っしゅ、と家を出る前に佑士が玄関先でくしゃみをした。
三学期が始まって二週目の朝、それも魔の月曜日。冬休みが明けて、一番体調を崩しやすい時期だ。現在の気温はマイナス。正直、俺はもう一度布団の中に潜り込みたい。
ダッフルコートを着込んでいる俺に対し、佑士はざっくりした編み目のグレーのカーディガンのみ。そんな軽装でいいのか聞いてみたいけど、普段から真冬でも薄着で飄々としているから、問題ないんだろう。
その佑士が、鼻をすすっている。
「やべえ、風邪引いたかも」
独り言なのか、俺に話しかけたのか、判断がつかない。
でも、家の中だったら佑士は比較的普通だ。
普通に俺と『兄弟』をしてくれる。
「……大丈夫?」
「ああ、ちょっと熱っぽいだけ」
「え、熱あんの?」
俺は佑士の額へ手を伸ばそうとした。
靴を履き終えた俺が身を寄せた分、佑士が大きく身を引く。はずみでドアに肩が当たったらしく、がん、と大きな音がした。
——避けられた。
上げた右手の行き場がなくなって、しばらく固まったのち、俺は力なく手をおろした。
「あ……ごめん」
「——いや、別に。謝んな」
家での佑士は、学校での佑士みたいに俺を空気扱いしない。話もするし、一緒にリビングでくつろぐことだってある。
でも、家族になり立ての頃みたいな接触は減った。男友達が増えたような、あの心浮き立つ感覚はなくなってしまって、『途中からの家族』のぎこちなさだけが残った。
義父さんと母さんは事実婚だ。
佑士の父さんは、万が一にもバツ三になるのを避けるため。俺の母さんは、俺の実の父親によるDVのトラウマから、この家族の形を選んだ。
——振り回されるのは、結局俺らだな。
出会った時、小六だった佑士は、もう今みたいな冷めた眼差しをしていた。真っ黒な瞳に、やっぱり真っ黒な髪。肩近くまで伸びた髪が、より一層彼を大人びて見せていた。子供心に、綺麗な顔をしているな、と思った。
——でも、苗字を変えなくてもいいのはラッキーかも。変にからかわれなくてすむしさ。
佑士のベッドの縁に座った俺がそう返すと、学習机の椅子の上で片膝を立てた佑士は、そういう考え方もあんのな、と頷いた。
俺と母さんが佑士たちの家に転がり込む形で、今の家族は始まった。
他人に関心がなさそうな見た目に反して、佑士は俺たち母子に気を配ってくれた。母さんを、ちゃんと母と呼び、転校生の俺の世話を焼いた。
兄弟になったと積極的に話さなくても、噂なんてすぐ広まる。俺と佑士の関係性は、小学校ではみんなが知っていた。
隣のクラスから迎えにくる佑士に、クラスの女子が「いいなあ」と唇を尖らせた。子供っぽい仕草とは裏腹な、大人めいた『女』の顔が、今でも記憶に焼きついている。
そのまま中一の夏休み前くらいまでは、佑士と帰っていた。朝も、時間が合えば一緒に登校した。
「部活に入ったから帰れなくなる」と言われた時は、少しだけ驚いた。佑士は写真部の幽霊部員だ。部活なんてだりぃと、運動部の勧誘を断っていたから。
「バスケ部の勧誘、断りきれなくなった」
——いいじゃん、バスケ。佑士、運動神経いいし、背も高いしさ、向いてそう。
紡がれた言葉をそのまま信じた。
入部して一か月も経たず、佑士は部活を辞めた。
なし崩しに、俺と帰る機会もなくなった。
気づけば、佑士の周りは学年でも一軍の男子たちが固めていて、目立たない俺の入る余地なんてなかった。多分、そんな場所、最初からありはしなかった。
ただ、手を放されても俺と佑士は兄弟だった。帰る家が同じだった。
佑士の帰りは日に日に遅くなり、母さんの笑顔が曇る。
——俺たちのせいなんじゃないか。俺と母さんがいるから、家に居づらいんじゃないのか。
遅い夕食を終えた頃にやっと帰宅した佑士を捕まえて、俺の部屋へ連れ込み、そう問いただした。中二の終わりのことだ。
