先の内定通り、監察長官の娘にございます。他の者たちと共に、直ちに処断いたしますか」
男の――燎芳の瞳の奥で、ほんのわずかに光の粒子が揺れた。
彼から一歩も視線を外さなかった雪玲にしか気づけないほどの、微かな瞬き。
死の痛みを絶望した鼓膜に、氷の刃のような声が突き刺さった。
「この女は――戦利品として扱う」
凍てつく声が、広間の熱気を一瞬にして奪い去る。
「玉瞬宮へ連れて行け」
予想外の宣言に、将たちの間にどよめきが走った。
なぜこの娘だけを特別扱いするのか。
戸惑いの視線が交錯する中、ただ一人、燎芳の背後に控える影のような側近である烏月だけが、深く顔を伏せてひっそりと笑いを噛み殺している。
雪玲の耳には「戦利品」という言葉だけが、屈辱の重さを持って反響し続けていた。
両脇を固められ、荒々しく連行されながら、雪玲は無粋な殺戮者の途方もなく広い背中を強く睨みつけた。
あの子が、私を戦利品と呼ぶはずがない。
あの子が、こんな無惨な真似をするはずがない。
胸の奥で叫ぶ声は、煙を上げて崩れゆく故郷の光景の前に、無力にも掻き消されていく。
それを激しい憎悪で必死に塗りつぶした
彼はもう、一緒に庭の隅で笑い合った燎芳ではない。
私の国を、父の守ろうとしたものを踏みにじった残虐な征服者なのだ。
(私は、あなたを絶対に許さない)
引きずられるように回廊の角を曲がる刹那。
背中に、ひりつくような気配が追ってきた気がした。
ハッとして振り返る。
だがしかし、そこには、煤けた夜の黒が重く垂れ込めているだけで、誰もいなかった。
「泣かないで。裏の通用門まで走るのよ」
火の粉が舞い、肺を焦がすような紫煙の中で、雪玲は引きつる喉から声を絞り出した。
身に纏う香が血の匂いと混ざり合い、ひどくむせ返る。
迷路のような回廊を駆ける足裏には、焼け焦げた木片の嫌な感触が刺さる。
城門が破られたという報せからどれほどの時が過ぎたか。
不正を憎み、国に忠義を尽くしてきた監察長官である父の安否を祈る心の余裕すら、一秒ごとに削り取られていく。
奇妙なことに、雪玲が選んだ裏道だけは、不自然なほど火の手が凪いでいた。
だが、熱気から逃れられたと安堵したのも束の間、焦げた血の風を切り裂くように、鉄砂国の黒い甲冑をまとった兵たちの重い足音が退路を完全に塞ぐ。
抜き身の刃が放つ冷たい光に直面した絶望の中、不意に十数年前の記憶が脳裏を掠めた。
冷たい雨が降る庭の片隅。
ひび割れた唇をし、膝を抱えてうずくまっていた、やせ細った人質の少年。
こっそりと半分に割った握り飯を差し出すと、雨水に濡れた警戒心の強い瞳が、ほんのわずかに温度を持った、あの——。
「捕らえろ!」
鼓膜を打つ怒声に、雪玲は咄嗟に両手を広げ、年少の女官たちを背にかばった。
抵抗する間もなく屈強な腕にねじ上げられ、体温を奪う冷たい石畳へと顔を押さえつけられる。
絶望が喉の奥で悲鳴に変わろうとした、その時だった。
「――手を離せ」
這いずるような、ひどく低く、声が落ちた。
押さえつけていた兵士たちが、後ずさる。
引き立てられた先は、かつて瑞鳳の帝が座した外朝の中央に位置する至鳳殿だった。
玉座の傍ら、逆光の奥に立つ長身の男。
周囲を固める将たちが、畏怖と狂熱を込めて彼を「燎芳殿下」と呼ぶたび、雪玲の全身から血のの気が引いていく。
揺らめく松明の暴虐な光が、侵略者の長たる男の輪郭を舐め上げた。
その瞬間、雪玲は息を止めた。
視界を圧迫するほどの広い肩幅。
黒金の甲冑越しにもわかる分厚い胸板。
他者を物理的に射抜くような、鋭く凪いだ双眸。
「……燎……芳……?」
渇ききった唇から、無意識にその名がこぼれ落ちた。
その刹那。
厚い黒衣に包まれた腕がかすかに揺れ――無造作に下ろされた長い指先が、わずか震える。
あの雨の中で震えていた少年の面影など欠片もない。
だが、氷のように整ったその目鼻立ちには、確かにかつての彼の名残が張り付いている。
男は足元に引き据えられた雪玲を見下ろしても、表情筋ひとつ動かさなかった。
路傍の石ころでも見るかのような、徹底して無機質な他者への視線。
静まり返る広間に、将の一人が進み出る。
「殿下、この女は先の内定通り、監察長官の娘にございます。他の者たちと共に、直ちに処断いたしますか」
男の――燎芳の瞳の奥で、ほんのわずかに光の粒子が揺れた。
彼から一歩も視線を外さなかった雪玲にしか気づけないほどの、微かな瞬き。
死の痛みを絶望した鼓膜に、氷の刃のような声が突き刺さった。
「この女は――戦利品として扱う」
凍てつく声が、広間の熱気を一瞬にして奪い去る。
「玉瞬宮へ連れて行け」
予想外の宣言に、将たちの間にどよめきが走った。
なぜこの娘だけを特別扱いするのか。
戸惑いの視線が交錯する中、ただ一人、燎芳の背後に控える影のような側近である烏月だけが、深く顔を伏せてひっそりと笑いを噛み殺している。
雪玲の耳には「戦利品」という言葉だけが、屈辱の重さを持って反響し続けていた。
両脇を固められ、荒々しく連行されながら、雪玲は無粋な殺戮者の途方もなく広い背中を強く睨みつけた。
あの子が、私を戦利品と呼ぶはずがない。
あの子が、こんな無惨な真似をするはずがない。
胸の奥で叫ぶ声は、煙を上げて崩れゆく故郷の光景の前に、無力にも掻き消されていく。
それを激しい憎悪で必死に塗りつぶした
彼はもう、一緒に庭の隅で笑い合った燎芳ではない。
私の国を、父の守ろうとしたものを踏みにじった残虐な征服者なのだ。
(私は、あなたを絶対に許さない)
引きずられるように回廊の角を曲がる刹那。
背中に、ひりつくような気配が追ってきた気がした。
ハッとして振り返る。
だがしかし、そこには、煤けた夜の黒が重く垂れ込めているだけで、誰もいなかった。



