◆ ◆ ◆
病み上がりの木曜日、朝の玄関先。只今の時刻は七時ぴったり。
いつもなら頑として俺より一本遅い電車に乗るはずの佑士が、珍しく姿を見せている。どころか、靴を履き終わっているくせに、上がり框に座ったまま動こうとしない。
俺は引きつった顔で佑士を見下ろした。
「……今日はやけに早いですね、佑士さん」
「んー? そういう気分?」
——いや、絶対違うだろ。
心の中で毒づきながら、佑士の背中を押して無理やり立たせ、やっと空いたスペースでスニーカーを履く。
「……佑士は何時の電車に乗んの? そろそろ急がないと十五分の快速に乗り遅れるけど」
「俺は快速でも、そのあとの二十八分のでもどっちでもいいわ」
「……へー、そう」
俺は遅刻ぎりぎりに駆け込むのなんか嫌いだから、先発の快速電車に乗りたい。
戸口を塞ぐように立っていた佑士を軽く押しのけて、外へ出る。
玄関も寒かったけど、外気はさらに冷たくて、吐く息が真っ白だ。思わず背筋が曲がる。病み上がりだし、コートだけじゃ心もとない。マフラーも持ってこようかな、と立ち止まったところで、ふいに後ろから何かが首に巻かれた。
「うわっ」
「くすぐったかったか? 悪ィ」
勢いよく振り返ると、少しも悪くなさそうに、むしろ笑いを噛み殺したような揺らぎを孕んだ声で謝ってきた佑士がいた。睨もうとしたものの、子供の頃に見ただけの屈託のない笑顔を向けられてしまったら、もう黙るほかない。
今日の佑士は珍しくコートを着込んでるし、返すのも気が引ける。
俺は佑士の匂いがするマフラーに顎をうずめた。
彼がいつも使ってる、あのダークグリーンのマフラーだ。
「……貸してくれんの?」
「快速に乗るんだろ。部屋まで取りに戻ったら間に合わねえから、それ巻いてろよ」
「……電車に乗るまで借りる」
「遠慮すんなよ、何なら学校まで使ってっていいぜ」
「おまえの友達にすごい目で見られそうだから、絶対やだ。戸館とかさ」
「戸館、ね。——あいつがどんな反応しようとどうでもいいけどな、俺は」
予想外にひどく冷めた台詞が返ってきたから、俺はいつの間にか横に並んだ佑士を見やる。
「友達じゃないの? じゃあ坂下とか野田、あとAクラスの、ほら、茶髪センター分けの奴は?」
「坂下と野田は、まあ友人か。菅原は悪友。高校だと菅原が一番仲いいかもな」
「菅原たちは友達のくくりなのに、戸館は違うんだ。クラスでは大体一緒にいるのに」
「向こうが勝手に寄ってくるだけで、あいつとは別に仲良くはねえな。同じクラスじゃなきゃ、つるまねえと思う」
当事者じゃない俺には、戸館とその他の友人との違いがよくわからない。
まあ、俺も戸館のどこか人を見下したような雰囲気は苦手なんだけど。
首をひねると、佑士は口元だけで笑った。あんまり俺が好きじゃない感じの笑い方だ。相手に理解してもらうことを、そもそも放棄した表情。
そういえば佑士って、この手の顔、よくするよな。
今まで俺に向けていたのも、徹底した無関心の眼差しだった。
「……佑士」
「ん?」
「もしも、だけど。俺が、おまえの気持ち……受け入れられなかったらさ、戸館相手みたいに一線引いて接するの」
佑士が目を見開く。
「おまえは、戸館とは立場も考え方も違うだろ。全然ちげえよ」
「あいつはクラスメートだから切り捨てられるけど、俺は兄弟だから切り捨てられないってこと?」
「切り捨てるってなんだよ。でもまあ、俺たちが兄弟っていうのは事実だし、どうしたって切り離せねえよな。そのうち、親父たちも籍入れそうだし」
「え、母さんたち、そんな話になってんの?」
「こないだファミレスで夕飯食った時、二人して『そろそろ届を出してもいいかな』って言い合いながらアイコンタクトしてただろ。あれ、俺らにお伺い立ててたんだよ。まさかおまえ、全ッ然聞いてなかった訳か?」
「ロイホーはやっぱり美味いよなあ、しか記憶がない……」
「目先の肉しか見えてなかったのかよ……」
「ステーキもだけど、カニクリームコロッケ絶品だったんだもん。エビフライもさあ、さくっとじゅわっとしてて、冷凍のとはやっぱ違うのな」
あれ、なんか話が脱線してきてる。
途中で佑士も気がついたのか、とにかく、と修正を試みてきた。
「おまえが——断ったとしても、なるべく普通に接するようにするから。……朝からこの話題はやめようぜ。正直、ふられるの前提の話されたら落ち込んでくるんだわ。あー、もう家帰りてえな……」
「もしも、って前置きしたじゃん!」
「あんま期待させるのもやめろよ。余計ショックがでかくなるから」
「じゃあどうしろって言うんだよ!」
「答えはまだ先でいいって言っただろ。今は深く考えんなって」
