「帝の命令には逆らえん、仕方あるまい」
白蛇のハクさまが、私の着物の胸元からにゅっと現れた。
あ、はい。喋る蛇です。
南の島で出会った、ものすごく物知りでお喋りな蛇。ハクさまが「未来では風呂も米釜も喋るから、蛇が喋ることくらい気にするな」と言ったので、本当に気にしなかった。そんなことよりも、孤独でないことが嬉しかった。
誰の顔色も安否も気にすることなく、一人と一匹の暮らし。そんな楽園から、迎えの船が、私を遠ざけていく。
「帰りたい。帰って本を読んでいたい……。せっかく、紫小納言先生の幻の著書、『百夜恋絵巻(上)』を国の書物庫からもらったのに……」
水平線を睨む。七年間伸びっぱなしの髪の毛が潮を吸ってベタつき、昆布のお化けみたいに重くなびいている。前なんて見えない。本が読めればそれでいい。
「縁談じゃろう?ついにお主にも春がくるかもしれんのう!」
「ふ、現実の恋愛なんぞ。いい男は小説の中にしかいないのですよ!」
確信を持って、私は言った。島で読書ばかりしていた私は、すっかり恋愛物語狂いになっていた。
「紫小納言先生の書かれる殿方こそ至高。優しく気が利いて一途、さらに文武両道の美男」
胸に、先生の名作で乙女の恋愛指南書でもある『恋衣草子』全八巻を抱く。
「女性のもとに毎晩届く花、想いを込めた文や和歌に、夜の逢瀬。くぅ」
長い髪で顔を覆い、喋る蛇を連れた陰気な私に、船乗りたちは近寄ろうとはしなかった。それ以上に、皆謎の船酔いと下痢でそれどころではなさそうだった。たぶん私のせいですごめんなさい。久しぶりに人に関わっただけで、これだ。いやになる。
「私のような不吉な女を妻になどと……帝は国の未来はどうでもいいのですか」
「いや、仕方あるまい?皇子が国中の姫に振られたから、もうお前しか残っていないとはっきり、それはもうはっきりと、文に書いてあったではないか」
「それな」
ふ、思わず乾いた笑いが漏れた。
まさか、そんなことがあるのだろうか。確かに皇子さまは、小さく鈍くて退屈で、見た目も中の中だった。けれど、権力や金目当ての女すら結婚したがらないとは。どんだけモテないんだ。もしや、皇子さまも呪われた身の上か?
まぁそれは冗談として、私のような死人を呼び戻すのだ。よほど切羽詰まってのことだろう。
「まぁいいでしょう。とりあえず皇子に会うだけでも『百夜恋絵巻(下)』をいただける約束なんだもの。行くしかない」
「物欲じゃ!」
「当然。恋愛なんて、小説で十分です」
血の文も、頼りない皇子も、私の人生には必要ない。下巻を手に入れた暁には、不幸体質を思い出させて破談にし、帰宅させてもらう。
「待っていてくださいね、紫小納言さまっ!」
過保護術のおかげだろうか、旅路は快晴、追い風が吹く。それなのに、船上で無事に立っているのは、私だけだ。海は、ゆっくりと私たちを本土まで運んでいった。

