四月六日、土曜日。普通学級は半日で終わり、守護課の講義もない日であった。快晴は安いし量が多いから、と学食へ向かった。昼食を済ませると、寮へは戻らず、学園を後にした。
懐に畳んで入れておいた紙袋を取り出す。
春霞堂。
ホクホクの皮に、食感と甘さが絶妙な餡。翌朝食べようと思っていたあの饅頭への未練が、快晴を街へと誘っていた。
春大通で通りがかりの人に紙袋を見せると、店の場所はすぐそこだという。通りと交わる二本目の道を左に曲がると、その店はあった。
軒先には湯気が立ち上り、先客が三人並んでいる。三十分も並ばずにありつける、と快晴は幸運に感謝した。
その喜びは、店員の一声によって終わりを告げた。
「あ、後ろのお客さん、すみません。午前分、これで最後なんです……」
申し訳なさそうに謝られれば、いいんです、と返すしかない。快晴は肩を落とし、店に背を向けた。
午後分は十五時蒸し上がりです、という声は、言葉として耳に入らなかった。
***
目的を失った快晴は、しばらく通りをうなだれて歩いていた。
だが、ふと思い至る。饅頭屋は、ここだけではない。
(こうなったら、もっと美味い饅頭を……いや、中央にしかない小洒落た甘味を見つけてやる)
快晴は目的を切り替え、物色を始める。
田舎の村では見た事のない、色とりどりの看板や外観の店々。何の店かと近づいて硝子窓を覗き込む。陳列された時計に服に文房具。甘味屋でなくても、楽しい。通りの奥には灰色の煙突が見える。近づいてみると、銭湯であった。裏口から上半身裸の男が数名、汗だくで出てくる。火守――火の術を得意とする、夏の国の者が多くなる職業だ。湯を沸かすのにこんなに人数がいるのだろうか。さすが、大きな風呂ともなれば違う。
その技に命をかける職人には頭が上がらない。ここは今度絶対に来よう、と誓ったその時だった。
「あ、君、ここにいたんだ」
若い男の声だった。快晴が振り返ると、どこかで見たような男が紙袋を片手に歩み寄ってくる。春霞堂……そうだ。快晴の目の前で最後の饅頭を攫った男であった。
「いやね、なんか悪い事したなって、追いかけて来たんだよ」
「え!」
思いがけない言葉に、快晴は驚いた。一瞬、邪な心が首をもたげたことを恥じる。
「ほら、これ。俺、三個も買っちゃったからさ、一個どうぞ」
「いやいや、そんな悪いですよ!」
と言いながら、快晴は差し出された饅頭を見やる。ほのかに湯気が立っており、見るからに美味しそうで頬が緩んだ。
「そんな顔されちゃ、引っ込めるわけにはいかないな」
青年がニカッと笑う。快晴も照れ隠しに頭をかきながら笑った。
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なくいただきます!」
往来でそのままがっつこうとする快晴を、青年は路肩の花壇へ誘い、自分もそこへ腰を下ろした。
***
「ここの饅頭、美味いよなぁ。俺、週一で通ってる」
「そうなんですか? いいなぁ。俺、日曜日にここに来たばかりで」
「あぁ、新入生なんだ。そういえばその腕章、守護だよね。今年は守護年だったか」
左腕を指さされ、快晴は誇らしい気持ちになった。饅頭の甘さもあり、自然に笑みがこぼれる。
「俺、皐月快晴って言います。皐月国から来ました」
「俺は史部史郎。中央の春地区で史官してる」
「史官……て、村にたまに旅装束に黒い帽子の人が来たけど、あの?」
「そうそう、国の記録係。皐月から来たなら春大門通ったよな? 俺、大体入口に立ってる」
快晴が記憶を辿ると、確かにそんな人物がいた気がする。
「じゃあ、もしかしたら会ってたかもしれませんね」
「かもな」
饅頭を平らげた後も、二人は雑談を交わした。快晴がまだ中央について何もわからないと知ると、史郎は甘味なら春地区、夕飯なら秋地区、とお勧めの店を紹介してくれた。どうやら食通らしい。途中、二人の術師が花壇の上にだけ器用に水を注いで通り過ぎていった。
「俺、こんな仕事してるからか、何を食べたか記録するのが趣味なんだよね」
そういって見せてくれた手帳には、覚え書きとともに、甘味や食事の数々が流麗な筆で記されていた。
「うわー、どれも美味そうー……これ、史部さんが書いたんですか?」
「まぁな」
史郎が胸を張ってみせる。快晴の反応に満足しているようだった。
