俺のたった十数年の人生で、『どん底』と呼ぶとしたら、それは間違いなく中学二年のあの夜だろう。
ゆるゆると意識が浮上して、泥を吸った雑巾のようにだるくて重い体を起こす。あ、学校と考えて、直後にその必要はないことを思い出した。と同時に、孤独感と絶望がいっぺんに襲いかかってくる。
持ち上げかけていた上半身を再びベッドに投げ出し、深い深いため息を吐いた。動きたくない。けれど、動かないわけにはいかない。父親の告別式の日に、俺がここで眠っていて良い理由なんてない。
電話の呼び出し音が鳴った。スマホではなく、一階のリビングにある電話機から。
昨日も、あの音が鳴った。夕飯を終えてリビングでだらだらとスマホを弄っていたタイミングだった。俺が聞こえないフリをしていると、キッチンで洗い物をしていた母が「近くにいるんだから出てよ」と文句を言いながら慌ててかけより、受話器を取った。いつも通りのやりとりだった。
はい佐々木です、はい、はい、ええそうです、はい、はあ、帰っていまけんけど、はい……え?
最後の「え?」だけがやけに大きく響いたために俺が顔を上げるのと、母が受話器を握りしめながら崩れ落ちるのはほぼ同時だった。
どうしたんだろう、とソファにもたれかけていた上半身を起こす。垂れ流したままのショート動画が軽快な音を鳴らしていた。
ええ、そんな、ああ、はい、はい、わかりました、あの、本当に、はい、はい、そんな、嘘でしょう、ああ、あの、はい、大丈夫です、はい。
動揺しながらも淡々と話は進んでいくようで、震え声の相槌が続く。その合間でこちらをちらりと振り返った母の顔は青白く、今にも死んでしまいそうなほどに血色が失せていた。けれど、実際に死んでいたのは母ではなかった。
「れん」
か細い声で名前を呼ばれた。
「お父さん、死んだって」
「……は?」
続いた言葉を瞬時に理解できなかった。それなのに、心臓だけが嫌な感じに縮こまる。床にぺたんと座り込み、放心したように受話器を握り続ける母の目からぼろりと涙があふれて動揺した。嘘だろ、と独り言のように呟いたけれど、嘘だよ、と言ってくれる人は誰もいなかった。ショート動画の賑やかな音声だけがくり返し、くり返しリビングに響いていた。
出張の多い父は二、三日家を空けることも頻繁にあり、だから一昨日から顔を合わせていなくても大して気にしていなかった。なんなら、さっき夕食を取りながら「明日くらいには帰ってくるかな」なんて母と話していたくらいだ。それが、どうして、急に。
電話を切って「今から警察に行く」と言った母に「どうして警察なんだよ」とは訊けない雰囲気で、床に座り込んだままの母の背中を撫でながらこれは夢なのか、現実なのか、と自問自答した。悪い夢でも見ているみたいだ。
理解も納得もできないまま、俺を置いて現実が進む。
俺たちを迎えに来た警察官が口にした『一酸化炭素中毒』という言葉がやけに現実味を帯びていた。パトカーで揺られながら、聞こえてくる単語を組み合わせていく。都内の駐車場で、車の中で、独りで、一酸化炭素中毒――それらがどのような意味を持つのか、想像つかないほど子どもにはなれない。
中学生だった俺に配慮をしたのか警察官は決定的な言葉を使うことなく、俺たちを警察署へ連れていった。
知らなかった、死因不明で発見された死体は病院ではなく警察署に運ばれるなんて。
知らなかった、司法解剖には時間がかかって、その間親族は警察署内で待たされることになるなんて。
知らなかった、当たり前にあると思っていた日常が、ある日突然崩れ去ることがあるなんて。
あの頃の俺は、何も知らなかったんだ。
電話の音がやんで、昨夜の悪夢にワープしていた意識が戻ってきた。無理に明るくしたような母の声が訊こえてくる。その声もどこかくたびれていて、ますます気が滅入ってしまった。
時間を確認しようとスマホを手に取り、画面に映し出された通知によって昨夜の愚行を思い出し、あああ、と項垂れた。
[俺、いる?]
