うちは徒歩やチャリ通の生徒が多いから、並木通りを下るうちに、学生の姿が段々まばらになってくる。
物理的に学校から離れると、今朝の一幕のせいで全身にのしかかった重苦しさが薄れてきた気がして、俺は胸を撫でおろした。
「なあ、学校で話しかけるのは控えめにしてな。俺も自分の行動には気をつけるからさ」
「家では兄弟やってやるんだから、少しは我慢しろよ」
「そうだ、聞きたかったんだ。なんで、家では兄弟なの? 逆でいいのに」
佑士が目を真ん丸にして俺を見た。
そういう表情をすると、若干幼い感じになるな。
「家でくらいは兄弟じゃないと、おまえの気が抜ける場所がなくなるだろ」
俺の、ため?
「俺のせいで家に帰りたくなくなる、なんてことにはしたくねえんだよ。俺の気遣い、全然伝わってねえのな」
「ご、ごめんって」
額に手を当てて嘆く佑士をなだめながら、俺の胸の内は温かいもので満たされていく。
そうか、そうなのか。
家では兄弟っていうのは、佑士の優しさだったんだ。確かに、外ならともかく、自宅でまで佑士がこの態度だったら、俺の気持ちは休まらなくなってしまう。佑士は逃げ場を作ってくれてるんだ。
臍を曲げていたかに見えた佑士が、ふと、口の端だけで微笑んだ。
俺の前髪を軽く引っ張る。
「その反応、期待しそうになる」
「え?」
「顔。赤い」
俺は佑士の指先から前髪を取り返した。
「赤くない!」
「はは。じゃあ、そういうことにしといてやるよ」
半歩前を歩きながら余裕ぶって肩をそびやかした佑士が、ふと思いついたような素振りで宙を振り仰いだ。
「なあ、玲。今度どっか遊びに行かね?」
何でもない様子で告げながら、しきりにマフラーを鼻先まで引き上げる仕草を繰り返す。あからさまに落ち着きがない。
意外だ。
佑士は、こういう誘い、もっとスマートにこなすんだと思ってた。
「あー、……デートに誘ってんだけど」
わざわざ言い換えなくても、しっかり通じてるよ。
口元がむずむずする。
もしかしたら今時、小学生男子の方が、もっと臆面もなく約束を取りつけるのかもしれない。
でも、俺にはこの不器用さが響いた。こなれてない、どこか気恥ずかしそうな感じが良かった。
「行く」
「……マジで?」
「うん。行く。……デート、お試しのやつ」
「いい、いい、お試しでもなんでもいい。軽い感じでいい。……じゃあ、行こうぜ。どこにすっかな……」
首の後ろに手を回して襟足をいじりながら独りごちた佑士に、
「無難に映画とか、どうかな」
と提案してみると、一転して渋い顔つきで睨まれた。
「おまえ、暗いところ苦手だろ。映画館は好きじゃないって言ってたよな」
「よく覚えてるな」
「狭いところも好きじゃない」
「……そうだよ。すげえな、詳しい」
俺の実の父親は、外面が良い反面、家庭内では暴力をふるう男だった。
矛先が向かうのは主に母さんで、止めに入ると、俺を庇った母さんへの当たりが余計にきつくなることを悟ってからは、逃げるように押し入れにこもることが多くなった。
母さんが家にいる時は、一緒に外へ避難する日もあった。ただ、パートで不在の日なんかは独り、暗い押し入れで息を殺していた。
父が俺を、薄暗い四畳半の明滅する灯りの下へ引き摺り出す日は、そう多くなかった。
大概は、居間に陣取って酒を煽りながら、ぶつぶつと管をまいていた。
それでも、いつ父が気を変えて焼けた畳の部屋へ足を向けるのかと、布団の間に潜りながら、常に脅えていた。襖が開くことがないよう、かすかな隙間を凝視していた。まばたきも忘れて。
母さんが帰ってくるのが待ち遠しくてたまらなくて、でも、帰宅した母さんがまた手を上げられるくらいなら、もう帰ってこなくてもいいとも思った。
光の射さない押し入れは、俺を守る繭であると同時に、恐怖の象徴そのものだった。