病み上がりの木曜日、朝の玄関先。只今の時刻は七時ぴったり。
いつもなら頑として俺より一本遅い電車に乗るはずの佑士が、珍しく姿を見せている。どころか、靴を履き終わっているくせに、上がり框に座ったまま動こうとしない。
俺は引きつった顔で佑士を見下ろした。
「……今日はやけに早いですね、佑士さん」
「んー? そういう気分?」
——いや、絶対違うだろ。
心の中で毒づきながら、佑士の背中を押して無理やり立たせ、やっと空いたスペースでスニーカーを履く。
「……佑士は何時の電車に乗んの? そろそろ急がないと十五分の快速に乗り遅れるけど」
「俺は快速でも、そのあとの二十八分のでもどっちでもいいわ」
「……へー、そう」
俺は遅刻ぎりぎりに駆け込むのなんか嫌いだから、先発の快速電車に乗りたい。
戸口を塞ぐように立っていた佑士を軽く押しのけて、外へ出る。
玄関も寒かったけど、外気はさらに冷たくて、吐く息が真っ白だ。思わず背筋が曲がる。病み上がりだし、コートだけじゃ心もとない。マフラーも持ってこようかな、と立ち止まったところで、ふいに後ろから何かが首に巻かれた。
「うわっ」
「くすぐったかったか? 悪ィ」
勢いよく振り返ると、少しも悪くなさそうに、むしろ笑いを噛み殺したような揺らぎを孕んだ声で謝ってきた佑士がいた。睨もうとしたものの、子供の頃に見ただけの屈託のない笑顔を向けられてしまったら、もう黙るほかない。
今日の佑士は珍しくコートを着込んでるし、返すのも気が引ける。
俺は佑士の匂いがするマフラーに顎をうずめた。
彼がいつも使ってる、あのダークグリーンのマフラーだ。
「……貸してくれんの?」
「快速に乗るんだろ。部屋まで取りに戻ったら間に合わねえから、それ巻いてろよ」
「……電車に乗るまで借りる」
「遠慮すんなよ、何なら学校まで使ってっていいぜ」
「おまえの友達にすごい目で見られそうだから、絶対やだ。戸館とかさ」
「戸館、ね。——あいつがどんな反応しようとどうでもいいけどな、俺は」
予想外にひどく冷めた台詞が返ってきたから、俺はいつの間にか横に並んだ佑士を見やる。
「友達じゃないの? じゃあ坂下とか野田、あとAクラスの、ほら、茶髪センター分けの奴は?」
「坂下と野田は、まあ友人か。菅原は悪友。高校だと菅原が一番仲いいかもな」
「菅原たちは友達のくくりなのに、戸館は違うんだ。クラスでは大体一緒にいるのに」
「向こうが勝手に寄ってくるだけで、あいつとは別に仲良くはねえな。同じクラスじゃなきゃ、つるまねえと思う」
当事者じゃない俺には、戸館とその他の友人との違いがよくわからない。
まあ、俺も戸館のどこか人を見下したような雰囲気は苦手なんだけど。
首をひねると、佑士は口元だけで笑った。あんまり俺が好きじゃない感じの笑い方だ。相手に理解してもらうことを、そもそも放棄した表情。
そういえば佑士って、この手の顔、よくするよな。
今まで俺に向けていたのも、徹底した無関心の眼差しだった。
「……佑士」
「ん?」
「もしも、だけど。俺が、おまえの気持ち……受け入れられなかったらさ、戸館相手みたいに一線引いて接するの」
佑士が目を見開く。
「おまえは、戸館とは立場も考え方も違うだろ。全然ちげえよ」
「あいつはクラスメートだから切り捨てられるけど、俺は兄弟だから切り捨てられないってこと?」
「切り捨てるってなんだよ。でもまあ、俺たちが兄弟っていうのは事実だし、どうしたって切り離せねえよな。そのうち、親父たちも籍入れそうだし」
「え、母さんたち、そんな話になってんの?」
「こないだファミレスで夕飯食った時、二人して『そろそろ届を出してもいいかな』って言い合いながらアイコンタクトしてただろ。あれ、俺らにお伺い立ててたんだよ。まさかおまえ、全ッ然聞いてなかった訳か?」
「ロイホーはやっぱり美味いよなあ、しか記憶がない……」
「目先の肉しか見えてなかったのかよ……」
「ステーキもだけど、カニクリームコロッケ絶品だったんだもん。エビフライもさあ、さくっとじゅわっとしてて、冷凍のとはやっぱ違うのな」
あれ、なんか話が脱線してきてる。
途中で佑士も気がついたのか、とにかく、と修正を試みてきた。
「おまえが——断ったとしても、なるべく普通に接するようにするから。……朝からこの話題はやめようぜ。正直、ふられるの前提の話されたら落ち込んでくるんだわ。あー、もう家帰りてえな……」
「もしも、って前置きしたじゃん!」
「あんま期待させるのもやめろよ。余計ショックがでかくなるから」
「じゃあどうしろって言うんだよ!」
「答えはまだ先でいいって言っただろ。今は深く考えんなって」