画面にはその一言だけが浮かんでいた。送り主は颯斗だ。ロックを解除してトーク画面を開く。
[父さんが死んだ]
昨日、生まれて初めて乗ったパトカーの後部座席で、颯斗にそんなメッセージを送ってしまったのは、どうしてだったのだろう。
あの頃、俺と颯斗は特別仲が良いわけでもなく、よくつるんでいたグループのうちの一人、という感じだった。二人で出かけたことなんて一度もないような関係だったのだ。けれど、あの時の俺はなぜか他の誰でもなく、家が近くの友人でもなく、小学校から同じクラスだったあいつでもなく、もちろん遠く離れた親戚でもなく、颯斗に助けを求めた。誰でも良いわけではなくて、颯斗だから手を伸ばせた理由は、今でも上手く説明できない。
再び画面に視線を落とす。
[父さんが死んだ]
[俺、いる?]
端的な言葉はきっと『助けが必要か?』という意味だろう。
昨夜の二十一時頃に送ったメッセージに対して、すぐに返事がきていた。俺から返事をすることなく、十時間ほど経過している。警察署で様々な手続きを済ませて、くたくたの体で帰宅して、葬儀社への連絡を進める母の隣で親戚や知人の連絡先を整理して、寝入ったのは空が白んできた頃だった。浅い眠りは三時間も続かなかったらしい。もう颯斗は起きているだろうか。
[いる]
まだ、寝ているかもしれない。
[わかった]
すぐに返事がきて、思わず「え?」と声が漏れた。そして、わかったってなんだよ、と心の中でツッコミを入れる。下手くそなツッコミだと怒られそうだ。関西出身の颯斗は笑いに厳しい。
[わかったって、どういうこと?]と質問しても既読がつかず、返事もなかった。そのままベッドに座りぼうっとしていると、十五分ほど経った頃にまた返事がきた。
[外おるけど、どっちでもええよ]
どういう意味だろうか。首をひねっていると、俺の疑問を察した颯斗が追撃メッセージを送ってくる。
[俺はおるけど、お前が会いたいと思ったら出てきたらええし、思わんかったら家におったらええ]
そこでようやく、気遣ってくれているのだ、と気がついた。そしてそれが颯斗のイメージとかけ離れていたので、驚いた。
いつもは鬱陶しいくらいに押しの強い颯斗が、あえて曖昧な言葉を選んでいる。朝が苦手な颯斗が俺のメッセージに対してすぐに返事をすることができたのは、起きて待っていてくれたからだろうか。それはさすがに考えすぎか。
面倒くさがりで、何でもすぐに電話で済ませようとする颯斗が短いメッセージのやりとりだけでここまで来てくれたのは、多分、それしか方法が思いつかなかったからだ。器用なくせに不器用な友人の優しさが鉄のように冷え切った心にじんわりと沁みていった。震える指先で受話器マークのボタンを押すと、ワンコールが終わらないうちにすぐに通話画面になる。
『なん?』
「うごけない」
声を出すと、もう、だめだった。
昨夜、どれだけ絶望のどん底に落とされても一滴も流れることのなかった涙があふれて、声が震える。
「あがってきて」
家にあがって、ここに、来てほしい。俺は今一歩もここから動けないから、泥を吸った雑巾だから、お前がここに来てほしい。
来てもらって、そして、どうするのだろう。颯斗が来たところで状況が好転するわけではない。いなくなった人間は戻ってこない。それでも昨夜、[いる?]と訊かれて[いらない]と返せないくらいには俺は限界だった。ひとりでこの冷え切った現実と悪夢の間を行き来するのにほとほと疲れてしまっていた。
スマホから聞こえていた風の音が止んだ。耳から離すと通話が切れて、トーク画面に戻っている。そしてすぐに一階からインターホンの音が聞こえてきた。ああ、ああ。胸がいっぱいになって、ますます視界がぼやけていった。
廊下を走る足音、ガチャンと玄関の開ける音、母が誰かと話す声。聞き慣れた、ただのクラスメイトの声。階段を上がる足音は一段飛ばしで妙に慌ただしかった。ノックもなしに扉が開く。
「……俺、絶対、常識知らずなやつやと思われたやろ」
父親を亡くした友人に向けて最初にかける言葉がそれかよ、と思ったけれど、あの時の俺はきっと慰めも、共感も、憐れみも、優しい言葉も明るい冗談も受け入れられなかっただろうから、苦虫を噛み潰したような顔で呟かれた颯斗の言葉の素っ気なさに救われた。
何も言わずに近づいてきた颯斗が俺の頭を掴む。そのまま、自分の腹に俺の顔を押しつけた。
「と、父さん……帰ってこなかった……」
言葉にすると、悪夢だと思っていたものが一気に現実味を帯びていく。俺の頭をくしゃくしゃと撫でながら颯斗が「うん」と頷く。
「最後に会ったとき、どんな顔してたかも思い出せない。そのくらい普通だった。死のうと思ってるなんて、知らなかった」
「うん」
「死ぬほど苦しいくせに、俺にも母さんにも何も言ってくれなかった」