この話を佑士にしたのは、今の家に来てすぐの頃、一回きりだ。詳しい内容を告げた記憶もない。俺自身、まだ「過去」として消化できていない事柄だから。
「好きな奴の話は忘れねえだろ、普通。些細なことも、そうじゃないことも」
佑士。
俺はさ、怖いんだ。
高校生になった今でも、あの古びたアパートの押し入れへ、まだ隠れてるように錯覚する瞬間がある。
母さんが一度は選んだ人のはずなのに、父は母さんを何度も殴った。髪を掴んで引きずり回した。そんな時に見上げた男は、体中に回った日本酒のせいか、肌が赤黒く染まった鬼みたいに見えた。
あの人は、俺たちの心を踏みつけにした。わずかな笑顔の記憶なんて簡単に塗りつぶされた。そう、笑顔を見せてくれたことだってあったのに。
人の本当は、外側からじゃ見抜けない。
佑士が優しい奴だって知ってる。知ってるのに、信じられたらいいのに、俺は、きっとどこかで疑ってる。
それに俺にも、半分あの父親の血が流れてるんだ。
俺は、誰かに大切にされるだろうか。
ぼろ雑巾みたいに扱われないだろうか。
俺は、自分じゃない誰かを大切にできるだろうか。
大切な人を、がらくたみたいに扱ってしまわないだろうか。
……ずっと、怖いんだ。
「映画にしよう。映画がいい、無難だし」
急に口数が減った俺の様子に気づいたのか、佑士がなおも食い下がる。
「水族館とかじゃなくていいのか」
「うん。観たい新作あるし」
「行き先変えたくなったら言えよ」
「大丈夫。映画終わったらさ、ちょっと服でも見に行かない?」
「じゃあ、駅前んとこじゃなくてショッピングモールの映画館にするか。映画の前か後に、なんか食ってもいいし」
「そうするか。いつにしよっか、佑士のバイトがない日がいいよね」
「あー、なら、来週の日曜の昼間は? 予定あるか?」
「いいよ、俺は全然暇だし、空いてる。……楽しみ、だな」
最後に小さく付け加えた言葉に、佑士が再度、声を出して笑ったから、俺はこれで良かったんだと下手くそな作り笑いを返した。
物理的に学校から離れると、今朝の一幕のせいで全身にのしかかった重苦しさが薄れてきた気がして、俺は胸を撫でおろした。
「なあ、学校で話しかけるのは控えめにしてな。俺も自分の行動には気をつけるからさ」
「家では兄弟やってやるんだから、少しは我慢しろよ」
「そうだ、聞きたかったんだ。なんで、家では兄弟なの? 逆でいいのに」
佑士が目を真ん丸にして俺を見た。
そういう表情をすると、若干幼い感じになるな。
「家でくらいは兄弟じゃないと、おまえの気が抜ける場所がなくなるだろ」
俺の、ため?
「俺のせいで家に帰りたくなくなる、なんてことにはしたくねえんだよ。俺の気遣い、全然伝わってねえのな」
「ご、ごめんって」
額に手を当てて嘆く佑士をなだめながら、俺の胸の内は温かいもので満たされていく。
そうか、そうなのか。
家では兄弟っていうのは、佑士の優しさだったんだ。確かに、外ならともかく、自宅でまで佑士がこの態度だったら、俺の気持ちは休まらなくなってしまう。佑士は逃げ場を作ってくれてるんだ。
臍を曲げていたかに見えた佑士が、ふと、口の端だけで微笑んだ。
俺の前髪を軽く引っ張る。
「その反応、期待しそうになる」
「え?」
「顔。赤い」
俺は佑士の指先から前髪を取り返した。
「赤くない!」
「はは。じゃあ、そういうことにしといてやるよ」
半歩前を歩きながら余裕ぶって肩をそびやかした佑士が、ふと思いついたような素振りで宙を振り仰いだ。
「なあ、玲。今度どっか遊びに行かね?」
何でもない様子で告げながら、しきりにマフラーを鼻先まで引き上げる仕草を繰り返す。あからさまに落ち着きがない。
意外だ。
佑士は、こういう誘い、もっとスマートにこなすんだと思ってた。
「あー、……デートに誘ってんだけど」
わざわざ言い換えなくても、しっかり通じてるよ。
口元がむずむずする。