俺はこの世の終わりみたいな顔になってたと思う。
佑士は、少しだけ表情を変えた。血なんか一滴も繋がってない。でも、兄弟になった。確かに兄弟として過ごしてきたんだ。——しまった、っていう目を、彼はした。
「……友達んとこ入り浸って遊ぶの楽しかったから、羽目外しすぎた。明日からは普通に帰るようにするから、心配すんなって母さんに伝えといて。——あと、心配はしてなかったかもしれないけど、玲、おまえも」
「俺は別に、心配は、してなかった」
「……そ、か」
玲。
久しぶりに、佑士から名前を呼ばれた。
それから約束通り、佑士はほぼ毎日、まっすぐ家へ帰ってくるようになった。
でも、俺と佑士の間には不可視の境界線が引かれた気がした。
俺たちは本当の兄弟じゃない。
友人でもない。
ただの他人なんだ。
不本意な同居人。少なくとも、佑士は俺に対してそう思ってる。
気づいてしまったら、もう駄目だった。俺は佑士に対してどう接すればいいのか分からなくなってしまった。
反対に佑士は、積極的にリビングでくつろぎ出して、俺たちと家族を演じてくれるようになった。
佑士が笑う、昔みたいに。
俺も笑う。息が苦しい。まるで水の中にいるみたいだ。口を開いても声が出ない。あぶくしか吐き出せない。どうして佑士は平気そうなんだろう。俺と同じ水にいるはずなのに。
少しでも楽に呼吸がしたくて、高校は別のところにしようと馴染みの薄い場所にした。地元の人間が行かないような距離の。
なのに結局、佑士も俺と同じ高校を選んだ。
そのくせ「高校では、苗字が違うのか突っ込まれると色々面倒くせぇから、他人のふりな」なんて言って、俺を努力ごと打ちのめした。
俺は完璧な兄弟をやりたいのに、佑士は協力してくれない。
伸ばした手は、届かない。
——いつの間にかまた、佑士は笑ってくれなくなっていた。
閉まった扉の向こうで、もう一度、くしゃみが聞こえた。
三学期が始まって二週目の朝、それも魔の月曜日。冬休みが明けて、一番体調を崩しやすい時期だ。現在の気温はマイナス。正直、俺はもう一度布団の中に潜り込みたい。
ダッフルコートを着込んでいる俺に対し、佑士はざっくりした編み目のグレーのカーディガンのみ。そんな軽装でいいのか聞いてみたいけど、普段から真冬でも薄着で飄々としているから、問題ないんだろう。
その佑士が、鼻をすすっている。
「やべえ、風邪引いたかも」
独り言なのか、俺に話しかけたのか、判断がつかない。
でも、家の中だったら佑士は比較的普通だ。
普通に俺と『兄弟』をしてくれる。
「……大丈夫?」
「ああ、ちょっと熱っぽいだけ」
「え、熱あんの?」
俺は佑士の額へ手を伸ばそうとした。
靴を履き終えた俺が身を寄せた分、佑士が大きく身を引く。はずみでドアに肩が当たったらしく、がん、と大きな音がした。
——避けられた。
上げた右手の行き場がなくなって、しばらく固まったのち、俺は力なく手をおろした。
「あ……ごめん」
「——いや、別に。謝んな」
家での佑士は、学校での佑士みたいに俺を空気扱いしない。話もするし、一緒にリビングでくつろぐことだってある。
でも、家族になり立ての頃みたいな接触は減った。男友達が増えたような、あの心浮き立つ感覚はなくなってしまって、『途中からの家族』のぎこちなさだけが残った。
義父さんと母さんは事実婚だ。
佑士の父さんは、万が一にもバツ三になるのを避けるため。俺の母さんは、俺の実の父親によるDVのトラウマから、この家族の形を選んだ。
——振り回されるのは、結局俺らだな。
出会った時、小六だった佑士は、もう今みたいな冷めた眼差しをしていた。真っ黒な瞳に、やっぱり真っ黒な髪。肩近くまで伸びた髪が、より一層彼を大人びて見せていた。子供心に、綺麗な顔をしているな、と思った。