言ってくれていれば、何か変わっただろうか。変えられただろうか。遺書すら残さずに還らぬ人となった父が何を思い、悩み、苦しみ、死を選んだのかは俺たちにはわからない。そこまで追い詰められて、それでも相談できないくらいに俺たち家族は頼りなかっただろうか。
「父さんにとって、俺ってなんだったんだろうな」
少なくとも、帰る理由にはならなかった。俺や母が待っているからこの家に帰ってこようとはならなかった。
「必要ないって言われた気分だ」
父がいなくなった寂しさよりも、捨てられたような絶望感の方が大きいのだと気づいた。父は最期に何を思っただろう。誰のことを思い出しただろう。俺や母のことを考えただろうか。俺たちが一緒に暮らした時間は、なんだったのだろう。虚しさばかりが胸に広がる。
親の生きる理由になれなかった子どもはこの世界にどのくらいいるのだろうか。きっとたくさんいる。そして、たくさんいるからといってそれが俺の絶望を癒すことにはならない。
あの日、俺の心を優しく撫でたのは颯斗の指先だった。そして、優しく響いた声だった。
「俺は、おるよ」
ぽつりと颯斗が呟く。変な言葉だ。お前がいるから何だというのだろう。でも、お前までいなくなったら、俺は、どうなってしまうんだろう。
俺がいるから大丈夫なんて押し付けがましいことは言わずに、ただそばにいるのだと伝えてくれるのが、颯斗らしくて、ありがたかった。
「俺は、廉のそばにおる」
ひく、ひく、としゃくりあげるたびにあふれる涙が颯斗のシャツに染みていく。ぽんぽんと後頭部を叩かれるのが心地良くて、涙は止まるどころかどんどんあふれてきた。ひしゃげた声で呟いた「ごめん」には、多分色んな意味があって、「呼びつけてごめん」とか「今日絶対学校遅刻するじゃんごめん」とか「変なメッセージ送ってごめん」とか。ごちゃ混ぜの「ごめん」のなかに、父への「ごめん」が混ざり合って、溶けて、目から流れていく。気づけなくて、ごめん。助けになれなくて、ごめん。帰る理由になれなくて、ごめん。俺、自分のことばっかりで、本当にごめん。
「俺は、ずっと、おるよ。ずっと廉のそばにおる」
俺のごめんを颯斗は受け取らずに、代わりに、中学生にしてはずいぶんと重い宣言をした。そして、その言葉通りに、あの日からずっと颯斗は俺のそばにいる。
学校で行動を共にするのは当たり前で、休日にも二人で会うことが増えた。公園で時間をつぶしたり、コンビニの駐車場で適当に駄弁ることもあったけれど、二人で過ごす時間の大半を俺たちは颯斗の家で過ごした。あの家は、当時の俺にとってのシェルターだった。
颯斗は祖父母と三人で暮らしていて、俺が遊びに行くと二人はこちらが恐縮してしまうくらい歓迎してくれた。和菓子やケーキ、ジュースが出てきた後にポテトチップも開けてくれて、夕食も一緒にと毎回誘ってくれるので、ありがたいけれど帰る頃にはいつも腹がはち切れそうになる。
精神的に不安定な状況の母を一人で家に残すことに罪悪感はあったけれど、あの頃、俺は俺で一杯一杯だった。あの家には父との思い出がありすぎて、長く過ごすとうまく息ができない気がした。
颯斗の祖父母の話し方には、関西特有のなまりがない。どうして颯斗が二人の家に住んでいるのかは知らない。母親や父親はいないのだろうか。気になるけれど、おしゃべりなあいつが何も話さないということは、きっと話したくないということなんだと解釈して、詮索するような真似はしなかった。
気がつくと、俺の隣にはいつも颯斗がいた。
高校も同じところを受けるつもりだと知ったときは「そんなことをされても嬉しくない」と反論して険悪なムードになったけれど、弁の立つ颯斗に口喧嘩で敵うはずもなく、結局同じ学校を受けることになり、今に至ると言うわけだ。
腐れ縁――なんて呼べないくらい、この関係はずっと颯斗が繋いでくれていた。俺は、そんな颯斗にずっと救われている。
ゆるゆると意識が浮上して、泥を吸った雑巾のようにだるくて重い体を起こす。あ、学校と考えて、直後にその必要はないことを思い出した。と同時に、孤独感と絶望がいっぺんに襲いかかってくる。
持ち上げかけていた上半身を再びベッドに投げ出し、深い深いため息を吐いた。動きたくない。けれど、動かないわけにはいかない。父親の告別式の日に、俺がここで眠っていて良い理由なんてない。
電話の呼び出し音が鳴った。スマホではなく、一階のリビングにある電話機から。
昨日も、あの音が鳴った。夕飯を終えてリビングでだらだらとスマホを弄っていたタイミングだった。俺が聞こえないフリをしていると、キッチンで洗い物をしていた母が「近くにいるんだから出てよ」と文句を言いながら慌ててかけより、受話器を取った。いつも通りのやりとりだった。
はい佐々木です、はい、はい、ええそうです、はい、はあ、帰っていまけんけど、はい……え?
