早退の旨を告げるために職員室へ寄ってから、すぐそばの保健室のドアをノックする。
保険の先生に目顔で断って、締め切られたカーテンの隙間からベッドを覗くと、佑士は布団を抱き込んで丸まるような体勢で眠っていた。額のきわに汗の玉が浮かんでいる。
時々、小さく唇が震える。なんとなく魘されているように思えて、佑士を起こそうと手を伸ばしたところで、俺は固まった。
「……触んな……クソババア……」
……クソババアって、もしかして俺の母さんのこと?
いや、佑士と母さんの関係性は悪くないはずだ。
俺には確かにク——耳に痛いことも言ってくるお母様だけど、佑士には優しい。むしろ、俺と母さんより佑士相手の方が、本当の母子みたいに感じる時があるくらいだ。もちろん、どちらもが気を遣って歩み寄った末のことで、二人の努力の賜物だっていうのは理解してるけど。
まさか、俺が知らないところで揉めてたりするのかな。だとしたら、嫌だな。
起こすのをためらっていたら、ややして佑士が身じろぎし、ゆるゆると瞼を開けた。寝起き特有の焦点の合わない眼差しで辺りを見回してから、ベッドの横に立ち尽くした俺を見上げる。いつにも増して気怠そうな空気をまとっていて、ひどくなまめかしい。
「……玲、か」
「うん」
「……なんか変な夢見たわ」
「た、体調悪い時ってさ、悪夢見がちだよな」
つい、どもってしまった。
改めて眺めると佑士って、やっぱり妙に雰囲気ある。色っぽいというか、大人びてるというか、ただ寝起きなだけだっていうのに、どことなく目のやり場に困ってしまう。
佑士はゆっくり起き上がると、頭の後ろをがりがりと掻いた。
「俺、なんか言ってなかったか?」
俺は目を泳がせる。
「うーん……クソババアとか、そんな感じのことを」
結局黙っていられなくて、正直に答えた。
佑士は手を止めて、吐息に似た溜め息を吐いた。
「おまえの母さんのことじゃねえから」
「……うん……」
「——実の母親とか、その後に親父が再婚した女とか……そういう、ろくでもない奴らのことだから、気にすんなよ」
言いづらいだろうことを、佑士の口から言わせてしまった。
佑士の実のお母さんは、彼がまだ小さいうちに家を出て行ってしまって、次にやってきた継母とは最後まで折り合いが悪かったって聞いてる。
俺も普通の家庭環境だったとは言い難いけど、佑士はかなり複雑な生活を送ってきている。変に思い出させるようなこと、話すんじゃなかった。
俯いた俺の背中を雑に小突いてから、佑士は立ち上がった。
「もう起きて平気か?」
「寝たら熱、下がった気がする」
「ほんとかよ」
「確かめてみてくれてもいいけど」
「え?」
こちらに向き直った佑士が身を屈め、額にかかった前髪を掻き上げる。
「今なら逃げねえよ。熱、測ってみるか?」
どう見ても子供なんかじゃない。でも、完全な大人の男でもない。そんな成長期のあわいにいる佑士の、モデルばりに整った顔が間近に迫る。同性の立場から評しても綺麗な顔立ちだ。目と眉の距離が近くて、適度に彫りが深い。はっきりとした二重は長い睫毛に縁どられ、切れ長な目尻がどことなくミステリアスな愁いを醸し出している、
小作りな鼻は高く、唇は若干ぽってりと厚め。
とにかく、パーツの配置が完璧。最強の顔面をお持ちでいらっしゃる。
俺は佑士が近づいた分だけ後ろにさがった。いつかと全く逆の立場だ。
「——なんてな」
佑士は意地悪げな面持ちで口元をゆがめると、すいと身を引いた。
「かっ、からかうとか最悪!」
先生に配慮して、小声で怒った俺の態度をどう捉えたのか、佑士は首を傾げる。
「別にからかった訳じゃねえよ。急にぐいぐい攻めるのは優しくねえなと思っただけ」
「責める? 俺、なんか怒られんの?」
「クソ天然が」
突然浴びせられた暴言に、俺は眉をしかめた。
天然っていうのはつまり、鈍感、考えなし、馬鹿のどれかだ。男が男に対して使う時は、ほぼこの三つに当てはまる。絶対に褒め言葉じゃない。語頭にクソをつけたんだから、もう間違いなく悪口だ。
佑士を睨み上げると、いったん離れたはずの俺と佑士の距離が、また一気に詰められた。
かと思うと、大きな親指の腹が、俺の唇を拭うようになぞった。
「な——」
絶句した俺から目を離さず、佑士はその親指を舐めた。ぺろりと。
そして、やや呆れた表情で呟く。
「おまえの危機管理能力、大丈夫か?」
暗に朝の、き、キキキキスの件をほのめかされて、俺はじりじり後ずさり、それから一気に身をひるがえしてカーテンの中から飛び出した。
「先に帰る! もう一人で帰れ!」
「あっ、ひでえ」
ひどいのはどっちだよ!