——でも、苗字を変えなくてもいいのはラッキーかも。変にからかわれなくてすむしさ。
佑士のベッドの縁に座った俺がそう返すと、学習机の椅子の上で片膝を立てた佑士は、そういう考え方もあんのな、と頷いた。
俺と母さんが佑士たちの家に転がり込む形で、今の家族は始まった。
他人に関心がなさそうな見た目に反して、佑士は俺たち母子に気を配ってくれた。母さんを、ちゃんと母と呼び、転校生の俺の世話を焼いた。
兄弟になったと積極的に話さなくても、噂なんてすぐ広まる。俺と佑士の関係性は、小学校ではみんなが知っていた。
隣のクラスから迎えにくる佑士に、クラスの女子が「いいなあ」と唇を尖らせた。子供っぽい仕草とは裏腹な、大人めいた『女』の顔が、今でも記憶に焼きついている。
そのまま中一の夏休み前くらいまでは、佑士と帰っていた。朝も、時間が合えば一緒に登校した。
「部活に入ったから帰れなくなる」と言われた時は、少しだけ驚いた。佑士は写真部の幽霊部員だ。部活なんてだりぃと、運動部の勧誘を断っていたから。
「バスケ部の勧誘、断りきれなくなった」
——いいじゃん、バスケ。佑士、運動神経いいし、背も高いしさ、向いてそう。
紡がれた言葉をそのまま信じた。
入部して一か月も経たず、佑士は部活を辞めた。
なし崩しに、俺と帰る機会もなくなった。
気づけば、佑士の周りは学年でも一軍の男子たちが固めていて、目立たない俺の入る余地なんてなかった。多分、そんな場所、最初からありはしなかった。
ただ、手を放されても俺と佑士は兄弟だった。帰る家が同じだった。
佑士の帰りは日に日に遅くなり、母さんの笑顔が曇る。
——俺たちのせいなんじゃないか。俺と母さんがいるから、家に居づらいんじゃないのか。
遅い夕食を終えた頃にやっと帰宅した佑士を捕まえて、俺の部屋へ連れ込み、そう問いただした。中二の終わりのことだ。
俺はこの世の終わりみたいな顔になってたと思う。
佑士は、少しだけ表情を変えた。血なんか一滴も繋がってない。でも、兄弟になった。確かに兄弟として過ごしてきたんだ。——しまった、っていう目を、彼はした。
「……友達んとこ入り浸って遊ぶの楽しかったから、羽目外しすぎた。明日からは普通に帰るようにするから、心配すんなって母さんに伝えといて。——あと、心配はしてなかったかもしれないけど、玲、おまえも」
「俺は別に、心配は、してなかった」
「……そ、か」
玲。
久しぶりに、佑士から名前を呼ばれた。
それから約束通り、佑士はほぼ毎日、まっすぐ家へ帰ってくるようになった。
でも、俺と佑士の間には不可視の境界線が引かれた気がした。
俺たちは本当の兄弟じゃない。
友人でもない。
ただの他人なんだ。
不本意な同居人。少なくとも、佑士は俺に対してそう思ってる。
気づいてしまったら、もう駄目だった。俺は佑士に対してどう接すればいいのか分からなくなってしまった。
反対に佑士は、積極的にリビングでくつろぎ出して、俺たちと家族を演じてくれるようになった。
佑士が笑う、昔みたいに。
俺も笑う。息が苦しい。まるで水の中にいるみたいだ。口を開いても声が出ない。あぶくしか吐き出せない。どうして佑士は平気そうなんだろう。俺と同じ水にいるはずなのに。
少しでも楽に呼吸がしたくて、高校は別のところにしようと馴染みの薄い場所にした。地元の人間が行かないような距離の。
なのに結局、佑士も俺と同じ高校を選んだ。
そのくせ「高校では、苗字が違うのか突っ込まれると色々面倒くせぇから、他人のふりな」なんて言って、俺を努力ごと打ちのめした。
俺は完璧な兄弟をやりたいのに、佑士は協力してくれない。
伸ばした手は、届かない。
——いつの間にかまた、佑士は笑ってくれなくなっていた。
閉まった扉の向こうで、もう一度、くしゃみが聞こえた。
