忘却の呪印と忌み蔵の女官

仄暗い忌み蔵(いみぐら)の中に、からからと乾いた音が響いた。

棚に並んだ木箱の一つで、封印の護符が微かに震えている。
私はため息をつき、手元の小刀で自身の指先を少しだけ傷つけた。
滲んだ血を新しい護符に擦り込み、素早い動作で木箱に貼り直す。
ぴたり、と嫌な震えは止まった。

「……よし。今夜はこれくらいでいいかな」

灯台(とうだい)の火を細めながら、私は一人ごちた。
ここは陽煌国(ようこうこく)の内裏。
華やかな妃達の住まう奥宮から遠く離れた、日陰の場所だ。
没落した陰陽の血を引く私――水守紬乃(みずもりゆの)は、国中から集められた厄介な『呪物』を管理し、鎮めるための女官としてここでひっそりと暮らしている。

誰も寄り付かないこの忌み蔵は、私にとっては酷く居心地が良かった。
人間たちの陰湿極まりない愛憎よりも、ただ在るだけの呪いと向き合っている方がずっと楽だ。
それに、一人でいれば、もう二度と会えない『彼』のことを思い出して、寂静に泣くこともない。

泣き虫だったあの男の子のことは、もう記憶の水底に深く深く沈めてしまっていた。

その時だった。

――ふわりと、むせ返るような伽羅の香りが漂ってきた。

呪具庫には似つかわしくない、酷く甘くて、けれどどこか血の匂いが混ざったような香り。
私が顔を上げるより早く、入り口の重い板扉が音もなく開け放たれた。

「……こんな陰気な穴倉に、本当に人がいるとはな」

鼓膜を直接撫でるような、低く響く声だった。
月明かりを背負って立っていたのは、一人の男だ。
夜の闇を切り取ったような豪奢な黒の狩衣には、帝にしか許されない金糸の八咫烏(やたがらす)が舞っている。
しかし、なにより目を引いたのは、その男自身の放つ圧倒的な存在感だった。

息を呑むほど整った貌は、氷のように冷たい美しさを湛えている。
それでいて、切れ長の双眸には獲物をねぶるような熱が宿っていた。

(血染めの、覇帝……)

内裏の隅にいる私でさえ、その悪名は知っている。
先の反乱で玉座を血の海に沈め、実力で帝位を簒奪した若き帝、煌星(こうせい)。
彼は欲望に忠実な好色家としても有名だった。

「二夜通われた妃はいない」と噂されるほど、毎夜違う美女を抱き、捨て去るという。

(主上が、なぜこのような穢れた場所に)

私は板の間に平伏し、深く頭を下げた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
本当に何故、彼のような殿上人がここにいるのか。

「顔を上げろ」

命じられ、恐る恐る視線を上げると、彼は音もなく私の目の前まで距離を詰めていた。
長い指が伸びてきて、私の顎を強引に、掬い上げる。

「お前か。この呪物どもを一人で管理している変わり者は」

至近距離で彼を見上げ、私ははっと息を呑んだ。
彼の端正な顔は、酷く青ざめていた。
そして、その肌の下から、どす黒い『穢れ』が脈打つように漏れ出しているのが見えた。

(すごい呪い……。これだけの穢れを抱えて、立っていられるなんて)

彼が政敵からどれだけの呪詛を受けているのか、想像するだけで肌が粟立つ。
私が無意識に、黒い霞に触れようと手を伸ばした瞬間だった。

「――っ」

指先が霞に触れた途端、私の中の浄化の気が流れ込み、彼の纏っていた穢れが嘘のように霧散していく。
息苦しいほどの呪詛が晴れた、その時だった。
彼の白いうなじに、赤黒い鎖のような痣が一瞬だけ浮かび上がり、すぐに肌の奥へと沈み込むのが見えた。

(今の紋様……『忘却の呪印』?)

背筋に冷たいものが走る。
人の心を喰らい尽くす、恐ろしい禁術。
あれは昔、私が命懸けで祓おうとして、祓いきれなかった古い呪いの痕跡と酷似している。
なぜ、一国の覇王がそんなものを抱えているのか。
驚きに目を見開く私の前で、彼は額を押さえるようにして深い息を吐いた。

その顔から一瞬だけ、冷酷な覇王の仮面が剥がれ落ち、どこか迷子のような表情が覗く。

(あれ……?)

呪印の禍々しさと、その一瞬の無防備な表情。
私は奇妙な既視感を覚えた。

しかし、私が過去の記憶を手繰り寄せる前に、帝の唇には、甘く危険な笑みが刻まれていた。

「……驚いた。ただの女官かと思えば、随分と面白い力を持っているじゃないか」

彼は私の手首を掴むと、そのまま引き寄せるようにして私の耳元に唇を寄せた。

「俺の痛みを引かせた女は、お前が初めてだ」

「しゅ、主上……っ?」

熱い吐息が耳にかかり、背筋にぞくりとしたものが走る。
甘く囁くような声色とは裏腹に、私を捕らえたその腕の力は、逃げることを一切許さない強引さに満ちていた。

「お前のその力、俺のためだけに使え。……今夜から、お前を俺の妃の一人とする」

「え……?」

間抜けな声が出た。

好色で有名な帝に見初められた。
はたから見ればそう映るだろう。

「いい返事だ。夜の御伽の準備をしておけ。明晩お前の局に入るぞ」

有無を言わさずそう言い放つと、満足げに私の唇を親指でなぞり、夜の闇へと消えていった。

残された私は、忌み蔵の中でただ一人、呆然と立ち尽くしていた。
平穏だった私の日常が、美しくも恐ろしい帝の気まぐれによって、無惨に引き剥がされた瞬間だった。

――この時の私はまだ知らない。
私の平穏を脅かすあの残酷な覇王が、かつて私が何よりも大切にしていた、あの『泣き虫な弟』の皮を被った獣であるということを。