――しかし、待てど暮らせど、何も起きない。
恐る恐る薄目を開けると、私の顔の数寸手前で、彼のまぶたが限界まで下がり切っていた。
「……可愛がって……や……ふぁっ……」
「……主上?」
「……ん、なんだか、すごく……眠い……」
こてんっ、と。
色気たっぷりに私を組み敷こうとしていたはずの覇王は、そのまま私の肩に頭を乗せ、完全に脱力してしまった。
規則正しい、すーすーという穏やかな寝息が耳元をくすぐる。
彼は無意識のうちに私の単衣の袖口をきゅっと小さな子供のように握りしめ、安心しきったように頬を擦り寄せてきた。
呪いによる常軌を逸した不眠から解放され、張り詰めていた糸が完全に切れてしまったのだろう。
(……えぇ……)
私は、肩にずっしりと乗る重みに身動きが取れないまま、虚空を見つめて呆然とした。
先ほどまでの、あの危険な大人の男の色気はどこにいったのか。
私の袖を握ってすやすやと眠るその顔は、血生臭い権力争いを勝ち抜き、内裏の女たちを侍らせる冷酷無比な支配者などではなく、ただの無防備な青年のようだ。
(……この人、本当にあの『血染めの帝』なの?)
あどけない寝顔を見下ろしながら、私は深い深いため息をついた。
自分でも呆れるほど、恐ろしいはずの男への警戒心が、ポロポロと崩れ落ちていく音がする。
「……お風邪、召されますよ」
仕方なく、私は彼が起きないようにそっと体をずらし、古びた衾をその広い背中に掛けてやろうとした。
しかし――。
「ん……――動くな」
ぐい、と腕を引かれ、私は体勢を崩した。
低い声で牽制され、身を強張らせるも、私の膝にすっぽりと顔を埋めた彼の頭からは、先ほどの恐ろしい殺気は微塵も感じられない。
他者を寄せ付けず、政敵を冷酷に切り捨ててきた絶対者。
それなのに、今の彼は、私がいなければ呼吸すらままならないほど脆く、無防備に見えた。
『陽糸、どこにも行かないで……』
不意に、脳裏に声が蘇った。
夜の闇に怯え、私の膝に顔を押し付けて泣いていた、小さな男の子。
「……馬鹿なこと」
私は小さくかぶりを振った。
目の前にいるのは、私を気まぐれで召し上げた傲慢な帝だ。
それでも。
規則正しい寝息を立て始めた彼の柔らかな黒髪を見下ろしていると、不思議と胸の奥が温かくなるのを感じた。
「今夜だけですよ……」
誰に聞かせるでもなくそう呟いて、私はそっと、彼の背中を一定の節で叩き始めた。
遠い昔、泣き虫だった誰かを寝かしつけた時と同じ、故郷の子守唄の拍子で。