比喩じゃなく涙目になった俺は、「仲がいいのねえ」なんて的外れすぎる保健の先生の言葉を背に受けながら保健室を出た。退出時に頭を下げるのは忘れない。
すぐに佑士が後を追って出てくる。やっぱりぐるぐる巻きのマフラーと、大きなマスク。顔の半分以上が隠れていたから、内心で胸を撫でおろした。あの綺麗な顔面、今は直視したくない。
ちらりと振り返って盗み見ると、相変わらず体調が悪そうだ。歩き方がいつにも増してゆったりしてる。
俺は仏頂面で廊下の端に寄って佑士を待ちかまえ、近づいてきた彼の鞄を引っ張った。
「鞄、持つよ。歩くの、だるそうだから」
「いい」
「遠慮するなよ」
「俺がおまえの鞄を持ってやるならともかく、おまえに俺が鞄を持ってもらうなんてのは解釈違いなんだよ。受け入れらんねえ」
「なんの解釈違いだよ」
相手が女の子なら理解できなくもないけど。
もしかして俺を女扱いしてるんだろうか。
こっちの方こそ到底受け入れがたい言い分に思わず気色ばむと、佑士が楽しげに耳打ちしてきた。
「こういうのは惚れた方が持つもんなんだよ。今日はさすがに持ってやれないから、また今度な」
そ、う、ですか……。
俺はうつむくしかない。
「……佑士が俺の鞄持ってたらさ、クラスのやつとかになんか言われそう……」
「言わせておけばいいんじゃね」
「……今度な、ってことは、また一緒に帰るの……?」
「おまえが嫌じゃないねえなら」
ずるい。
言い回しが、甘ったるい口調が、いつになく柔らかい雰囲気が、もう全部ずるいって。
人けのない廊下で、二人きり。
ともすればお互いの体のどこかが触れ合うほど間近にいるなんて、最近は全然なかった。
居心地が悪いような、どこかむずがゆくなる沈黙が落ちてきて、俺は意味もなく辺りを見回す。三年生が自由登校になった三学期の高校特有の閑散とした雰囲気と、締め切っているはずの窓のわずかな隙間を狙って吹き込んでくる、かぼそい真冬の風。その悲鳴めいた音がやけに耳についた。
対する佑士は、特に気まずさなんて覚えていないみたいだ。
いや、体調不良のせいかもしれない。具合が悪い時って、何もかもがどうでもよくなって大胆になりがちだから。少なくとも俺はそうだ。
ただ、その割に佑士、元気そうなんだよな。本人が言った通り、ひと眠りしてだいぶ回復したんだろうか。
言葉少なに昇降口を出て、校門前から駅まで続く、ゆるやかな坂道を降りていく。その間も俺たちの距離は普段よりずっと近くて、あんなこと——キスをされた後なのに、この近さがちっとも嫌じゃない。そんな自分が不思議だった。
各駅停車しか止まらない最寄り駅に到着したと思ったら、タッチの差で電車のベルが鳴り終わった。無情にも、すぐ目の前で閉まったドアを恨めしい気持ちで睨んでいてもどうにもならないので、ベンチに佑士を座らせ、自販機のボカリを買って渡す。佑士は素直に礼を言って受け取った。
寒風に晒されながらしばらく待ち、やっと到着した電車に急いで乗り込むと、佑士はちょうど空いていた六人掛け座席の一番端に座り、その隣へ俺の制服の裾を掴んで座らせた。
「そこ、ドアが開閉する場所だから寒くないか? 変わろうか」
「そうすると玲が寒いだろ。俺はおまえで暖を取るからいい」
宣言と同時に、俺の左肩へ佑士の頭が乗せられた。
人肌の温かさとともに、ほどよい重みがかかる。嗅ぎなれたヘアスタイリング剤のシトラス系の香料と、佑士本人の匂いが混ざって鼻腔をくすぐる。知っているはずなのに、どこか緊張を呼ぶ香り。
「おい、佑士っ」
「やっぱだるいし寝るわ。乗り換え駅の一個手前に着いたら起こして」
俺の抗議を強引に捻じ伏せて目を閉じた佑士は、結局、残り二つの路線でも同じことを繰り返した。
保険の先生に目顔で断って、締め切られたカーテンの隙間からベッドを覗くと、佑士は布団を抱き込んで丸まるような体勢で眠っていた。額のきわに汗の玉が浮かんでいる。
時々、小さく唇が震える。なんとなく魘されているように思えて、佑士を起こそうと手を伸ばしたところで、俺は固まった。
「……触んな……クソババア……」
……クソババアって、もしかして俺の母さんのこと?