最後の「え?」だけがやけに大きく響いたために俺が顔を上げるのと、母が受話器を握りしめながら崩れ落ちるのはほぼ同時だった。
どうしたんだろう、とソファにもたれかけていた上半身を起こす。垂れ流したままのショート動画が軽快な音を鳴らしていた。
ええ、そんな、ああ、はい、はい、わかりました、あの、本当に、はい、はい、そんな、嘘でしょう、ああ、あの、はい、大丈夫です、はい。
動揺しながらも淡々と話は進んでいくようで、震え声の相槌が続く。その合間でこちらをちらりと振り返った母の顔は青白く、今にも死んでしまいそうなほどに血色が失せていた。けれど、実際に死んでいたのは母ではなかった。
「れん」
か細い声で名前を呼ばれた。
「お父さん、死んだって」
「……は?」
続いた言葉を瞬時に理解できなかった。それなのに、心臓だけが嫌な感じに縮こまる。床にぺたんと座り込み、放心したように受話器を握り続ける母の目からぼろりと涙があふれて動揺した。嘘だろ、と独り言のように呟いたけれど、嘘だよ、と言ってくれる人は誰もいなかった。ショート動画の賑やかな音声だけがくり返し、くり返しリビングに響いていた。
出張の多い父は二、三日家を空けることも頻繁にあり、だから一昨日から顔を合わせていなくても大して気にしていなかった。なんなら、さっき夕食を取りながら「明日くらいには帰ってくるかな」なんて母と話していたくらいだ。それが、どうして、急に。
電話を切って「今から警察に行く」と言った母に「どうして警察なんだよ」とは訊けない雰囲気で、床に座り込んだままの母の背中を撫でながらこれは夢なのか、現実なのか、と自問自答した。悪い夢でも見ているみたいだ。
理解も納得もできないまま、俺を置いて現実が進む。
俺たちを迎えに来た警察官が口にした『一酸化炭素中毒』という言葉がやけに現実味を帯びていた。パトカーで揺られながら、聞こえてくる単語を組み合わせていく。都内の駐車場で、車の中で、独りで、一酸化炭素中毒――それらがどのような意味を持つのか、想像つかないほど子どもにはなれない。
中学生だった俺に配慮をしたのか警察官は決定的な言葉を使うことなく、俺たちを警察署へ連れていった。
知らなかった、死因不明で発見された死体は病院ではなく警察署に運ばれるなんて。
知らなかった、司法解剖には時間がかかって、その間親族は警察署内で待たされることになるなんて。
知らなかった、当たり前にあると思っていた日常が、ある日突然崩れ去ることがあるなんて。
あの頃の俺は、何も知らなかったんだ。
電話の音がやんで、昨夜の悪夢にワープしていた意識が戻ってきた。無理に明るくしたような母の声が訊こえてくる。その声もどこかくたびれていて、ますます気が滅入ってしまった。
時間を確認しようとスマホを手に取り、画面に映し出された通知によって昨夜の愚行を思い出し、あああ、と項垂れた。
[俺、いる?]