「そうだ、折角新しい環境に来たことだし、君も書いてみれば? 日記とか」
「えぇ、日記!? いやぁ、自慢じゃないんですけど、あまりマメな方じゃなくて……」
快晴が苦笑しながら頬を掻く。
「そう気負わなくていいんだって。今日食った饅頭が美味かったとか、こんな店教わったとか、そんなんでいいんだよ。で、慣れたら学校でこんな事教わったとか書きたくなるわけ。それを一年後に見直したら、こんなことできなかったんだ俺!? とか思っちゃうわけよ。楽しいじゃん、成長が見えるの。そしてここが史官的浪漫点なんだが、日記や書物は四季国の歴史書の糧になるんだよ!」
「れ、歴史書?」
一息に喋り切った史郎が、興奮した様子で顔を寄せてくる。快晴はたじろいで身を引いた。
「あぁ。『四季歳華』って聞いた事あるだろ? 四季国王だけが見られるっていう、伝説の歴史書のこと。そこに俺達の記録が入り込む」
「お、おぉ……」
「俺達が歴史の一頁を作っているなんて、なんか格好良いだろ?」
「それは、ちょっと格好良いかも……!」
史郎の力説に絆されて、快晴は瞳を輝かせた。
「だろだろ? ほら、これやるからさ、今日から書いてみ?」
そういうと史郎は懐から予備の手帳を取り出し、快晴に押し付けた。
「饅頭ももらっちゃったし、流石に悪いですよ!」
快晴が両手を胸の前で振り、受け取りかねていると、「入学祝いだと思ってさ」と、その手に握らせてくる。
断りきれないと悟った快晴は、手帳を両手で受け取り直した。
「……じゃあ、いつか書いたやつ、見せます」
「お、いいね。今日から俺達日記友達じゃん、快晴」
言ってしまってから、史郎が慌てたように手を振る。
「あ、悪い。つい呼び捨てにしちゃった」
「気にしないでください! 年上の友達ができて嬉しいです」
中央には面白い人が沢山いるようだ。快晴に笑みがこぼれた。既に日は傾き始めていた。
***
その晩。
「で、乗せられて貰ってきちゃったワケか、手帳」
快晴が机に向かっていると、物珍しげに覗き込んだ晦が軽口を叩いた。
「なんかいいなって思ったんだよなー」
「どうせ三日坊主だろうが、せいぜい頑張んな」
慣れない行為に、最初こそ筆が止まった。それでも意外と楽しく、快晴は初回の日記を書き終える。
まずは史郎の言っていたとおりに、饅頭が美味かったことと、教わった店を書いてみた。すると、これを書くきっかけとなった史郎についても書きたくなる。これは忘れてはいけない、と桃果との出会いを書こうとして、少し手が止まった。饅頭を放り込まれたこと、抱き着かれて胸が鳴ったこと、それから酸欠になりかけたこと。それくらいだった。
(向こうは、俺のことをよく知ってたみたいなのに)
快晴の脳裏にあの日の桃果の姿がよぎる。桃果は泣いていた。理由を聞いてしまったら、彼女を忘れていたと突き付けることになる。快晴はしばらく考えたが、答えは出なかった。何度か書きかけた問いにぐしゃりと墨を引く。そのまま筆を進め、この一週間の普通学級や守護課であったことも綴った。
「そういえば晦、斗傘って覚えてる?」
「野郎のことなんか覚えてねーよ」
興味を失った晦が、部屋の隅に作ってやった寝床へ飛び降りる。その口ぶりから、快晴はどうやら覚えてはいそうだな、と思った。
「守護課にいたんだよ、斗傘。最初、なんか見覚えある気がしたけど、わかんなかったなー。髪染めてたし。なのにあいつ、お前はそのままだからすぐわかったっていうんだぞ? そんなに変わってないのかな……?」
快晴は部屋に備えられた丸鏡を覗き込んだ。少し跳ねた赤みのある茶色い髪は、確かに変わっていないように思う。
「お前は変わってないぜ、快晴。俺がいないと駄目な所なんかとくにな」
「ひでぇ」
「まぁそう落ち込むなって。お前にも良い所、沢山あるって。多分な」
寝床に仰向けになった晦は、街で買って来たらしい漫画の一巻を開いている。
「お前に聞いた俺が馬鹿でした」
快晴が吐き捨てた。晦がちらりと快晴を見た。
「ま、日記つけときゃ合宿みたいに忘れねーかもな」
漫画に目を戻しながら、軽い口調で言った。
それは、確かに。
なぜか思い出せない事柄に一抹の不安を覚えながら、これがあればもう大丈夫という心強さも感じる。
ともあれ、明日は休日だ。快晴が筆を置いて椅子を引き、晦の隣に寝転がると、張り替えたばかりのイグサの香りがした。晦に枕代わりにされていた二巻を引き抜き、共に読み始めた。