いや、佑士と母さんの関係性は悪くないはずだ。
俺には確かにク——耳に痛いことも言ってくるお母様だけど、佑士には優しい。むしろ、俺と母さんより佑士相手の方が、本当の母子みたいに感じる時があるくらいだ。もちろん、どちらもが気を遣って歩み寄った末のことで、二人の努力の賜物だっていうのは理解してるけど。
まさか、俺が知らないところで揉めてたりするのかな。だとしたら、嫌だな。
起こすのをためらっていたら、ややして佑士が身じろぎし、ゆるゆると瞼を開けた。寝起き特有の焦点の合わない眼差しで辺りを見回してから、ベッドの横に立ち尽くした俺を見上げる。いつにも増して気怠そうな空気をまとっていて、ひどくなまめかしい。
「……玲、か」
「うん」
「……なんか変な夢見たわ」
「た、体調悪い時ってさ、悪夢見がちだよな」
つい、どもってしまった。
改めて眺めると佑士って、やっぱり妙に雰囲気ある。色っぽいというか、大人びてるというか、ただ寝起きなだけだっていうのに、どことなく目のやり場に困ってしまう。
佑士はゆっくり起き上がると、頭の後ろをがりがりと掻いた。
「俺、なんか言ってなかったか?」
俺は目を泳がせる。
「うーん……クソババアとか、そんな感じのことを」
結局黙っていられなくて、正直に答えた。
佑士は手を止めて、吐息に似た溜め息を吐いた。
「おまえの母さんのことじゃねえから」
「……うん……」
「——実の母親とか、その後に親父が再婚した女とか……そういう、ろくでもない奴らのことだから、気にすんなよ」
言いづらいだろうことを、佑士の口から言わせてしまった。
佑士の実のお母さんは、彼がまだ小さいうちに家を出て行ってしまって、次にやってきた継母とは最後まで折り合いが悪かったって聞いてる。
俺も普通の家庭環境だったとは言い難いけど、佑士はかなり複雑な生活を送ってきている。変に思い出させるようなこと、話すんじゃなかった。
俯いた俺の背中を雑に小突いてから、佑士は立ち上がった。
「もう起きて平気か?」
「寝たら熱、下がった気がする」
「ほんとかよ」
「確かめてみてくれてもいいけど」
「え?」
こちらに向き直った佑士が身を屈め、額にかかった前髪を掻き上げる。
「今なら逃げねえよ。熱、測ってみるか?」
どう見ても子供なんかじゃない。でも、完全な大人の男でもない。そんな成長期のあわいにいる佑士の、モデルばりに整った顔が間近に迫る。同性の立場から評しても綺麗な顔立ちだ。目と眉の距離が近くて、適度に彫りが深い。はっきりとした二重は長い睫毛に縁どられ、切れ長な目尻がどことなくミステリアスな愁いを醸し出している、
小作りな鼻は高く、唇は若干ぽってりと厚め。
とにかく、パーツの配置が完璧。最強の顔面をお持ちでいらっしゃる。
俺は佑士が近づいた分だけ後ろにさがった。いつかと全く逆の立場だ。
「——なんてな」
佑士は意地悪げな面持ちで口元をゆがめると、すいと身を引いた。
「かっ、からかうとか最悪!」
先生に配慮して、小声で怒った俺の態度をどう捉えたのか、佑士は首を傾げる。
「別にからかった訳じゃねえよ。急にぐいぐい攻めるのは優しくねえなと思っただけ」
「責める? 俺、なんか怒られんの?」
「クソ天然が」
突然浴びせられた暴言に、俺は眉をしかめた。
天然っていうのはつまり、鈍感、考えなし、馬鹿のどれかだ。男が男に対して使う時は、ほぼこの三つに当てはまる。絶対に褒め言葉じゃない。語頭にクソをつけたんだから、もう間違いなく悪口だ。
佑士を睨み上げると、いったん離れたはずの俺と佑士の距離が、また一気に詰められた。
かと思うと、大きな親指の腹が、俺の唇を拭うようになぞった。
「な——」
絶句した俺から目を離さず、佑士はその親指を舐めた。ぺろりと。
そして、やや呆れた表情で呟く。
「おまえの危機管理能力、大丈夫か?」
暗に朝の、き、キキキキスの件をほのめかされて、俺はじりじり後ずさり、それから一気に身をひるがえしてカーテンの中から飛び出した。
「先に帰る! もう一人で帰れ!」
「あっ、ひでえ」
ひどいのはどっちだよ!