もしかしたら今時、小学生男子の方が、もっと臆面もなく約束を取りつけるのかもしれない。
でも、俺にはこの不器用さが響いた。こなれてない、どこか気恥ずかしそうな感じが良かった。
「行く」
「……マジで?」
「うん。行く。……デート、お試しのやつ」
「いい、いい、お試しでもなんでもいい。軽い感じでいい。……じゃあ、行こうぜ。どこにすっかな……」
首の後ろに手を回して襟足をいじりながら独りごちた佑士に、
「無難に映画とか、どうかな」
と提案してみると、一転して渋い顔つきで睨まれた。
「おまえ、暗いところ苦手だろ。映画館は好きじゃないって言ってたよな」
「よく覚えてるな」
「狭いところも好きじゃない」
「……そうだよ。すげえな、詳しい」
俺の実の父親は、外面が良い反面、家庭内では暴力をふるう男だった。
矛先が向かうのは主に母さんで、止めに入ると、俺を庇った母さんへの当たりが余計にきつくなることを悟ってからは、逃げるように押し入れにこもることが多くなった。
母さんが家にいる時は、一緒に外へ避難する日もあった。ただ、パートで不在の日なんかは独り、暗い押し入れで息を殺していた。
父が俺を、薄暗い四畳半の明滅する灯りの下へ引き摺り出す日は、そう多くなかった。
大概は、居間に陣取って酒を煽りながら、ぶつぶつと管をまいていた。
それでも、いつ父が気を変えて焼けた畳の部屋へ足を向けるのかと、布団の間に潜りながら、常に脅えていた。襖が開くことがないよう、かすかな隙間を凝視していた。まばたきも忘れて。
母さんが帰ってくるのが待ち遠しくてたまらなくて、でも、帰宅した母さんがまた手を上げられるくらいなら、もう帰ってこなくてもいいとも思った。
光の射さない押し入れは、俺を守る繭であると同時に、恐怖の象徴そのものだった。
この話を佑士にしたのは、今の家に来てすぐの頃、一回きりだ。詳しい内容を告げた記憶もない。俺自身、まだ「過去」として消化できていない事柄だから。
「好きな奴の話は忘れねえだろ、普通。些細なことも、そうじゃないことも」
佑士。
俺はさ、怖いんだ。
高校生になった今でも、あの古びたアパートの押し入れへ、まだ隠れてるように錯覚する瞬間がある。
母さんが一度は選んだ人のはずなのに、父は母さんを何度も殴った。髪を掴んで引きずり回した。そんな時に見上げた男は、体中に回った日本酒のせいか、肌が赤黒く染まった鬼みたいに見えた。
あの人は、俺たちの心を踏みつけにした。わずかな笑顔の記憶なんて簡単に塗りつぶされた。そう、笑顔を見せてくれたことだってあったのに。
人の本当は、外側からじゃ見抜けない。
佑士が優しい奴だって知ってる。知ってるのに、信じられたらいいのに、俺は、きっとどこかで疑ってる。
それに俺にも、半分あの父親の血が流れてるんだ。
俺は、誰かに大切にされるだろうか。
ぼろ雑巾みたいに扱われないだろうか。
俺は、自分じゃない誰かを大切にできるだろうか。
大切な人を、がらくたみたいに扱ってしまわないだろうか。
……ずっと、怖いんだ。
「映画にしよう。映画がいい、無難だし」
急に口数が減った俺の様子に気づいたのか、佑士がなおも食い下がる。
「水族館とかじゃなくていいのか」
「うん。観たい新作あるし」
「行き先変えたくなったら言えよ」
「大丈夫。映画終わったらさ、ちょっと服でも見に行かない?」
「じゃあ、駅前んとこじゃなくてショッピングモールの映画館にするか。映画の前か後に、なんか食ってもいいし」
「そうするか。いつにしよっか、佑士のバイトがない日がいいよね」
「あー、なら、来週の日曜の昼間は? 予定あるか?」
「いいよ、俺は全然暇だし、空いてる。……楽しみ、だな」
最後に小さく付け加えた言葉に、佑士が再度、声を出して笑ったから、俺はこれで良かったんだと下手くそな作り笑いを返した。