懐に畳んで入れておいた紙袋を取り出す。
春霞堂。
ホクホクの皮に、食感と甘さが絶妙な餡。翌朝食べようと思っていたあの饅頭への未練が、快晴を街へと誘っていた。
春大通で通りがかりの人に紙袋を見せると、店の場所はすぐそこだという。通りと交わる二本目の道を左に曲がると、その店はあった。
軒先には湯気が立ち上り、先客が三人並んでいる。三十分も並ばずにありつける、と快晴は幸運に感謝した。
その喜びは、店員の一声によって終わりを告げた。
「あ、後ろのお客さん、すみません。午前分、これで最後なんです……」
申し訳なさそうに謝られれば、いいんです、と返すしかない。快晴は肩を落とし、店に背を向けた。
午後分は十五時蒸し上がりです、という声は、言葉として耳に入らなかった。
***
目的を失った快晴は、しばらく通りをうなだれて歩いていた。
だが、ふと思い至る。饅頭屋は、ここだけではない。
(こうなったら、もっと美味い饅頭を……いや、中央にしかない小洒落た甘味を見つけてやる)
快晴は目的を切り替え、物色を始める。
田舎の村では見た事のない、色とりどりの看板や外観の店々。何の店かと近づいて硝子窓を覗き込む。陳列された時計に服に文房具。甘味屋でなくても、楽しい。通りの奥には灰色の煙突が見える。近づいてみると、銭湯であった。裏口から上半身裸の男が数名、汗だくで出てくる。火守――火の術を得意とする、夏の国の者が多くなる職業だ。湯を沸かすのにこんなに人数がいるのだろうか。さすが、大きな風呂ともなれば違う。
その技に命をかける職人には頭が上がらない。ここは今度絶対に来よう、と誓ったその時だった。
「あ、君、ここにいたんだ」
若い男の声だった。快晴が振り返ると、どこかで見たような男が紙袋を片手に歩み寄ってくる。春霞堂……そうだ。快晴の目の前で最後の饅頭を攫った男であった。
「いやね、なんか悪い事したなって、追いかけて来たんだよ」
「え!」
思いがけない言葉に、快晴は驚いた。一瞬、邪な心が首をもたげたことを恥じる。
「ほら、これ。俺、三個も買っちゃったからさ、一個どうぞ」
「いやいや、そんな悪いですよ!」
と言いながら、快晴は差し出された饅頭を見やる。ほのかに湯気が立っており、見るからに美味しそうで頬が緩んだ。
「そんな顔されちゃ、引っ込めるわけにはいかないな」
青年がニカッと笑う。快晴も照れ隠しに頭をかきながら笑った。
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なくいただきます!」
往来でそのままがっつこうとする快晴を、青年は路肩の花壇へ誘い、自分もそこへ腰を下ろした。
***
「ここの饅頭、美味いよなぁ。俺、週一で通ってる」
「そうなんですか? いいなぁ。俺、日曜日にここに来たばかりで」
「あぁ、新入生なんだ。そういえばその腕章、守護だよね。今年は守護年だったか」
左腕を指さされ、快晴は誇らしい気持ちになった。饅頭の甘さもあり、自然に笑みがこぼれる。
「俺、皐月快晴って言います。皐月国から来ました」
「俺は史部史郎。中央の春地区で史官してる」
「史官……て、村にたまに旅装束に黒い帽子の人が来たけど、あの?」
「そうそう、国の記録係。皐月から来たなら春大門通ったよな? 俺、大体入口に立ってる」
快晴が記憶を辿ると、確かにそんな人物がいた気がする。
「じゃあ、もしかしたら会ってたかもしれませんね」
「かもな」
饅頭を平らげた後も、二人は雑談を交わした。快晴がまだ中央について何もわからないと知ると、史郎は甘味なら春地区、夕飯なら秋地区、とお勧めの店を紹介してくれた。どうやら食通らしい。途中、二人の術師が花壇の上にだけ器用に水を注いで通り過ぎていった。
「俺、こんな仕事してるからか、何を食べたか記録するのが趣味なんだよね」
そういって見せてくれた手帳には、覚え書きとともに、甘味や食事の数々が流麗な筆で記されていた。
「うわー、どれも美味そうー……これ、史部さんが書いたんですか?」
「まぁな」
史郎が胸を張ってみせる。快晴の反応に満足しているようだった。
「そうだ、折角新しい環境に来たことだし、君も書いてみれば? 日記とか」