画面にはその一言だけが浮かんでいた。送り主は颯斗だ。ロックを解除してトーク画面を開く。
[父さんが死んだ]
昨日、生まれて初めて乗ったパトカーの後部座席で、颯斗にそんなメッセージを送ってしまったのは、どうしてだったのだろう。
あの頃、俺と颯斗は特別仲が良いわけでもなく、よくつるんでいたグループのうちの一人、という感じだった。二人で出かけたことなんて一度もないような関係だったのだ。けれど、あの時の俺はなぜか他の誰でもなく、家が近くの友人でもなく、小学校から同じクラスだったあいつでもなく、もちろん遠く離れた親戚でもなく、颯斗に助けを求めた。誰でも良いわけではなくて、颯斗だから手を伸ばせた理由は、今でも上手く説明できない。
再び画面に視線を落とす。
[父さんが死んだ]
[俺、いる?]
端的な言葉はきっと『助けが必要か?』という意味だろう。
昨夜の二十一時頃に送ったメッセージに対して、すぐに返事がきていた。俺から返事をすることなく、十時間ほど経過している。警察署で様々な手続きを済ませて、くたくたの体で帰宅して、葬儀社への連絡を進める母の隣で親戚や知人の連絡先を整理して、寝入ったのは空が白んできた頃だった。浅い眠りは三時間も続かなかったらしい。もう颯斗は起きているだろうか。
[いる]
まだ、寝ているかもしれない。
[わかった]
すぐに返事がきて、思わず「え?」と声が漏れた。そして、わかったってなんだよ、と心の中でツッコミを入れる。下手くそなツッコミだと怒られそうだ。関西出身の颯斗は笑いに厳しい。
[わかったって、どういうこと?]と質問しても既読がつかず、返事もなかった。そのままベッドに座りぼうっとしていると、十五分ほど経った頃にまた返事がきた。
[外おるけど、どっちでもええよ]
どういう意味だろうか。首をひねっていると、俺の疑問を察した颯斗が追撃メッセージを送ってくる。
[俺はおるけど、お前が会いたいと思ったら出てきたらええし、思わんかったら家におったらええ]
そこでようやく、気遣ってくれているのだ、と気がついた。そしてそれが颯斗のイメージとかけ離れていたので、驚いた。
いつもは鬱陶しいくらいに押しの強い颯斗が、あえて曖昧な言葉を選んでいる。朝が苦手な颯斗が俺のメッセージに対してすぐに返事をすることができたのは、起きて待っていてくれたからだろうか。それはさすがに考えすぎか。
面倒くさがりで、何でもすぐに電話で済ませようとする颯斗が短いメッセージのやりとりだけでここまで来てくれたのは、多分、それしか方法が思いつかなかったからだ。器用なくせに不器用な友人の優しさが鉄のように冷え切った心にじんわりと沁みていった。震える指先で受話器マークのボタンを押すと、ワンコールが終わらないうちにすぐに通話画面になる。
『なん?』
「うごけない」
声を出すと、もう、だめだった。
昨夜、どれだけ絶望のどん底に落とされても一滴も流れることのなかった涙があふれて、声が震える。
「あがってきて」
家にあがって、ここに、来てほしい。俺は今一歩もここから動けないから、泥を吸った雑巾だから、お前がここに来てほしい。
来てもらって、そして、どうするのだろう。颯斗が来たところで状況が好転するわけではない。いなくなった人間は戻ってこない。それでも昨夜、[いる?]と訊かれて[いらない]と返せないくらいには俺は限界だった。ひとりでこの冷え切った現実と悪夢の間を行き来するのにほとほと疲れてしまっていた。
スマホから聞こえていた風の音が止んだ。耳から離すと通話が切れて、トーク画面に戻っている。そしてすぐに一階からインターホンの音が聞こえてきた。ああ、ああ。胸がいっぱいになって、ますます視界がぼやけていった。
廊下を走る足音、ガチャンと玄関の開ける音、母が誰かと話す声。聞き慣れた、ただのクラスメイトの声。階段を上がる足音は一段飛ばしで妙に慌ただしかった。ノックもなしに扉が開く。
「……俺、絶対、常識知らずなやつやと思われたやろ」
父親を亡くした友人に向けて最初にかける言葉がそれかよ、と思ったけれど、あの時の俺はきっと慰めも、共感も、憐れみも、優しい言葉も明るい冗談も受け入れられなかっただろうから、苦虫を噛み潰したような顔で呟かれた颯斗の言葉の素っ気なさに救われた。
何も言わずに近づいてきた颯斗が俺の頭を掴む。そのまま、自分の腹に俺の顔を押しつけた。
