冥府の想起妃 〜金木犀のきみにまた恋をする〜




「このかちゃん、今年もわざわざ来てくれてありがとうね」

 元々垂れている目をより一層垂れさせた中年の女性が優しくこのかに声をかけた。その顔つきが優しかった過去の彼と重なる。

「いえ……」 

「社会人になってもう四年目になるんだって? 月日が経つのは早いわねぇ。お仕事も忙しいでしょう?」

「まぁ……はい」

 優しく明るく話しかけてくれる女性に対してそっけない態度だと自分でも思う。だが、多くを語るとぽろぽろと色んなものをこぼしてしまいそうでグッと飲み込むことしかできなかった。
 お線香の煙がゆっくりと立ち上がる。

「……あの子がいなくなってから三年かぁ……」

 遺影を見上げながら独り言のように呟く女性。その横顔は大好きだった彼そのもののようで、このかは唇を強く噛み締めた。

(あの日、私があんなことをしなかったら……)

 そんな後悔はこの三年間ずっとこのかの胸の内で渦巻いている。
 遺影に映る最愛の彼。
 優しげな垂れ目に落ち着いた藍色の髪。
 その隣に飾られているのは、彼が好きだと言った金木犀の花。
 あの日のことを思い出すだけでこのかは胸が張り裂けそうになるのだった。

 

 あれは三年前の初夏。
 社会人一年目だったこのかは、慣れない環境と仕事に追われ心身ともに疲弊していた。
 それでも次の休日は大好きな彼氏と映画に行ける。それだけを楽しみになんとか乗り越えた、はずだったのに——

「このか、今日はもう帰ろうか」

 待ち合わせ場所の駅前に着いて早々、三歳年上の彼氏である鬼原伊織(きはらいおり)はこのかにそう告げた。

「え? どうして? ずっと楽しみにしていたのに……」

「このか少し疲れてそうだからさ」

「そんなこと……!」

「社会人一年目、慣れない環境で仕事してるんだもん疲れるのは仕方ないよ。だからゆっくりしよう」

 伊織の優しい提案。普段なら賛成しているはずだった。
 しかし、この日は違った。疲れも相まって頭に血が昇ってしまい、気付けば大きな声をあげていた。

「ひどい……! 今日のために頑張ったのに……!」

「ごめん、そんなつもりは。このか、落ち着いて」

「伊織くんなんてもう知らないっ!」

「あ! ちょっとまって!」

 このかは伊織を置いてその場を立ち去った。背後から自分を呼ぶ声が聞こえる。だが、ざわつく環境を理由に聞こえないふりをした。

(……なんでっ。私がどんな思いで今週を乗り切ったかなんて伊織くんには——)

「このか……!」

 心の中で悪態をついていたこのかは突然の大声と背中を押された衝撃で我に返った。ちらと後ろを見ると、全てがスローモーションのようにゆっくりとこのかの目に映る。

 近づいてくる大型トラック。
 大きなクラクション音。
 それから——焦ったような表情の伊織の顔。

(……え?)

 このかを突き飛ばした伊織はそのまま消えていった。
 どこか安堵した表情を浮かべながら。
 この一瞬の出来事で、このかは助かり——伊織はこのかの元から姿を消してしまったのだった。
 


(私、あの時の伊織くんと同じ歳になったんだよなあ……)

 そんなことを考えながら帰路に着く。
 今日は伊織の三回忌でお線香をあげに彼の実家に行っていた。
 毎年欠かさず出向いているのは、あの日の後悔があまりにも大きく重すぎるから。

 あの時もっとちゃんと周囲を見ていたら。

 もっとちゃんと伊織の話を聞いていたら。

 今更そんなことを言っても遅いのは分かっている。
 ただ何年経ってもこの後悔は薄まるどころか、いつまでも鮮明に残り、このかを苦しめた。
 きっと一生このかを苦しめるだろう。
 夕日が沈みかけて、周囲を橙に染める。眩しくて目を細めた。

(伊織くんが好きだった金木犀のような色の空だなあ。……伊織くん、ごめんね)

 心の中で謝罪をしながら階段を降りていた時だった。階段を降りていたはずだったのに、急に足元がふわりと浮く。

(……え? あ……!)

 足を滑らせてバランスを崩したこのかは勢いよく階段から転がり落ちた。
 頭や腰、身体のいたるところが痛い。顔を上げようにも力が入らなかった。

(……私、どうなっちゃうの……)

 助けを呼ぼうにも声が出ない。だんだんと目の前が暗くなっていき——このかは意識を失った。