「えぇ、日記!? いやぁ、自慢じゃないんですけど、あまりマメな方じゃなくて……」
快晴が苦笑しながら頬を掻く。
「そう気負わなくていいんだって。今日食った饅頭が美味かったとか、こんな店教わったとか、そんなんでいいんだよ。で、慣れたら学校でこんな事教わったとか書きたくなるわけ。それを一年後に見直したら、こんなことできなかったんだ俺!? とか思っちゃうわけよ。楽しいじゃん、成長が見えるの。そしてここが史官的浪漫点なんだが、日記や書物は四季国の歴史書の糧になるんだよ!」
「れ、歴史書?」
一息に喋り切った史郎が、興奮した様子で顔を寄せてくる。快晴はたじろいで身を引いた。
「あぁ。『四季歳華』って聞いた事あるだろ? 四季国王だけが見られるっていう、伝説の歴史書のこと。そこに俺達の記録が入り込む」
「お、おぉ……」
「俺達が歴史の一頁を作っているなんて、なんか格好良いだろ?」
「それは、ちょっと格好良いかも……!」
史郎の力説に絆されて、快晴は瞳を輝かせた。
「だろだろ? ほら、これやるからさ、今日から書いてみ?」
そういうと史郎は懐から予備の手帳を取り出し、快晴に押し付けた。
「饅頭ももらっちゃったし、流石に悪いですよ!」
快晴が両手を胸の前で振り、受け取りかねていると、「入学祝いだと思ってさ」と、その手に握らせてくる。
断りきれないと悟った快晴は、手帳を両手で受け取り直した。
「……じゃあ、いつか書いたやつ、見せます」
「お、いいね。今日から俺達日記友達じゃん、快晴」
言ってしまってから、史郎が慌てたように手を振る。
「あ、悪い。つい呼び捨てにしちゃった」
「気にしないでください! 年上の友達ができて嬉しいです」
中央には面白い人が沢山いるようだ。快晴に笑みがこぼれた。既に日は傾き始めていた。
***
その晩。
「で、乗せられて貰ってきちゃったワケか、手帳」
快晴が机に向かっていると、物珍しげに覗き込んだ晦が軽口を叩いた。
「なんかいいなって思ったんだよなー」
「どうせ三日坊主だろうが、せいぜい頑張んな」
慣れない行為に、最初こそ筆が止まった。それでも意外と楽しく、快晴は初回の日記を書き終える。
まずは史郎の言っていたとおりに、饅頭が美味かったことと、教わった店を書いてみた。すると、これを書くきっかけとなった史郎についても書きたくなる。これは忘れてはいけない、と桃果との出会いを書こうとして、少し手が止まった。饅頭を放り込まれたこと、抱き着かれて胸が鳴ったこと、それから酸欠になりかけたこと。それくらいだった。
(向こうは、俺のことをよく知ってたみたいなのに)
快晴の脳裏にあの日の桃果の姿がよぎる。桃果は泣いていた。理由を聞いてしまったら、彼女を忘れていたと突き付けることになる。快晴はしばらく考えたが、答えは出なかった。何度か書きかけた問いにぐしゃりと墨を引く。そのまま筆を進め、この一週間の普通学級や守護課であったことも綴った。
「そういえば晦、斗傘って覚えてる?」
「野郎のことなんか覚えてねーよ」
興味を失った晦が、部屋の隅に作ってやった寝床へ飛び降りる。その口ぶりから、快晴はどうやら覚えてはいそうだな、と思った。
「守護課にいたんだよ、斗傘。最初、なんか見覚えある気がしたけど、わかんなかったなー。髪染めてたし。なのにあいつ、お前はそのままだからすぐわかったっていうんだぞ? そんなに変わってないのかな……?」
快晴は部屋に備えられた丸鏡を覗き込んだ。少し跳ねた赤みのある茶色い髪は、確かに変わっていないように思う。
「お前は変わってないぜ、快晴。俺がいないと駄目な所なんかとくにな」
「ひでぇ」
「まぁそう落ち込むなって。お前にも良い所、沢山あるって。多分な」
寝床に仰向けになった晦は、街で買って来たらしい漫画の一巻を開いている。
「お前に聞いた俺が馬鹿でした」
快晴が吐き捨てた。晦がちらりと快晴を見た。
「ま、日記つけときゃ合宿みたいに忘れねーかもな」
漫画に目を戻しながら、軽い口調で言った。
それは、確かに。
なぜか思い出せない事柄に一抹の不安を覚えながら、これがあればもう大丈夫という心強さも感じる。
ともあれ、明日は休日だ。快晴が筆を置いて椅子を引き、晦の隣に寝転がると、張り替えたばかりのイグサの香りがした。晦に枕代わりにされていた二巻を引き抜き、共に読み始めた。