「と、父さん……帰ってこなかった……」
言葉にすると、悪夢だと思っていたものが一気に現実味を帯びていく。俺の頭をくしゃくしゃと撫でながら颯斗が「うん」と頷く。
「最後に会ったとき、どんな顔してたかも思い出せない。そのくらい普通だった。死のうと思ってるなんて、知らなかった」
「うん」
「死ぬほど苦しいくせに、俺にも母さんにも何も言ってくれなかった」
言ってくれていれば、何か変わっただろうか。変えられただろうか。遺書すら残さずに還らぬ人となった父が何を思い、悩み、苦しみ、死を選んだのかは俺たちにはわからない。そこまで追い詰められて、それでも相談できないくらいに俺たち家族は頼りなかっただろうか。
「父さんにとって、俺ってなんだったんだろうな」
少なくとも、帰る理由にはならなかった。俺や母が待っているからこの家に帰ってこようとはならなかった。
「必要ないって言われた気分だ」
父がいなくなった寂しさよりも、捨てられたような絶望感の方が大きいのだと気づいた。父は最期に何を思っただろう。誰のことを思い出しただろう。俺や母のことを考えただろうか。俺たちが一緒に暮らした時間は、なんだったのだろう。虚しさばかりが胸に広がる。
親の生きる理由になれなかった子どもはこの世界にどのくらいいるのだろうか。きっとたくさんいる。そして、たくさんいるからといってそれが俺の絶望を癒すことにはならない。
あの日、俺の心を優しく撫でたのは颯斗の指先だった。そして、優しく響いた声だった。
「俺は、おるよ」
ぽつりと颯斗が呟く。変な言葉だ。お前がいるから何だというのだろう。でも、お前までいなくなったら、俺は、どうなってしまうんだろう。
俺がいるから大丈夫なんて押し付けがましいことは言わずに、ただそばにいるのだと伝えてくれるのが、颯斗らしくて、ありがたかった。
「俺は、廉のそばにおる」
ひく、ひく、としゃくりあげるたびにあふれる涙が颯斗のシャツに染みていく。ぽんぽんと後頭部を叩かれるのが心地良くて、涙は止まるどころかどんどんあふれてきた。ひしゃげた声で呟いた「ごめん」には、多分色んな意味があって、「呼びつけてごめん」とか「今日絶対学校遅刻するじゃんごめん」とか「変なメッセージ送ってごめん」とか。ごちゃ混ぜの「ごめん」のなかに、父への「ごめん」が混ざり合って、溶けて、目から流れていく。気づけなくて、ごめん。助けになれなくて、ごめん。帰る理由になれなくて、ごめん。俺、自分のことばっかりで、本当にごめん。
「俺は、ずっと、おるよ。ずっと廉のそばにおる」
俺のごめんを颯斗は受け取らずに、代わりに、中学生にしてはずいぶんと重い宣言をした。そして、その言葉通りに、あの日からずっと颯斗は俺のそばにいる。
学校で行動を共にするのは当たり前で、休日にも二人で会うことが増えた。公園で時間をつぶしたり、コンビニの駐車場で適当に駄弁ることもあったけれど、二人で過ごす時間の大半を俺たちは颯斗の家で過ごした。あの家は、当時の俺にとってのシェルターだった。
颯斗は祖父母と三人で暮らしていて、俺が遊びに行くと二人はこちらが恐縮してしまうくらい歓迎してくれた。和菓子やケーキ、ジュースが出てきた後にポテトチップも開けてくれて、夕食も一緒にと毎回誘ってくれるので、ありがたいけれど帰る頃にはいつも腹がはち切れそうになる。
精神的に不安定な状況の母を一人で家に残すことに罪悪感はあったけれど、あの頃、俺は俺で一杯一杯だった。あの家には父との思い出がありすぎて、長く過ごすとうまく息ができない気がした。
颯斗の祖父母の話し方には、関西特有のなまりがない。どうして颯斗が二人の家に住んでいるのかは知らない。母親や父親はいないのだろうか。気になるけれど、おしゃべりなあいつが何も話さないということは、きっと話したくないということなんだと解釈して、詮索するような真似はしなかった。
気がつくと、俺の隣にはいつも颯斗がいた。
高校も同じところを受けるつもりだと知ったときは「そんなことをされても嬉しくない」と反論して険悪なムードになったけれど、弁の立つ颯斗に口喧嘩で敵うはずもなく、結局同じ学校を受けることになり、今に至ると言うわけだ。
腐れ縁――なんて呼べないくらい、この関係はずっと颯斗が繋いでくれていた。俺は、そんな颯斗にずっと救われている。