比喩じゃなく涙目になった俺は、「仲がいいのねえ」なんて的外れすぎる保健の先生の言葉を背に受けながら保健室を出た。退出時に頭を下げるのは忘れない。
すぐに佑士が後を追って出てくる。やっぱりぐるぐる巻きのマフラーと、大きなマスク。顔の半分以上が隠れていたから、内心で胸を撫でおろした。あの綺麗な顔面、今は直視したくない。
ちらりと振り返って盗み見ると、相変わらず体調が悪そうだ。歩き方がいつにも増してゆったりしてる。
俺は仏頂面で廊下の端に寄って佑士を待ちかまえ、近づいてきた彼の鞄を引っ張った。
「鞄、持つよ。歩くの、だるそうだから」
「いい」
「遠慮するなよ」
「俺がおまえの鞄を持ってやるならともかく、おまえに俺が鞄を持ってもらうなんてのは解釈違いなんだよ。受け入れらんねえ」
「なんの解釈違いだよ」
相手が女の子なら理解できなくもないけど。
もしかして俺を女扱いしてるんだろうか。
こっちの方こそ到底受け入れがたい言い分に思わず気色ばむと、佑士が楽しげに耳打ちしてきた。
「こういうのは惚れた方が持つもんなんだよ。今日はさすがに持ってやれないから、また今度な」
そ、う、ですか……。
俺はうつむくしかない。
「……佑士が俺の鞄持ってたらさ、クラスのやつとかになんか言われそう……」
「言わせておけばいいんじゃね」
「……今度な、ってことは、また一緒に帰るの……?」
「おまえが嫌じゃないねえなら」
ずるい。
言い回しが、甘ったるい口調が、いつになく柔らかい雰囲気が、もう全部ずるいって。
人けのない廊下で、二人きり。
ともすればお互いの体のどこかが触れ合うほど間近にいるなんて、最近は全然なかった。
居心地が悪いような、どこかむずがゆくなる沈黙が落ちてきて、俺は意味もなく辺りを見回す。三年生が自由登校になった三学期の高校特有の閑散とした雰囲気と、締め切っているはずの窓のわずかな隙間を狙って吹き込んでくる、かぼそい真冬の風。その悲鳴めいた音がやけに耳についた。
対する佑士は、特に気まずさなんて覚えていないみたいだ。
いや、体調不良のせいかもしれない。具合が悪い時って、何もかもがどうでもよくなって大胆になりがちだから。少なくとも俺はそうだ。
ただ、その割に佑士、元気そうなんだよな。本人が言った通り、ひと眠りしてだいぶ回復したんだろうか。
言葉少なに昇降口を出て、校門前から駅まで続く、ゆるやかな坂道を降りていく。その間も俺たちの距離は普段よりずっと近くて、あんなこと——キスをされた後なのに、この近さがちっとも嫌じゃない。そんな自分が不思議だった。
各駅停車しか止まらない最寄り駅に到着したと思ったら、タッチの差で電車のベルが鳴り終わった。無情にも、すぐ目の前で閉まったドアを恨めしい気持ちで睨んでいてもどうにもならないので、ベンチに佑士を座らせ、自販機のボカリを買って渡す。佑士は素直に礼を言って受け取った。
寒風に晒されながらしばらく待ち、やっと到着した電車に急いで乗り込むと、佑士はちょうど空いていた六人掛け座席の一番端に座り、その隣へ俺の制服の裾を掴んで座らせた。
「そこ、ドアが開閉する場所だから寒くないか? 変わろうか」
「そうすると玲が寒いだろ。俺はおまえで暖を取るからいい」
宣言と同時に、俺の左肩へ佑士の頭が乗せられた。
人肌の温かさとともに、ほどよい重みがかかる。嗅ぎなれたヘアスタイリング剤のシトラス系の香料と、佑士本人の匂いが混ざって鼻腔をくすぐる。知っているはずなのに、どこか緊張を呼ぶ香り。
「おい、佑士っ」
「やっぱだるいし寝るわ。乗り換え駅の一個手前に着いたら起こして」
俺の抗議を強引に捻じ伏せて目を閉じた佑士は、結局、残り二つの路線でも同じことを繰り返した。
